虚実の境界で
子供をあやすように、あの子の傍にいた。
額や頬を撫でるあたしの手に、あの子の手が重なって。
頑張って口元を緩めて。
眠りについてしまったナナちゃんを眺めていると、夕の声がした。暗い部屋を後にすると、ガラスのコップが二つあって、そこには茶色い液体が注がれていた。
「麦茶」
あいつはぶっきらぼうに言う。
あたしはテーブルについて、いただきます、と、少し他人行儀に呟いて、それを啜った。
「ありがとう」
そのお礼はとても小さな声で、まるで自分のじゃないみたいだった。気分が少しだけ落ち着いて。
とたんに、また涙が出てきた。
「ごめん」
何に対するでもなく反射的に謝罪を述べた、その声は括弧悪い鼻声で。
今のあたしは多分、顔をぐちゃぐちゃにしている。
両手で顔を覆い、落ち着けあたし、と、心で繰り返した。
「俺に任せろよ」
「……え?」
「俺とあいつに、もう関わるなよ、お前のためだよ、それが」
「そんなこと、できない」
できるわけない。
夕が、悪意からじゃなく、単にあたしの心配をしてそう言ってくれたのは分かった。でも。
「あたしはナナちゃんを救えなかったの。逃げたの」
「へえ」
「あの子が抱えてる恐怖から目を逸らして、逃げ出して、そのせいで、あの子は……あんたも、すごく凄く辛い事を経験した」
「お前のせいじゃない」
「ううん! あたしはナナちゃんが好きなの! こんな事言う資格無いかもしれない。けど、でも、まだ、やっぱりあの子の事が好きなの」
好き。
そんな言葉を口に出したのは久しぶりだった。
恋人とか、付き合うとか、もうそんなのどうでもいい状況になってしまったのは分かってる。
でも、確かな事実だった。口にしてしまうことで、いまその事がはっきり分かった。
あたしの恋は、まだ続いている。
それは、少しだけ、あたしの自信になった。
「あたしも、あたしだって辛いんだよ。ナナちゃんとあんたが抱えてるものを、あたしだって何とかしたいんだ、自分のためなんだよ!」
キッチンで紙パックのお茶をがぶ飲みしている、夕の顔へ目をやる。表情は無かった。
口を拭って、こっちを見た。その目は冷たかった。
「助けさせて。あたしに出来る事は何だってやるから」
表情が動いた。
あたしの思いが、通じたのかな。
「へえ、ふうん」
おかしいな。
あたしは違和感を覚えた。
今の夕は、夏巳夕じゃない筈だ。
自分の事を辰巳有慈だと、そう思い込んでいるはずだ。
あの物語の、主人公。
あの『ユウジくん』が。
こんなに、冷たい目をするだろうか。
「お前はナナちゃんが好きなのかもしれないが」
怖かった。
誰なの。
あたしの目の前にいるのは。
「俺は、恨んでるよ、あいつの事」
誰?
「なんで」
「知りたいか? 教えてやろうか」
「まってよ」
「あいつは、俺の事を救っているつもりなんだよ、今でもな」
また、頭が混乱してきた。
ナナちゃんが夕を救っている? どういう意味?
「もう、後戻りできないんだ」
「まってよ、意味が分からないよ」
「ああそうさ、恨んでるよ! でも、もうこれ以上、傷付けるわけにだっていかないんだ」
「夕! 教えてよ! 一体何なの」
しまった。有慈と呼ぶのを忘れてしまった。
以前にも一度間違えて、その時は特に意識しないでくれたから、今度もそうあってほしいけど。
でも、あいつはその呼び名に反応した。
「ユウジ、だろ?」
ああ。
そっか。
「那々が目覚めて、自分の部屋の日記を読んで、思い出したんだ、自分自身の事」
夕だ。
今の彼は、夏巳夕なんだ。
「なあ、歌野。さっき言ったよな、何でもするって、那々を救うためなら」
うん。言ったよ。
「言ったし、撤回もしない。ナナちゃんを助けてあげられるなら、何でもするよ」
「それじゃあ、ひとつ」
頼みごとを聴いてくれ。
夕はそう言った。
◆◇◆
ナナちゃんを置いたまま、あいつの部屋を後にして、夜道を歩いた。
明日には、夕が病院に送り届けてくれる事になっている。
あたしは、考えていた。
悩んでいたわけじゃない。
夕の『頼みごと』を、あたしはその場で、二つ返事で承諾した。
あいつの考えは、最善の選択とは思えなかったけど。
けれど、最悪を回避するための、ひとつの手段だった。
どの道、他に取るべき手立ては無かった。
そうだ、だから、悩む必要なんてない。
あたしが歩きながらぼんやりと考えていたのは、強いて言うなら、人生について。
それから、あたしの生きている、この世界について。
自分や、大切なあの子や、あの子の為にあまりに大きな犠牲を払った、あの少年や。あたしとナナちゃんが書いた、遠く懐かしい思い出のような物語たち。そして、最後にあの二人が書いた物語。
ああ。
この世界はあまりにも、皮肉に満ちている。
一見してバラバラのピースが、よく見ると冗談のように、綺麗にはまっている。
地獄のようで、天国のようで、やっぱり本質的には、それは地獄だ。
神さまは、どれほど悪戯好きなのだろう。
あたしは、選ばざるを得なかった。
明日が、少しだけ楽しみだった。
それはでも、歪んだ期待だ。
明日から、あたしは奴隷になる。
神さまたちの描いた、壮大な皮肉のような、醜く面白く、ひょっとしたら美しく歪んだ……物語の。
その、奴隷になるんだ。
全身から力が抜けて、あたしは小さく笑った。
〈終章 了〉