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偽に到るわけ


「わざとじゃありません、眉毛を整えていたら、ついうっかり、手を滑らせてしまって。

 でも、湯船に漬かったまま、傷口から流れる血を見ていたら、思ったんです」


静かに、自嘲気味に笑いながら、あの子は言った。


「暖かいな、って。ああ、わたしは生きているんだ、って」


「そのまま、手当も何もしなかったの?」


「はい、ごめんなさい」


表情が曇り、やがて皺ができた。

泣き出しそうに顔を歪ませ、あの子は続けた。


「バカでした。ノノが……夕くんも。心配してくれる人が、心から悲しんでくれる人が、わたしにはいるのに」


あたしが頬を撫でると、ナナちゃんはさらに顔を歪めた。


「でも、真っ赤な浴槽の中にある、わたしの体を想像して、思い出して、そして思ったんです。

 生まれ変われるかもしれないって」


シーツを強く掴んで、肩を上下させながら、あの子があたしに放った言葉は。


「わたしの体が、体のキズが。沢山のキズが。痛みや屈辱や……そんな記憶が。

 まだ……無かったころ」


流石に、耐えられなかった。

あたしは頬に当てた手をずらしてあの子の口を塞ぎ、それから、抱きしめた。


「ノノ……わたしはあいつに、ユージーンに」


「言わないで……いいから、言わないで! いいの!」


血の気が引いた。

抱きしめた手が指先まで痺れてきて、力が抜けていくのが分かる。

どうして。もっと強く、この子を包み込んであげたい。

それなのに。


「汚され……そうに」


視界が黒く縁どられた。

その黑はどんどん広がっていって、やがて、あたしは何も見ることが出来なくなった。


言わせてしまった。

言わせてはいけなかったのに。

先に、気が付かなきゃいけなかった。

なのに。


あたしが、気付いてあげなきゃいけなかった。

気付いてあげられなかった。


無力だった。

あたしは今も無力だ。

無知で無能で、ちっぽけな存在だ。

何も知らないまま、赤ん坊のようにナナちゃんに甘えていただけだ。

那々ちゃんと付き合っていたあの頃。

あの頃の出来事は美しかった。

美しい思い出のはずだった。

今日この日までは。

今、この瞬間までは。


あたしは叫んだ。


「大丈夫だから!」


あの子の体の震えが、あたしにも伝わって。

あたしは思った。まるで世界に怯えているようだ。


「ノノ、わたし、あなたを恨んでいました。どうして助けてくれなかったんだろう、って」


「いいんだよ! 当たり前だよ! そんなの! 恨まれて、当然だよ」


「ええ……当たり前、です」


ナナちゃんの声も、ぐちゃぐちゃになっていく。

けれどそれは、どこか暖かい感じがした。


「わたしは、助けを求めませんでした。声をあげませんでした。

 まるでお話の世界に浸るように、現実から逃げて、ただひたすら逃げ続けていました。

 辛い事や苦しい事は、まるで初めから存在しないかのようにふるまいました」


「しょうがないよ、辛かったなら、しょうがないじゃない」


「いいえ、わたしは間違っていました。辛い事や苦しい事から目を背ける、そのやり方が、間違っていました」


あの子の顔を見た。

目を真っ赤に腫らしながら、それでも笑っていた。


「物語なんです、きっと、これも」


言葉の意味が、よく分からない。


「今この瞬間も、わたしたちは物語の中に居るんです。

 だってそうでしょう?

 わたしは、ノノとは違う人間なのに、ノノはこうして、わたしの為に悲しんでくれます」


そして。


「わたしも、もしノノが悲しんでいたら、その事実だけでも、とても悲しいです」


だんだん、わかりかけてきた。


「不思議です、おかしなことです」


「そうだね、不思議」


「現実じゃないみたいです」


「うん」


あの子はあたしの目を見つめて。

いつかのように遠くじゃなくて、焦点をはっきりと合わせて、心の中まで覗こうとするみたいに。

優しく、強く、あたしの目を見つめて。


「わたしが逃げ込むべきだったのは、この物語なんです」


今度は目を閉じて、胸に手を当てて。


「ノノと夕くんのいる、みんなから現実と呼ばれている、けれども、まるで不思議な、この物語に、逃げ込むべきだったんです」


ごめんなさい、と、最後に小さく、あの子はそう言った。

あたしは、どう返すべきなんだろう。


今ここにいる、この、自分。

野乃詩でも、野乃歌でもなく、三浦歌野。


でも、ひょっとしたら三浦歌野を演じているのかもしれない、他の何者かも知れないし、あるいは誰でもないかもしれない、あたし。


こんな感じ?


「うん、そうだよ」


そう、こんな感じ。

三浦歌野は、こういう登場人物だ。

自分を捨てた、頼ってくれなかった恋人のために。

自分の無力のせいで、救ってあげられなかった、かつての恋人のために。

あたしはこれからも、あたしを演じ続けよう。


「おかえり、ナナちゃん」

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