理そのままに
ナナちゃんは、両膝を抱えてかがむ。
静かに、はにかんで、優しい眼差しであたしを見降ろしていた。
その表情はあまりにも懐かしくて、遠い日の思い出がよみがえってくるようで。あの子と離れてから、もう十年も二十年も時間が経ってしまったように思えてきて。
あたしは飛び掛かるように、抱き着いて、抱きしめた。
あの子は少し驚いて、それからまた優しい眼差しで、あたしの背中に手を回してくれた。
「逃げよう、ふたりで」
それを聴いたあの子は、何のことだかわからない、とでも言いたげに、キョトンと、あたしを見た。
「あいつに、夕に……ひどい事されたんでしょ……知ってる」
それを聴いて、あの子は静かに首を振った。
「いいえ、されていません。酷い事なんて、なにも」
「嘘つかないで」
「本当です、ユウジくんは……ええ、とても、とてもいい人です」
耳慣れないその名を聴いて、あたしは少し面食らい、考えた。
誰だろう? 夕じゃなくて、ユウジ?
「だれなの?」
「ユウジくんは、ユウジくんです」
あの子の両手を取りながら、丸い瞳をのぞき込む。
どこか虚ろで、なんとなく焦点が定まっていない気がした。
そして、あたしは思った。
ああ。
ナナちゃんはここにはいない。
この子の心はどこか遠い、別の場所に。
囚われているんだ。
あたしは再びあの子を抱きしめて、こう言った。
「大丈夫、ナナちゃんは、あたしが守る」
踵を返して、あいつを追いかけようとするあたしを、ナナちゃんは引き留めた。
「本当です、ノノ、信じてください」
あたしは振りかえって、あの子の顔を見る。
「わたしは、あの人が好きです」
笑っていた。
少しだけ虚ろな目をしていたけれど。あたしの知っているナナちゃんが、あたしの思い出の中のナナちゃんが、そこには立っていた。静かに、微笑んで。
そして、あたしは気が付いた。この子は救われたんだ。少なくとも、ほんの少しだけ、笑顔を取り戻せたんだ。あたしじゃない、他の誰かによって。
あたしには、出来なかった。
ナナちゃんを救ってあげられなかった。
でも、悔しくなかった。
悲しくも、無かった。
「そっか、それじゃあ」
昨日までのあたしは、後悔と未練でいっぱいだった。
ナナちゃんと別れてしまった事実を認められなくて、あの子が変わってしまった事が苦しくて。
でも、そんなよどんだ感情も、あの子の笑顔を見ていると、次第に消えていった。
人の別れというのは、きっと、こうして訪れるのだろう。
あたしは、笑った。
今のあたしにできる、精いっぱいの笑顔を繕った。
「お別れだね」
その言葉を告げた途端、あの子の笑顔が歪んだ。
綺麗な折り紙に、少しずつ皺が付くように。
あの子の綺麗な顔に、線が引かれた。
「ありがとう、ナナちゃん」
気付けば、あたし達は再び抱き合っていた。
嗚咽の音は、もはやあの子の声なのか、自分の声なのか、区別がつかない。
二つの早鐘が聴こえた。
「ごめんなさい、ごめんね、ノノ」
あたしの服の裾を掴む指先に、さらに力が込められた。あたしはその手に、そっと自分の手を重ねる。
「嫌です、離れたくありません」
「ダメだよ」
身を引いて、あの子の肩に手を乗せて、言う。
小さな子供に、母親が言い聞かせるように。
ごく当たり前のことを、諭す。
「あたしは、ナナちゃんを守れなかった」
「そんなことありません!」
その声の強さに、芯の通った響きに、驚いたんだけど。
それでも、その芯の強さを真似るように、言い返す。
「あたしは、あなたの傍には、いられない」
自分の言葉に、自分で腹が立った。
「そんな資格、ないから」
「誰が決めたんですか」
あの子は、睨んでいた。
あたしを?
……いいえ。
あの子は、何かを睨んでいた。
誰でもなく、なんでもなく。
例えていうなら、世界を?
「誰が、決めたんですか、そんな事」