第53話 奇妙な友情
「いた」
通りの向こうからそう聞こえた時、小夜は嫌な予感しかしなかった。
吉法師は団子屋の軒先で焼き立ての団子を眺めていたところだった。昼の城下町は昨日の騒ぎなど最初からなかったような顔をしている。魚屋は魚を並べ、鍛冶屋は槌を鳴らし、女たちは井戸端で話し込んでいる。だが、その人の流れを割るようにして、一人の若武者がこちらへ歩いてきていた。
前田利家である。
昨日と同じく背が高く、肩が広く、歩き方まで喧嘩腰だ。着物の着崩し方も雑で、腰の刀もきちんと収めているのにどこか荒っぽい。だが今日は、昨日ほど怒りの色が濃くない。むしろ獲物を見つけた犬のような顔をしている。
小夜は額を押さえた。
「また来た」
「うむ」
吉法師は面白そうに振り返る。
「おぬしを探しておった」
利家がそう言って真正面まで来る。
周りの町人たちは、昨日の魚屋の騒ぎを覚えているらしく、早くも半歩ずつ引き始めていた。団子屋の親父は「今度はうちか」という顔で串を返している。
小夜は本気で止めに入るべきか迷った。
昨日の流れなら、ここでまた一触即発でも何もおかしくない。
だが利家は、吉法師の顔を見た次の瞬間、先に笑った。
「殿のくせに面白え」
拍子抜けするほどあっさりとした言い方だった。
吉法師は一瞬だけ目を瞬いたが、すぐに口元を上げる。
「おぬしも面白い」
小夜は、そこでようやく肩の力を少し抜いた。
少なくとも今日は、いきなり殴り合いにはならないらしい。
利家は鼻を鳴らした。
「昨日は邪魔が入ったからな」
「うむ」
「けど、逃げなかったのは気に入った」
「逃げる理由がない」
「普通の餓鬼は逃げる」
「わしは普通ではないらしい」
その返しに、利家がまた笑う。
声が大きい。
笑う時も、怒る時と同じくらい遠慮がない。
「それは見りゃ分かる」
「おぬしもな」
二人の間に流れる空気は、昨日とはもう違っていた。
喧嘩の続きになりそうでならない、妙な熱気だ。拳を交えたあとだからこそ、かえって余計な探りが消えている。
利家は改めて吉法師を見た。
「顔、まだ少し腫れてるな」
「そなたのせいだ」
「お互い様だろ」
たしかに利家の口の端にもまだ薄い傷が残っていた。吉法師の拳が入ったところだ。吉法師はそれを見て、少しだけ満足そうな顔をする。
小夜が横からじろりと見た。
「何でそこで嬉しそうなの」
「一度は届いた証だからな」
「男って本当に面倒」
利家がその言葉を聞いてにやっとする。
「お前、昨日の娘だな」
「そうよ」
「気が強そうだ」
「そっくりそのまま返すわ」
「言うじゃねえか」
「あなたほどじゃない」
利家は愉快そうに笑った。
どうやら小夜の刺々しい返しも嫌いではないらしい。
そこへ団子屋の親父が、恐る恐る声をかけた。
「……団子、食うのかい。食わないのかい」
三人が揃ってそちらを見る。
利家が真っ先に言った。
「食う」
間髪入れずだった。
小夜が呆れる。
「早いわね」
「腹減ってる」
「さっき会ったばっかりでしょうが」
「会う前から減ってる」
吉法師は思わず笑った。
「良い」
利家は真顔で言う。
「腹が減ってる時に食う団子は、だいたい何でもうまい」
「雑ね」
「食い物に理屈は要るか?」
「少しは要るでしょ」
「要らねえ」
そのやり取りが妙に可笑しくて、吉法師は声を立てて笑った。団子屋の親父は、喧嘩にならぬと分かってようやく安堵したらしく、焼き台の前で慌てて串を並べ始める。
三人は店先の腰掛けへ並んだ。
利家は串を受け取るなり、一口目から遠慮がなかった。大きく齧り、熱さに少しだけ顔をしかめ、それでもすぐ二口目へ行く。食い方まで気持ちがいいほど一直線だ。
「うまい」
「早い」
小夜が呟く。
「まだ一串目よ」
「うまいもんは早く食うんだよ」
「誰が決めたの」
「俺」
「勝手すぎる」
吉法師は団子を口へ運びながら、その様子を面白そうに見ていた。
利家は本当に分かりやすい。
食う。
笑う。
怒る。
喧嘩する。
どれも一息だ。
損得で顔を作る男ではない。
嫌いなものは嫌い。気に入れば笑う。腹が減れば食う。そういう人間らしさが、そのまま前へ出ている。
「おぬし、何故わしを探しておった」
吉法師が訊くと、利家は団子をもぐもぐやりながら答えた。
「昨日の続きだ」
「喧嘩か」
「それもある」
「それも?」
利家は飲み込み、口の端を拭ってから言う。
「面白かったからだよ」
あまりにあっさりした答えだった。
「殿とか若とか、そういうの抜きで真正面から来る奴、そうはいねえ」
「おぬしもだろう」
「俺はそういう性分なんだよ」
「わしもたぶん、そうだ」
そこで二人とも少し笑う。
小夜はその横顔を見て、内心で小さくため息をついた。
また面倒なのが増えた。
吉法師だけでも十分厄介だ。
思ったらすぐ動く。
強いものを見れば食いつく。
城の中が息苦しいと言って外へ出る。
そこへ今度は、食って怒って笑って喧嘩するのが全部一本線の若武者まで加わった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
吉法師がここまで楽しそうに他人と笑うのは、案外珍しい。
可成には敬意が混じる。
政秀には反発が混じる。
帰蝶にはまだ探りがある。
だが利家とは違う。ただ真正面からぶつかって、そのまま笑っている。
「何をにやにやしてるの」
小夜が言うと、吉法師は団子を持ったまま振り返った。
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「おぬしは、よく人の顔を見るな」
「それを教えたのは私よ」
利家がその会話を聞いて首を傾げる。
「何の話だ」
「忍びの話」
小夜がさらっと言う。
利家が固まる。
「忍び?」
「そう」
「お前が?」
「そうだけど」
利家はしばらく小夜を見て、それから吉法師を見る。
「お前、何を連れて歩いてんだ」
「見張り役だそうだ」
「そうだそうだ、じゃないのよ」
小夜がすぐ突っ込む。
利家は一瞬だけ真顔になり、それから急に笑い出した。
「何だそりゃ! お前ら、ますます面白えな!」
声が大きいので、団子屋の親父がまた少しびくっとする。
吉法師もつられて笑った。
こうして見ると、利家は単なる荒くれではない。空気を重く引きずらないのだ。怒る時は本気で怒るが、笑う時はすぐ笑う。その切り替えの早さが、妙に清々しい。
「城の中には、こういう奴はおらぬ」
吉法師が言うと、利家が目を細めた。
「城の中は窮屈そうだもんな」
「うむ」
「だったら外へ出りゃいい」
「出ておる」
「ならいいじゃねえか」
利家はあっけらかんとそう言った。
その気楽さが、少しだけ胸に心地よかった。
城の中では、何か言えば意味がつき、何かすれば評判になる。だが利家は、面白いか面白くないかでしか物を見ていないように見える。
小夜はそんな二人を見ながら、やっぱり少しだけ思う。
似ている。
やり方は違う。
吉法師は頭が先へ飛ぶ。
利家は体が先へ飛ぶ。
だが、理屈より先にまっすぐ出るところが同じだ。
「で?」
小夜が言う。
「今日は喧嘩しないの?」
利家が串をくわえたまま笑う。
「してもいいけど、団子がもったいねえ」
「さっきまで魚屋で散々だったくせに」
「あれはあれだ」
「何が」
「魚は許せなかった」
「団子は許せるのね」
「うまいからな」
小夜が呆れ、吉法師が笑う。
その時間は、妙に穏やかだった。
昨日まで喧嘩相手だった男と並んで団子を食っている。
普通ならおかしい。
だが、吉法師にはそれが少しもおかしく感じられなかった。
やがて最後の一串まで食い終えたところで、利家が立ち上がった。
「よし」
「何だ」
「今度はちゃんと決着つけようぜ」
吉法師の目が少し光る。
「槍か」
「槍でも木刀でも何でもいい」
利家は肩を回した。
「昨日みたいに、途中で大人に引き剥がされるのはつまんねえ」
「同感だ」
「じゃあ次だ」
利家は口元を吊り上げる。
「逃げんなよ」
吉法師も笑い返す。
「そなたこそな」
利家は満足そうに鼻を鳴らし、そのまま通りの向こうへ歩いていった。
背は高く、歩き方はやはり荒っぽい。
だが今は、その背が妙に晴れやかに見えた。
小夜がその背を見送りながら呟く。
「本当に、面倒なのが増えた」
「そうか?」
吉法師が訊く。
「そうよ。でも」
小夜は少しだけ間を置いた。
「……悪くはない」
吉法師はそれを聞いて、少しだけ笑った。
城下の昼はまだ賑やかだ。
団子の甘い匂い、人の話し声、荷車の音、その中へ新しい名前が一つ加わった。
前田利家。
喧嘩から始まり、団子で繋がった奇妙な縁。
それはまだ友情と呼ぶには荒っぽいが、たしかに始まっていた。




