認め難い定め
本当につらい記憶がある時。
人はそれに蓋をしている。
覚えていないふりをしているのだ。
集中治療室の前でナナちゃんを待っていた時。
虚ろな目をした夕が現れた。
あたしは話しかけなかった。
あいつが怖かった。
ううん。
何も覚えてはいない。
思考ははっきりとしていたけれど。
目の前で淡々と進んでいく現実を、どうにかして認識はしていたけれど。
あの時あたしの心が何を感じていたのか、それだけが記憶から抜け落ちていた。
あの時、あたしの心は死んでいた。
だから、痛みが心地よかった。
気が付くと唇をかんでいて、血が流れていた。
夕がハンカチを渡してくれたけれど、あたしはそれを受け取らなかった。
あいつの黒いハンカチが、一瞬だけ白く見えた。
それから壁に目をやると、ペンキの白が、今度は真っ黒く見えた。
唇の血を拭うと、袖にしみこむその色が、青にも緑にも、黄色にも白にも見えた。
世界は色も光も失いかけていた。
そうやって、いつ終わりが来るとも知れない、時間が過ぎて。
お医者さんが現れた。
あの子が一命を取り留めたと聞いた。
夕は泣いていた。
どうして?
なぜあいつが悲しんでいるのか、喜んでいるのか、あたしには理解できなかった。
あいつこそが、ナナちゃんをこんな目に合わせた張本人のはずだ。
どうして?
あたしは嬉しいと思えなかった。
喜べなかった。
ただ、むせび泣く夕の震える背中をさすって、ぽかんと、あいつの横顔を眺めていた。
どうして?
疑問が沸きあがっては消えていった。
あのホテルで何が起きたかなんて、もはやどうでもよかった。
あたしの愛した人が。
あたしを愛してくれた人が。
酷い目にあったのだ。
どうして?
とてもとても、つらくて苦しい思いをしたのだ。
何よりも、その現実だけが重要で。
そして。
その現実だけが、受け入れがたいもので。
どうして?
どうしてだろう。
どうして、あたしはあんなことをしたのだろう。
あたしは夕の頭を撫で、あいつを抱きしめた。
母が子供を抱くような抱擁。
どうして?
今ならわかる。
あたしは、あいつに託していたのだ。
ナナちゃんと離れてから、ずっと。
あたしの心。
その置き場所を。
あれから、夕の後姿を見るたびに、あたしはあいつのことを少しだけ追いかけた。
ある日、あいつが泣いているのを見た。
あたしは何も感じなかった。
その時は。
でも、その日家に帰って、玄関の戸を閉めた時。
気が付いた。
あたしが救えなかったのは。
救おうとしなかったのは。
目を背けて、ただ逃げ続けていた相手は。
ナナちゃんだけじゃない。
夕と、それに、あたし自身なんだ。
あたし達を取り巻く、この狭い世界を襲っている何か。
それに気が付かず。
戦おうともしなかった。
この世界を救えなかった。
救おうともしなかった。
どうして?
自分自身の事のはずなのに、その疑問の答えが見つからなくて。
気が付くとあたしは泣いていた。
子供のように、むせび泣いた。