書OVER換
体育の授業をサボりにサボっていたので、走るという行為をここ半年ばかりやっていない。
うまくリズムを刻めない。階段が、昇降口の段差が、校庭の砂利やアスファルトの微妙な凹凸が、普段の何倍も大きな起伏となって俺の邪魔をする。ゲーマー故か反射神経だけは絶妙に冷静で、反応速度と機転だけでなんとか、それら障害をかわしつつ。
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さっきまで風呂に入っていたのが嘘のように、寒気を感じた。
あたかもビジネスライクな、まっとうな契約書風の文体で。
一人の人間を、別の誰かに、完全に隷属させるための言葉が連なっている。
「本気なんだな」
マジと読んでもいい。
この契約書を作ったのが加瀬本人なのだとしたら。
彼女は、マジだ。
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放課後になったら、彼女に会おう。
今度は、ちゃんとうまい方のラーメン屋にでも連れてってやろう。もっと話をしよう。また食い物の話だっていいさ。なんだっていい。そうすれば、俺の不安も妄想も、きれいさっぱり、消えてくれるさ。
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ああ。
俺はいつの間にか、越えてはいけない境界を、後戻りの不可能な一線を、踏み越えていたらしい。
してやられた。
こうして。
契約は成立した。
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そうだ。
超えてはいけない、境界だった。
言葉が……おれの吐いた言葉が並んだそれを、水滴が濡らす。
どうしてだ。
七穂を見ることが出来ない。
おれはただ、ページをめくる事しかできない。
ここに書いてある俺は、おれではない。
厳密には、違っている。
だけれど。
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「俺達って、何なんだろうな」
先ほど浮かんだ疑問を直接ぶつけてみた。
すると、体を支えていた俺の手の、その甲の上に、加瀬の掌が重なった。
体温を感じる。これじゃ、まるで。
恋人同士のようだ。
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つい、ついだ。
声が、口から洩れてしまった。零れ落ちてしまった。
落っことしてしまった。
落っことしてしまった、それは、かなり大事なものだった。
そして、取り返しのつかないものだ。
盆に返らぬ覆水を、しかし妙に落ち着き払って、眺めている俺が居た。
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やったー! と心でガッツポーズをとる俺。
どこがいいかな。ヨーロッパ? 東南アジア? アフリカ? 南北アメリカ縦断とか。
何処だっていいのだ。傷心旅行さ。フラれて傷ついた心を癒すためにフラれた相手と旅に出るのさ。
そしてさらに傷ついて帰国するのさ。これがほんとの傷心旅行だ。
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両手を胸のところに持ち上げて、前のめりに、七穂はそう言った。
その目は、いつにもまして輝きを帯びている。ドキドキわくわくしている。
俺はこの、募る期待に応えねばならない。ネカフェやマックで適当にダラダラ過ごしてはならないのだ。
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そうして。
その物語は、おれに追いつく。
おれは、俺になる。
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妙な問いだった。
わからない。
面白いから?
日常が退屈だから?
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ここに書いてある俺は、おれではない。
厳密には、違っている。
だけれど。
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だけれど。
それも、今しがた、終わった。
俺は、おれよりも、ずっと俺らしかった。
なぜなら、そこには。
あるいは誰もが。
時として存在を疑うことのある、それが。
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「みんな信じたいんです、自分には」
彼女の言葉に、耳を澄ませた。
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おれは……俺は本を読み終えた。
一冊目の本を閉じ。
そう、閉じた、はずだった。
だが、気が付くと、ページは開かれ、続きがあった。
顔をあげ、七穂を見る。
彼女は、にっこりと微笑み。
「ようこそ、いらっしゃいませ、こちらの世界へ」
そう告げ、腰を少しだけかがめて。
俺たちは、口づけを交わした。
彼女は言う。
「愛しています、ご主人さま」
俺はまだ、泣いていた。
「心から、あなたの事を」
彼女は左手を持ち上げ、俺の額に当てる。
その手を、ゆっくりと揺らす。
「人前でいちゃつくなや」
声がした。
低い、唸り声のような。
獣のような。
振り返ると、あの狼……ツァウベルは体を起こし、けだるそうに顎をかいていた。
「人前ちゃうか、いちおう手前は獣やからな」
「ああ、やっと、目を覚ましてくれましたね」
「おはよーさん」
喋っている。あの印象的な黄色い眼で、じっと七穂を見つめている。
「さ、ご主人さまとやら、お前の出発の時間やで」
鐘の音が鳴る。
置時計が、その振り子を、揺らしはじめた。




