形
笑って再会したかったか?
お互い笑顔で、おかえりとか、ただいまとか、そんなセリフを言い合って、何もかも解決って感じでハッピーエンド?
そんな終わり方、お前は、むかえられるとでも、思ってたのか?
あの人の言葉が突き刺さります。
わたしは何も言い返せません。
答えられません。
言葉が出てきません。
いいえ、言い返す権利なんか、ある筈ないのです。
「いつまで拗ねてんのよ」
ながい沈黙を破って、ノノがぼそりと口を開きます。
あの子はそのまま、夕くんの前に立って、彼の左胸を叩きました。
すると。
「お前らなんか大嫌いだ」
急に目頭を押さえて、俯いて、あの人はか細い声で、そうつぶやきます。
その場に崩れ落ちて。
畜生、とか、ふざけんな、とか。
せき込みながら、赤ん坊のような声で繰り返します。
典子さんが近づいて、ノノは体をよけます。
見上げた夕くんの顔は、今まで目にしたことが無いぐらい、色々な気持ちが刻まれて、色々の絵の具を出鱈目に撒き散らしたみたいでした。どす黒く滲んだ感情が、色とりどりに鮮やかに、縁どられています。
それが美しくて、つい、見とれているうち。いつしか気が付きます。
わたしの頬も、冷たく濡れていました。
お母さんに抱きしめられて、夕くんはますます、赤ん坊のようになってしまいます。
わたし達は、陽が暮れるまでその場に立ちつくし、何一つ、語る言葉を持ちません。
帰り道、典子さんの車に四人で乗り込んで、夜の闇を流れる街頭に照らされて。
その時、ノノの頬にも、一筋の艶が輝くのを、わたしは見ました。
その艶の線を指先でなぞって、ノノの頬の温度を確かめます。
あれ、気が付かなかった、と、小さく笑いながら、囁くように、あの子は言いました。
わたしは笑い返そうとします。
それを、夕くんの言葉が遮ります。
「これが現実なんだよ」
典子さんは言葉を返しませんでした。
けれど、車窓から見える景色のスピードが、少しだけ緩くなります。
「どれだけ作り物の現実に逃げたって、俺やお前らだけの世界に逃げ込んだって、結局は突きつけられるんだ、世界から、社会から、昔の記憶から、生きてる限りずっとずっと脅され続けるんだ、お前は何処まで行ってもお前でしかないんだって」
車がハザードランプを照らして、道路わきに止まります。
ガードレールの向こうには、何も見えません。
エンジン音が止まると、波の音が聞こえてきました。
「俺は人殺しだ」
静かになった車内に、その言葉が響き。
やがて、誰かのすすり泣く声が聞こえてきます。
わたしは窓を開けて、空を眺めます。
典子さんの嗚咽は、潮の満ち引きに流されていきます。
そしてわたしは、ぽつりと、独り言のように、こう言います。
「現実って何でしょうね」
わたしのそのつぶやきもまた、波の音にかき消されてしまったでしょうか。
少しだけ声を大きくして。
「どうしてみんな、だれもかれも、辛い事や悲しい事ばかり、現実と呼ぶのですか」
わたしは、言います。
「もしそれが本当なら、この星空も、波の音も、全部現実じゃありません」
なんだか、よく分かりません。
自分が何を言っているのか。
「この一年、夕くんとノノが毎日わたしに話しかけてくれたことも、冗談を言い合ってみんなで一緒に笑ったことも、手を触れてくれたことも」
声が掠れます。
まるで綱渡りです。
震えながら、とてもとても細い道を歩くような感じがします。
わたしは何を言いたのでしょう?
いまにも奈落の底に落ちてしまうような、そんな恐怖が湧きあがってきます。
「好きだと言ってくれたことも、好きだと言わせてくれたことも、全部全部、嘘っぱちになってしまいます、だから」
だから、何だというのでしょう。
夕くんに、わたしは何を伝えたいのでしょう。
言葉が続きません。
こわい。
狂ってしまいそうです。
語るべき言葉がありません。
だから、わたしは泣き叫びました。
駄々をこねる子供のように。
そのときです。
ノノの手がわたしの手に重なります。
わたしの肩を抱きます。
「大丈夫だよ」
耳元で、優しい声が鳴ります。
わたしは思い出します。
あの日、部室で抱きしめられた時の事を。
わたしは言葉を見つけます。
振り絞ります。
「要らない!」
喉の奥から。
「現実なんていらない」
お腹の底から。
「わたし達には、そんなものいらない!」
心から。
心の奥底に渦巻く、何かから。
見つけました。
思い出しました。
あの日、現実にあったかもわからない、卒業式。
いるはずのないわたしの娘が、わたし達の高校を卒業した日。
部室を訪れたわたしを、抱きしめてくれたのは。
あれは。
「あなたは」
あれは、確かに七穂でした。
加瀬七穂です。
「夕くんは!」
あの子がくれた言葉です。
「夕くんは、夕くんをやめていい! いつだって、やめていいから!」
あの子がくれた手紙。
それを書き留めた小さなノートの切れ端。
小さく折りたたまれたそれを、スカートのポケットから取り出します。
それを、夕くんに差し出します。
こう告げながら。
「あなたの物語を書いて」