後編
備品管理局が管理する巨大な倉庫は、魔法庁の広大な敷地の鬱蒼と木が茂る一角にひっそりと佇んでいた。
苔むした分厚い石造の倉庫の内側は、天井まで届く高い棚が迷路の様に立ち並び、埃を被った箱や石が所狭しと置かれている。一見どう見てもガラクタにしか見えないそれらの品の中には、この世に二つと無いとされる希少品がそこかしこに隠れているのだった。
ディアンとパトリシアが倉庫に一歩足を踏み入れると、彼等の魔力に反応して壁に掲げられた魔石灯が一斉に明かりを灯した。
薄黄色の明かりに照らされた通路をディアンは知った様子で進み、古びた机と椅子を見つけると丁寧に埃を払ってパトリシアを座らせた。そして自分はどかりと机に腰を降ろすと眼鏡を外し、疲れたのか眉間を解すように揉んだ。
「……パトリシア、本気で魔法庁を辞めたいのか」
「ええ。きっかけは何であれ、もうずっと考えていた事ですから」
「何故、と理由を聞いてもいいか」
「そうですね……、倉庫番の仕事は私でなくても出来ると思うんです」
パトリシアはぽつり、ぽつりと語った。
「確かに倉庫番の仕事は楽しかったしやりがいもあります。でもある日ふと考えてしまったんです。一緒に入った同期の人間がどんどん昇進していく中、私は7年たっても倉庫で埃を被ってる。……倉庫に捨てられたお荷物とか、役に立たない鼠とか、そんな事を言われるのはもう疲れました」
「……ほう、そんな事を言う奴がいたのか」
ディアンのアイスブルーの目がすっと細くなり、口端に冷酷な笑みが浮かぶ。パトリシアは妙な既視感と共に背筋がぞわりと冷たくなるのを感じ、慌てて頭を振って否定した。
「いえ、それはもういいんです。この5日間で気が済みましたから」
実の所月曜から今日までパトリシアが魔法庁をやたら歩き回っていたのは、彼女のなりのささやかな意趣返しも兼ねていた。ある者は口を開けパトリシアに見惚れ、またある者は悔しそうに豊かに実るたわわを睨む。そんな彼等の反応にパトリシアも随分と溜飲を下げたのだった。
「だがお前が辛い思いをしたのは事実だろう? 気がついてやれなくて悪かったな」
「ちょ、ちょっと局長、止めてください!」
潔く頭を下げるディアンをパトリシアは慌てて止めた。部下が嫌味を言われた位で上司が頭を下げるなんて何か違う、絶対おかしい。それにそもそも退職届を出すきっかけになったのは、ディアンのセクハラまがいの言動である。謝るならそちらを先に謝ってほしい。
「本当にもういいですから。それにええと、次の仕事はすごく条件が良いんです。お給料も今までよりずっと上がるし、仕事の内容も私のやりたかった分野の研究をさせてくれるそうです。だから局長が気にする必要は何もありません」
「次の仕事? もう決まってるのか?」
「ええ、アカデミーの同期の研究所です」
「リーンハルトか。あの野郎……」
長官もそうだったが、どうしてリーンハルトの研究所に誘われている事を知っているのだろう。パトリシアは訝し気に目を細めた。
おもむろにディアンはテーブルから降りパトリシアの前に来ると片膝をつき、真剣な眼差しでパトリシアを見上げた。
「パトリシア、俺がお前に辞めるなと言ったらどうする」
「え?」
「俺はゆくゆくはお前を備品管理局の次長にするつもりだった。給料も上げる。仕事の内容もお前の希望に添うように検討しよう。……俺にはお前が必要なんだ」
普段は冷たく感じるアイスブルーの瞳の奥に熱が燈り、パトリシアを直向きに見つめている。
随分慌てて出張から戻って来たのだろうか、いつもは綺麗に撫でつけられたグレーの前髪がはらりと落ち、すっかり乱れている。だがそのおかげか妙な色気が増量となったディアンを前に、パトリシアはたじたじとなった。
「ちょっと待ってください、そんなの初耳です! それに局長は私が気に喰わないから倉庫番にしたんじゃないんですか?」
「おい待て、誰がそんな事を言った?」
「だって局長はいつも私の事を揄うし、顔を見れば嫌味ばかり言うし……。それにこの間だって随分酷い事をおっしゃってましたよね?」
「何だそれは。嫌味なんて言った覚えはないぞ!」
「嘘! 女は20代までだ、30を過ぎたらもう誘わないとか偉そうな事言ってたじゃないですか! 大体みんなが見てる前で私を食事に誘うなんて、嫌がらせ以外の何物でもないでしょう!」
「違う! そういう意味じゃない! ったくなんでそうなるんだ……。いや待てよ、つまりお前は俺が今まで食事に誘ってたのを、ずっと嫌がらせだと思ってのか?」
「それ以外に一体何の目的があるっていうんです?」
「そんなの普通に考えればわかるだろうが! 俺はお前と一緒に飯を食いたいから誘ってたんだ! 嫌いな奴をわざわざ誘うか!」
ディアンはがっくりと項垂れると溜め息をつき、力なく立ち上がると眉間を強く押えた。
「はあ、つまり俺のあの涙ぐましいアプローチは全然通じてなかったのか……」
その通りである。加えて言ってしまえは全くの逆効果だったようだ。
「いいかパトリシアよく聞け。長官から聞いたかもしれんが、俺は確かに入庁する前からずっとお前に目を付けていた。俺が欲しかったのはお前の几帳面で潔癖な性格と、そして人を纏める手腕だ」
「手腕?」
「ああ。お前が入庁する以前備品管理局は腐敗の温床だった。中でも一番酷かったのがこの倉庫部だ。だからこそ俺はここに信用が置ける優秀な人間を置きたかった」
パトリシアは辺りをぐるりと見回して頷いた。確かにここはお宝の山だ。そこらに無雑作に放置してある竜の鱗ですら一枚で金貨数枚に化けるのだ。いくら厳重に盗難防止の術がかかっているとは言え、偽造や隠蔽が出来る魔法使いなら抜け道はあるに違いない。
「俺は当時たまたま不正の証拠を掴み、手を染めていた奴らを魔法庁から一掃した。おかげで局長なんて面倒事が回ってきたが、引き受ける際に条件を出した。備品管理局のメンバーは俺が決める事と、そしてパトリシア、お前だ」
「それはエムニネス長官からも聞きました。でも何故私だったんでしょう。それに入庁する前って、一体いつから私の事を御存じだったんですか?」
「お前は在学中ちょっとした有名人だったからな。……俺が一方的に見ていただけだ」
「はあ……?」
一体自分の何が有名だったんだろうと一人首を傾げるパトリシアだが、アカデミー在学中好んで白衣を着ていたパトリシアが白衣の天使と呼ばれ、一部に熱烈なファンがいた事は本人が知らないだけで有名な話である。
「なあパトリシア、自分の論文のどこが一番評価されていたか知っているか?」
パトリシアは頭を振った。そもそもアカデミーの外で自分の論文が評価されていた事すら今日知ったばかりなのだ。
「お前は同学年全員分のデータを集め、それを共同研究という形で発表した。変わり者が多い魔法使い達を上手く纏めた手腕もそうだが、その成果を自分一人の手柄にしなかった。なかなか普通の人間に出来る事じゃあない。それこそがお前が真に評価された点で、俺がお前を倉庫番に欲しかった理由だ」
「そうだったんですか……」
確かに学年全員の協力を得るのは大変な事だった。
不要のデータを渡すだけでパトリシアの論文に共同研究者として名前が載るのだ。大多数の同級生が協力的だったのに対し、苦労したのは既に魔法使いとして名を馳せていた一部の同級生達だった。
頑なに協力を拒む彼等の元にパトリシアは足が棒になる程通い、言葉を尽くして説得した。そして遂には彼等の信頼を勝ち得たのだった。
その件がきっかけで始まったアカデミー同期との友情は、卒業した今も変わることなく続いている。リーンハルトもその中の一人、パトリシアの大切な友人だ。
当時を思い出して遠い目をするパトリシアを、ディアンは正面に立つと真剣な瞳で見つめた。
「パトリシア、お前は俺が見込んだ通り、いやそれ以上の働きをしてくれた。正直言ってお前以上に信頼できる人間はいないと思っている。ーーだからパトリシア、これからも俺の側にいてくれないか。俺にはお前が必要なんだ」
「それは……」
ここが埃を被った倉庫でなければ、まるでプロポーズにもとられかねないロマンチックな科白だ。相手が違っていれば盛大に勘違いされていただろう。
だがパトリシアは言葉の裏に隠されたディアンの真意に気付く事無く、頭の中で素早く計算をしていた。自分の好きな事をやっていい、給料も惜しまないと言ってくれるリーンハルトの研究所は確かに魅力的だ。だが長いスパンで考えれば、国の機関である魔法庁に勤めるメリットは大きい。それに副局長のポストを用意するとまで言っているのだ。だけど……
「申し訳ありません。でも既にリーンハルトと約束をしています。今更それを反故にする訳にはいきません」
パトリシアとリーンハルトの友情が勝った瞬間だった。
それを聞いた途端ディアンは眉間に皺を寄せ、さも忌々し気に鋭く舌打ちをした。
「稀代の魔法使いだか孤高の魔法使いだか知らないが、俺に言わせればあいつは単なる人嫌いの引きこもりだ。そんな人間にパトリシアを任せる訳にはいかない。リーンハルトには俺から断りを入れてやる。それでどうだ」
「無理です」
「そうか……」
パトリシアが間髪を入れずに断ると、ディアンは少し悔しそうな顔をして溜息を吐いた。そして何事かを真剣に考え込んでいたが、暫くすると迷いをふっきったかのように顔を上げた。
「……この手はあまり使いたくなかったが仕方がない。パトリシア、俺の上着の内ポケットに書類が入っている。申し訳ないがちょっと確認してくれないか」
そこで初めてパトリシアは長官室からずっとディアンの上着を借りていた事を思い出した。
言われた通りに上着の内ポケットを探ると、確かにそこには小さく折りたたまれた紙が入っている。慎重に取り出し広げて中を見ると、それはパトリシアがあの日ディアンに渡した退職届だった。
「局長これは……?」
ディアンは退職届が間違いなくパトリシアの手の中にあるのを確認すると、目を細めニヤリとさも悪そうな笑みを浮かべた。
「実は言ってなかったが、お前がその紙を渡したあの日な。俺は有給休暇中だったんだ」
「……は?」
「俺はたまたま出張の忘れ物があったからあそこにいたが、本来ならあの日は休みだった。そして有給休暇中は完全に労働が免除される。……そうだよな? つまりあの日の俺はお前の退職届を受理する資格が無かったって事だ」
パトリシアははっと顔を上げると細い眉を顰めディアンを睨んだ。
「……握り潰す気ですか?」
「握り潰す?人聞きの悪い事を言うな。そもそも有給中に仕事をしたら俺の方が職務規定違反になるんだ。しょうがないだろう?」
「……酷いわ! じゃあ今すぐこれを受け取ってください!」
顔を真っ赤にしたパトリシアは上着を脱ぎ捨てると勢いよく立ち上がり、退職届を握りしめディアンに詰め寄った。
「くくっ、さあどうするかな。俺に受け取らせることが出来れば考えてやってもいいぞ」
「局長! ふざけないでください!」
ニヤニヤと笑うディアンの手をなんとか摑もうとするパトリシアだが、二人の身長差はざっと見ても20cm以上。どう見ても遊ばれているようにしか見えない。
「ちょっと、ディアン!」
「ほらほら頑張れ、あともう少しだ」
パトリシアがムキになって手を伸ばすと、ふくよかな胸がまるで波打つようにばいんばいんと弾む。その見事な乳揺れを前にディアンは平然とした顔を保っているが、こいつはどう考えても確信犯だろう。
「あっ……!」
その時手を伸ばし過ぎたか、ぐらり、とパトリシアがバランスを崩した。
一瞬で真剣な表情に戻ったディアンは素早い身のこなしで彼女の腕を掴むと、庇う様に抱えたまま床の上にもつれ込んだ。
「あ……っつう」
「う……、大丈夫か、パトリシア」
先に我に返ったのはディアンだ。
石の床に背中をしかかに打ち付けたディアンが顔を顰めながら目を開けると、仰向けになった彼の上にパトリシアが跨るという、完璧なお馬さんに乗るポジションが完成していたのだった。
まずパトリシアの真紅の髪が視界に入る。それからゆっくり目線を移すと、自分の胸にムニュッと押し付けられた柔らかい双丘の、その罪深い程深い谷間が目に入った。
意識すればする程存在感を増す暖かで柔らかな感触に、ディアンは柄になく動揺し身体を固くする。
一方のパトリシアは自分がどれだけ危険なポジションにいるか全く気付く事なく、呑気にもムギュッと胸を押し付けるようにして上半身を起こした。
「うぅ……いたた。ごめんなさい、局長、大丈夫ですか?」
「う……あ、いや、大丈夫、だ」
いや、全く大丈夫ではない。ディアンのディアンは今正に起き上がってパトリシアに元気よく挨拶をしようとしている所だ。
何とか気合でディアンを落ち着かせたディアンだったが、今度は目の前にある大きな双丘に目が釘付けになった。
何の偶然か果たまた神の采配か、パトリシアの見事な小玉スイカの如き丘の上に、ご丁寧にも退職届が鎮座ましましていたのであった。
パトリシアは目の前で固まったディアンの視線をゆっくりと追い、その理由を完璧に把握する。そして同時に頭に浮かんだのは、彼女は月曜の朝の、あの決意だ。
ーー今この武器を使わなくして一体いつ「これ」を使うというの?
パトリシアは口元ににんまりと蠱惑的な笑みを浮かべる。そしてディアンを上目使いで見上げると小首を傾げ、こう告げた。
「ディアン、これ、取っていただけますか?」
この日、魔法庁の中でたわわを赤く血に染めたパトリシアと、その後を追う鼻を抑えシャツを血だらけにしたディアンが目撃された事で、パトリシアたわわ伝説に新たな逸話が加わった。
曰く、パトリシアに不埒な真似をする輩には、たわわによる正義の鉄槌が下される。
そして最近の魔法庁では、ディアンを探し回るパトリシアが噂になっているらしい。
星様、素敵な企画をありがとうございました。
皆様に少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。