9 子供たちと大工、三つ首ドラゴンと戦う
翌日、早朝。
三人は、件の湖に向けて歩いていた。
天候は良く、澄み渡る青空に、薄雲がかかる冬の空が広がる。
しかし空気は刺すように冷たく、白い息が顔にまとわりついては、ゆっくりと消えていく。
先頭を歩くのは、土地勘のあるセルゲイだ。
そのすぐ後ろに、イリヤーと、イジャスラフが続く。
三人とも、緊張のせいなのか、言葉数も少なく、足だけがその場所へと進んでいた。
湖は、二人の住む村から見て、北の方角に位置し、南へと流れる川の上流にもあたる。そこからは北へ流れる別水系の湖と、連水陸路を通じて連絡していて、北と南の交易を繋ぐ、重要な道にもなっていた。
「見えてきましたよ」
そう言って、セルゲイが指さす先には、日の光を反射する、白き湖があった。
湖のほとり。
白く光っていると思われた湖は、早朝の冷え込みにより、薄氷が張っていた。
水の打ち寄せる波打ち際も、今はその気配すら見せず、氷同士が押し合うギシギシという音だけが、聞こえていた。
「薄く凍っているようだな、ドラゴンはどこにいるんだ?」
動かない湖面を見やり、イジャスラフは辺りを見回す。
「この分だと、水の中には居ないでしょう。その辺りの洞窟か、岩陰に居そうですが……」
弓を持ち、セルゲイは周囲を警戒する。
イリヤーとイジャスラフも、その手に剣と斧を持ち、隠れられそうな物陰を探して、目を光らせた。
と、その時、風に乗って低い唸り声が、彼らの耳に届いた。
「何、この音?」
輝く剣を握りしめ、イリヤーは呟いた。
「獣とも違う、ドラゴンか?」
音のした方角の、湖畔に突き出ている切り立った崖の下を、イジャスラフは目を凝らして見る。
岩盤と落石で囲まれた、その場所に、例のヤツがイビキを掻いて眠っていた。
大きさは、四十人乗りの船と同じか、それより少し大きい程度で、三つの首を器用に折りたたんで、ぐっすりと夢の中、といった風情であった。
「いた、あんなところに……」
斧から、弓に得物を持ち替え、イジャスラフは矢を手にする。
「先に、俺とセルゲイで、ヤツをおびき寄せる。イリヤーはその後だ」
「はい」
ドラゴンのいる場所は岩が多く、隠れる場所もあるにはあるのだが、いかんせん、剥がれた岩盤が重なるところも多く、戦うには少し不向きな地形であった。
二人は、イリヤーをその場に残し、限界までヤツに近づいて様子を窺う。
――まだ、寝ているな。
岩陰からドラゴンを見て、イジャスラフは弦に指をかける。
セルゲイと目を合わせ、お互いに大きくうなずいた。
弓を引き絞り、標的目がけて、矢を放つ。
風を切る音がして、物陰からはみ出した尻尾に、それが突き刺さった。
――当たったか!?
次の呼吸を継ぐ前に、次の矢が用意される。
ドラゴンのイビキが止まり、首が重たげに動き出す。
己の尻尾に刺さる矢を見て、ドラゴンの三つ首が各々周囲を見回した。
寝起きの眼が、瞬きをした時、鋭い矢がそのガラス玉のような目に深々と突き刺さった。
凄まじい咆吼を上げて、ドラゴンの首がのたうち回る。
――三つ首は、気を吐く、火を吐く、毒を吐く。
シャマンの言葉が、イジャスラフの脳裏に蘇る。
三つある首のうち、どれかが毒を吐く首のはずだった。
早々にそれを潰さないと、この戦いは不利になる。
白樺の木から作られた矢を掴み、彼はさらに弓を構える。
ドラゴンは、辺りに火を吐きながら、のそりとその身を起こした。
ガラガラと岩を蹴散らし、危害を加えた者を排除しようと、四つ足を動かす。
「わ、こっちに来た!」
セルゲイが驚くと、ソイツはさらに大きな雄叫びと共に、こちらへと迫った。
ドシンと、地面が揺れる。三本の首が、敵を見つけ出そうと、ぐるぐる動いている。
「セルゲイ、手を休めるな!」
「はっ、はい!」
ドラゴンの、比較的弱い部分を狙い、矢が次々に放たれる。
だが、そのうちの何本かは、ヤツの首の一つが吐いた火の前に、為す術もなく燃え尽きてしまった。
さらに別の首が、口から霧状のものを吐く。
霧は、ふわりと風に乗り、拡散されつつも、セルゲイの鼻腔へと侵入した。
「げほっ、げほ、げほ!」
突如むせる彼の姿に、イジャスラフは、今のこそが毒の首と判断した。
「これでも、くらえ!」
白樺の矢が、一直線にドラゴンの首へと向かって、飛ぶ。
毒の首が、今一度霧を吐こうと鎌首をもたげたところへ、下あごから上あごへと、矢が突き刺さり、口の開閉機能を封じ込めた。
「よし、セルゲイ、逃げるぞ!」
わざとドラゴンにその背中を見せつつ、彼はセルゲイを引っつかんで、後方へと下がる。
「イリヤー、もっと広いところでやるぞ!」
「はい!」
逃げる三人を追いかけるように、ソイツは身体を揺すりながら、一歩ずつ歩いていた。
湖を望める、少しだけ高いその場所で、彼らはヤツを待ち伏せていた。
「セルゲイ、残りは何本だ?」
「五……ぐらいですね」
身を低く構え、イジャスラフは問いかける。
「これを使え」
そう言って、彼はセルゲイに矢を押しつけた。
「俺の作った白樺の矢だ、よく飛ぶぞ」
セルゲイは、黙って受け取ると、彼に続いて弓を構える。
手が、震えていた。毒のせいで、息が上がり、目も少しだけかすんで仕方が無い。
だが、そんな事は気にならない、狙うはドラゴンの首だけだ。
地面の下から、重いものがやって来る音がした。
長い首をうねらせて、三つ首のドラゴンが、敵意を剥き出しにして唸り声を上げる。
その丸々と太った胴体が、視界に入った時、弓の弦が目一杯に引かれた。
「今だ!」
イジャスラフの声に、セルゲイは矢を放つ。
ドラゴンの首、それも目や、鱗の弱い部分に、執拗に矢が打ち込まれる。
合成弓の威力は凄まじく、獣よりも遙かに強いと思われる皮膚に、矢は深々と刺さっていた。
傷口から血が流れているせいか、ヤツの動きが、徐々に鈍くなる。
三つの首にある六つの目のうち、四つの目が、その機能を止めた時、イジャスラフは斧を手に取った。
「イリヤー、行くぞ、覚悟はいいな!」
「はい、イジャスラフさん!」
剣を抜き放ち、イリヤーは彼と共に、血にまみれたドラゴンへと駆けだした。
不思議と足は軽く、手に持つ剣もその重さは、ほとんど感じられないように彼は走る。
少年は、身軽さを生かし、素早くヤツに近づくと、思い切り剣を振り切った。
まるで、柔らかい粘土を切るかの如く、ドラゴンの足が大きく切り裂かれた。
一歩遅れて、傷口から、大量の真っ赤な血が吹き出る。
そして、ヤツの絶叫と炎が、その口から吐き出された。
続いて、イジャスラフの斧が、渾身の力でその身に叩き込まれる、が。
「くそっ!」
頑強な鱗が、その一撃を阻んでいた。
「イジャスラフさん!」
「イリヤー、俺に構うな!」
イジャスラフは、ドラゴンの背中に乗り、鱗を叩き割ろうと斧を幾度も振り下ろす。
しかし、ただの大工道具に過ぎないそれは、鱗を突破することが出来ずにいた。
この鱗は、騎士を守る鎧の如く頑丈で、分厚い斧の刃ぐらいでは、ビクともしなかった。
一方、鱗をも易々と切れる剣を振るい、イリヤーはヤツの足を切り裂いていく。
肉を切り、腱を断ち、骨をも叩き割る、その破壊力は、およそ子供の力とは思えないほどであった。
そんな彼に反撃するように、ドラゴンの尻尾が激しくのたうった。
それが、イリヤーの頭をかすめ、髪の毛の数本がちぎれ飛んだ。
「この……っ!」
しなる動きの尻尾に、イリヤーの剣が、狙いをつけた。
鱗に覆われたそれを、剣を振り下ろし、体重をかけて一気に押し切る。
まるで、あの時の魚のように、尻尾はいともたやすく切断されていた。
「次は……」
その手にある剣を握りしめ、イリヤーは矢の刺さる首へと走り出す。
腕を大きくかざし、剣が日の光を反射して輝く。
一筋のきらめきを残して、三つ首の一つが、宙を舞った。
蛇のように、首は切り離された後も跳ね回り、その血を辺りに振りまく。
これで、当面の危機は回避されたと思われた矢先だったが。
「あっ」
ドラゴンの傷口がブクブクと泡を吹き、まるで意志を持った生き物の動きで、血液が紐状に伸び始めた。
「うえぇ、なにこれぇ」
イリヤーの目の前で、それは切り離された首を掴むと、一瞬で再び元に戻っていた。
煙を吹き、傷口が泡を立てて再生していく。
ふと気づくと、ドラゴンの身体のあちこちから、同じような煙が上がっていた。
大きな焚き火に、思い切り水をかけたかのように、白煙が、ドラゴンの身体を包み込む。
「な、なんだ、この煙は!」
服の袖で鼻と口を覆い、イジャスラフは煙から逃げようと、その身を低く屈めた。
――毒の息ではない、か。
咽せる苦しさも、目や粘膜を刺激する異臭もない、ただただ無味無臭の蒸気なのかそれは、もうもうと立ち上っていた。
冷たい風が、一陣吹き、白煙が薄れた時、彼らはその光景に驚いていた。
「あ、傷が……」
「治った、だと!」
ドラゴンの皮膚は、継ぎ目も無くキレイに接合し、まるで、最初から傷など無かったと言わんばかりに、鱗も元通りになっていた。
「ひるむな、イリヤー!何度でもたたっ切れ!」
呆然とするイリヤーに、イジャスラフは檄を飛ばした。
「このーっ!」
その言葉に喝を入れられたのか、彼は再び剣を握りしめ、力一杯にドラゴンを切りつける。
止むことの無い痛みに、ヤツは身体をよじり、背中のイジャスラフを振り落としにかかった。
そして、四方八方に火の息を振りまき、周囲を炎で包み込む。
枯れた草に火が燃え移り、勢いを増し、煙がもうもうと立ちこめた。
「うおっ、危ねぇ!」
背中から落とされまいと、イジャスラフは手を鱗に引っかけて、揺れに耐えた。
ドラゴンの尻尾が唸りを上げて、背中の邪魔者を叩き落とそうと、振り回される。
尻尾は、イジャスラフの頭を何度もかすめ、彼の衣服を容赦なく引きちぎった。
重い、質量のある衝撃が、イジャスラフの身体を襲った。そして身を切る冷たい風が、手の力を抜こうと全身に吹き付けた。
ドラゴンの鱗は一見トカゲのものにも見えるが、それよりも遙かに大きく強い鱗は、何か、見た覚えがある。
彼は、ドラゴンにしがみつき、それが何か思い出そうとしていた。
――考えろ、これと同じものを、俺はどこかで見ている。
ゴツゴツの分厚い鱗は、多角形にも見える、不思議な形だ。
少し前、森でイリヤーと出会った時、彼は木の樹皮を削いでいた。
堅い針葉樹林の表皮は、カラカラに乾燥し、規則正しくひび割れが入り、木に表情を与えている。
それは、目の前のドラゴンの鱗のように。
「これだ!」
彼は、斧をベルトに挟み込むと、ちょうなを手に持った。
そして、一息にそれを振り下ろすと、鱗と皮膚の隙間に刃を滑り込ませる。
思った通り、鱗はいとも簡単に剥がれていた。
軽快な音を立て、鱗が次々にめくれていく。厚みのあるそれは、ポロポロと落ちた。
だが、鱗を剥がされているのに、気づいたドラゴンが、背中の彼に、その首を向けていた。
矢が突き刺さった顎を、無理矢理開き、大きな口で息を吸い込んでいる。
「しまった、矢が……」
口を封じていたのは、毒を吐く首だった。
それに気づいた時、喉の奥で霧状のものが揺らめくのが見えた。
――このままでは、直撃する!
そう、イジャスラフが思った瞬間、風を切る音が響き、ドラゴンの口腔内に、一本の矢が突き刺さった。
放たれた矢の出所は、燃える炎の向こう側で、息を切らせつつ弓を構えていた、セルゲイだった。
毒の口から、ごぼりと血が流れ出る。
白樺――ベレスタは毒を寄せ付けない。
それは、ルーシの地に住まうスラヴ人ならば、誰もが知っている知恵だ。
毒を抑え、食品を傷ませずに保管できる、白樺の入れ物から来ている。
シャマンの託宣にもあった、白き木は、白樺のことであった。
イジャスラフは、さらに鱗を引きはがし、むき身になったそこに、木の杭を打ちつけた。
魔除けの文様が施された木が、頑強なドラゴンの身体にめり込んでいく。
大粒の汗を流しながら、彼は一心不乱にそれを叩き続けた。
「はあっ、はあっ、まだ倒れないのか」
肩で大きく息をして、イリヤーの剣がヤツを切り裂く。
幾度も剣は、その肉を断つが、しばらくすると泡が傷を覆い、たちどころに再生してしまう。
しかし、彼は諦めずに、何度もその身を切りつけた。
少しでも多く、傷を負わせれば、いつかは倒れると思って。
「やっぱり、首を切らないと、ダメなのかな」
手にかいた汗で、腕から剣がすっぽ抜けそうになる。
今一度、剣を振るおうと、イリヤーは身構えた。
だが。
「後ろだ!」
背後の死角から、尻尾がイリヤー目がけて飛んでいた。
イジャスラフが叫んだ時には、もう遅かった。
小さな身体は、あっけなく弾き飛ばされ、剣は明後日の方向に飛んでいき、彼は地面を転がっていく。
「イリヤー!」
イジャスラフの声が、辺りに響いた。
倒れ伏すイリヤーを、ドラゴンは踏みつぶすべく、足を動かした。
「やめろ!イリヤー!イリヤーっ!」
叫び声と同時に、ヤツの足にちょうなを食い込ませ、イジャスラフは、イリヤーを救おうと、その手を無我夢中で伸ばす。
セルゲイも、彼らを助けるべく、必死で白樺の矢を撃ち込んでいた。
イリヤーの小さな姿が、足の影に消えたと思われた時。
ドラゴンの足が、音も無く切り分けられ、大きな肉塊が、ごろりと転がった。
「はぁ、はぁ、あ、危なかった……」
そうつぶやき、イリヤーは己の手にある、聖なるベレスタの剣をじっと見る。
これは、確かに木で出来ている。しかし、目の前でこれはドラゴンの足を切り刻んだ。
手応えは全くない。
当たったという感覚すらない。
あるのは、切ったという事実だけ。
彼はゆっくりと、立ち上がった。
「イリヤー、ケガはないか!」
イジャスラフの呼びかけに、彼は手を振って応える。
「僕は平気です!」
溢れるヤツの血を飛び越え、イリヤーはその首を剣で指し示した。
「イジャスラフさん!首を狙います!」
「おう!」
足を一本失ったドラゴンは、バランスを崩して、さらに動きを鈍くさせる。
その隙を突き、イジャスラフは首を切り落とさんと、ちょうなを振るい続けた。
「今度こそ、首を落とす!」
剣を構え、イリヤーはそこ目がけて、まっすぐに駆ける。
走って、走って、切るべき箇所目がけて、腕を振り上げたのだが、その目の前にドラゴンの大きな口が行く手を塞いだ。
「あっ、まずい!」
口内が、真っ赤な炎で渦を巻き、それは一気に放出される。
その足を止めるのにも間に合わず、彼の身体は灼熱の業火に飲み込まれようとしていた。
思わず、聖なる剣でそれを防ぐ。
炎は剣と真っ正面からぶつかり、剣の力で火が二つに分断される。
イリヤーが、炎から抜け出た時、その木製の刀身は赤く燃え上がっていた。
「足を止めるな!そのまま切れ!」
声がした。
彼は剣を振り上げて、勢いよくそれを振り下ろした。
赤い軌跡が、宙に残る。
音も無く、ドラゴンの首は切り落とされた。
咄嗟に、切り口を見る。
そこは焼け焦げ、先ほど見た泡も、紐状の血液も、現われる気配は、無かった。
「な、治らない……!」
イリヤーは手応えを感じ、残る首も落とそうと、声を上げる。
「イジャスラフさん!下がってっ!」
「分かった!」
イリヤーの言葉に、彼がその身を引いた。目の前を赤い炎が横切った。
それは剣にまとわりつく火であり、また、イリヤーの赤い髪にも見えた。
二つ目の首が、一刀両断に落ちる。
今度も、それは再生をしない。黒焦げになった切断面から、肉の焼ける臭いがしていた。
残る首も、瞬く間に切り落とされて、胴体だけになったドラゴンは、苦しいのか醜くうごめいている。
「苦しみは、長引かせたらいけない。それは、残酷だから」
イジャスラフに、言われた言葉を口にして、彼はのたうつ胴に近づいた。
燃える聖なる剣が、ヤツの心臓があるとおぼしき箇所に、突き立てられる。
大した抵抗もなく、それは深々とその身を貫き、ドラゴンの息の根を、止めていた。