神以った黑さ
あの二人を陰から見守ろうと思っていた。あの子が幸せになってくれれば、あたしはそれで満足なんだ、って、そう思っていた。あの日、あの事件が起こるまでは。
あたしのクラスは公民の授業中だった。
「俺の奴隷になれ」
窓の外から響いてきたその声で、教室中が大騒ぎになって、一体何事かと、みんなが窓際に集まっていた。見ると、夕が校庭に一人で立っていた。そのすぐあと、ナナちゃんの声が聴こえた。
「はいっ喜んで!」
その後の教室はまるでお祭りのようだった。
男子も女子も、ある事ない事噂を始めて、みんなバカみたいな妄想を考えなしに口からこぼしまくっていた。あたしは目の前が真っ白になって、何も考えられなくなった。けれど、すぐに気を取り直して、あいつを問いただすため、校庭に向かって走り出した。たどり着いた時には手遅れで、先生三人に生徒指導室まで連行される途中のあいつと、階段ですれ違った。
あたしは夕から真相を聞き出すのをあきらめて、屋上へ向かう。ナナちゃんの声は、おそらくそこから聴こえてきたものだった。たどり着いた時、あの子の姿は無かった。代わりに、あたしはあるものを見つける。
屋上に散乱した、プリントの束。
拾い上げて、それを読んだ。
契約書だった。
ある人間が、別の人間を、完全に隷属させるための、契約。
そして、そこには押印があった。
その後の事は、覚えているとすれば、どす黒い感情があたしを突き動かしていたっていう、その事実ぐらい。気が付くとあたしはあいつの教室にいて、夕のロッカーを蹴飛ばしていた。
ロッカーの戸が開いて、一冊のノートが落ちてきた。
日記帳みたいだった。
ノートを破いて、切れ端に殺してやると書いて、あいつの下駄箱に入れた。
返しに戻るのも馬鹿馬鹿しいので、そのまま日記をもって、学校を去った。
家に帰って、ベッドに身を投げ出し、あたしは泣いた。
ナナちゃんは、どうなってしまうんだろう。アイツは、夕は、一体何を考えてるんだろう。
奴隷だなんて。
あの子があまりにも可哀そうで、でも何も知らない、何もできない無力な自分が悔しくて、悲しくて。やりきれなくて。全部、あたしのせいだ。暴れまわって、シーツを破れそうなほど引っ張って、歯を食いしばっていた。すると、そのうち、ある考えが浮かんだ。
悪夢のような現実。
それは、でも、あの子にとってであり、あたしに起こった出来事じゃない。今のあたしは部外者だ。だから、こんな風に泣き喚く資格なんてない。
だったら、あたしに出来る事は?
あたしがするべきこと。それは、なんだろう?
起き上がって、思い出した。
持って帰ってきた、夕の日記帳。
あいつがナナちゃんを奴隷扱いするような悪魔だったとしても、やっぱり、他人の日記を覗き見るのは気が引けたけど。もう遅い、賽は投げられた、と自分を奮い立たせて、あたしはノートをカバンから取り出した。
最初の方のページは、春休みの出来事だった。一日の出来事が、数行、一言二言ずつぐらい、簡潔に書かれている。ゲームしたとか、アニメ見たとか、昼寝したとか、コンビニのアレが美味い、とか。
ごく普通の、どちらかといえば味気のない日記だった。
春休みの終わりまで、あたしの知る人物は登場しなかったけど、新学期の最初の日の欄には、あの日夕に相談した、あたしの話があった。
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4月1日
今日は歌野に相談を受けた
那々をなんとかするって答えちまった
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少しだけ、絶句した。
……なんて簡潔な書き方をするんだ。
あの時は、かなり思い切って、迷いながら、あいつに全部打ち明けたんだけど。あたしのあの切羽詰まった思いが、まるでコンビニの新製品とたいして変わらない重さだ。
まあ、そんなのはいい。あたしが知りたいのは、あいつとナナちゃんの間になにがあったか、それだけ。
それが、もうすぐわかる。
次のページあたりには、きっと答えが書いてある。
ページをめくろうとして、それを止めた。まだ読んでない箇所があった。気持ちが流行るあまり読み飛ばしかけた、最後の行に目をやる。
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4月3日
今日は那々を呼び止め、屋上の入り口に連れ込んだ
いう事をきかないので、ぶん殴ってやった
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ページをめくる手が、震えた。