7 大工、川を渡る
荷車は森を抜け、なだらかな丘陵地帯を、ひた走っていた。
「ところで、イリヤー」
「何ですか、イジャスラフさん」
ゴトゴトと揺れる荷台の上で、イリヤーは返事をしていた。
「お前たちの村は、どこにあるんだ?」
冷たい風が、ぴゅうと吹く。
暖かなマントに包まりながら、イリヤーの小さな手が、前を指さしている。
「この先に川があって、渡し場があるんです。そこを渡って、進んだ先の川上です」
「渡船か……、この荷車は乗れるのか?」
「平気ですよ」
荷台で、二人の会話を聞いていたセルゲイが答える。
「結構、大きめの船だから、荷車も、馬も、たくさん乗れますよ」
「そうか、なら安心だな」
馬の手綱を持ち、イジャスラフは安堵の笑みを浮かべていた。
草原の中の川に渡し場がある。
蕩々と流れる大河は、交易の要でもあった。川幅は広く、対岸の村が豆粒の大きさに見えるほどだ。
冬だというのに、流れ込む水量が多いためか、その川面は凍ることなく流れていた。
「あれ、船がいないぞ」
丘陵地から望む、坂の下の渡し場を見やり、イジャスラフは困った顔をした。
「イジャスラフさん、川の中ほどに、船が」
「ああっ、行ったばかりかあ」
子供たちは目ざとくそれを見つけ、指を差す。
そこでは、川の半ばぐらいのところで、船が動いているのが判別できた。
「こりゃあ、しばらく渡れねえな」
「どうします?」
セルゲイの問いかけに、イジャスラフは腕を組んで考える。
「うーん、仕方が無い、待つついでに休憩するか」
騒いだところで、舟が無ければどうすることもできないのである。
大人と子供二人を乗せた荷車は、ゆっくりと坂を下っていった。
渡し場のそばに荷車を止め、一行はのんびりと休憩をしていた。
イジャスラフは荷車から馬を解き放ち、草の多い原っぱへと放してやる。
三人は、川縁の日当たりのいいところで、のんびりと船が戻るのを待っていた。
「暇だなあ、ちょいと暇潰しでもするか」
そう言って、イジャスラフは、近くに生えていた木の枝を、いくつか切り落とした。
短剣を使い、葉を丁寧に落とし、枝のみになったそれを、短く切り揃えていく。
「本当はよ、もっと太い枝がいいんだが、これでも無いよりはマシだ」
「なになに?」
「何をするんですか?」
イリヤーとセルゲイは、興味津々に彼の手元を覗き込む。
「おいおい、そんなに近づくと、危ないぞ」
イジャスラフは、小さめのナイフを取り出すと、枝の片方を鋭く断つ。
そして反対側の部分に、細かな切り込みを入れはじめた。
「ドラゴン退治の補助的なものだ。目か鱗の隙間にでも刺せれば、少しは役に立つだろう」
そう言って、先ほどの切り込みに沿うように、反対側からも、ナイフを入れた。
樹皮がペリペリとめくれ、枝には、幾何学的な文様が瞬く間に刻まれていた。
「わあ、すごい」
「これはな、俺たちスラヴ人の魔除けの文様だ」
一本、また一本と、枝は次々に簡易的な杭状の武器となる。
そうしていくつもそれを作り上げている時、彼は不意に背後から声をかけられた。
「イジャスラフじゃないか、こんなところで何やってんだ?」
手を止め、振り返る。
そこには、イジャスラフと同じ歳ぐらいの男が立っていた。
「なんだ、お前か」
鼻で大きく息を吐きながら、イジャスラフはそう言い、再び手を動かす。
「なんだとはなんだ、久しぶりだってのに……」
少し不愉快そうな顔をした男だが、彼の横に座るイリヤーの存在に気が付いたようで、男は二人の様子をじっと見つめていた。
イジャスラフと同じ、赤いクセのある髪に、人形のようなすべすべの白い肌と、可愛いらしい顔立ちは、昔の彼に瓜二つの容姿だった。
「おい、イジャスラフ」
「うん?」
「お前の息子、ずいぶん大きくなったなあ」
彼は言われて、目だけをついと横に動かし、イリヤーの顔を見る。
「……息子じゃねえよ」
ぼそり、と言った彼の様子に、男は何か気がついた顔をした。
「あ、そ、そうだよな、悪いな、つい……」
「いいよ、もう過ぎたことだ」
男はばつが悪そうに謝ると、そそくさと、この場を後にした。
そのやりとりの間でも、イジャスラフは手を休めず、黙々と枝を削り続けていた。
「イジャスラフさん」
「なんだ、イリヤー」
「今の人は?」
彼は手を止めると、ふう、と一息ついた。
「俺の幼なじみだ、今は違う村に住んでいるがな」
イリヤーは、遠ざかる男の背中を見ながら、呟いた。
「僕のこと、息子か、って……」
その言葉に、イジャスラフは困った顔で、口角を上げた。
「そうだったら、良かったのにな」
風が、川面を撫でていた。
それは、今から十年以上も前の話だ。
雪が降る、ある冬の深夜、一人の男の子が、イジャスラフの家で産声を上げた。
子供は元気に泣き叫び、小さな手足を懸命に動かす様に、彼も妻も涙を流して喜び祝福した。
しかし、当時の一家の生活は、貧しく厳しかった。
イジャスラフは、家族を養うために、大工仕事で家を離れる日々が多く、方々の村で家を建てては、彫刻を手がけ、家族を顧みずに働き続けていた。
ちょうどその頃は南方の遊牧民が、ここルーシの地で略奪を行っていた時期でもあり、彼の仕事は引っぱりだこの状態であった。
そんなある日、ようやく家に戻れた彼は、息子を連れて、森へと入った。
外は曇り空だが、まだ降るような天気ではないと思い、歩けない息子を背中に負って、薪になる木材を調達して回る。
しかし夢中になって森を歩くうち、天気は急激に悪化し、突然の吹雪が、彼ら親子を襲った。
視界は奪われ、気温はみるみるうちに下がり、凍てつく風が、肌を突き刺す。
イジャスラフは暖かな毛皮で息子をくるみ、寒い吹雪からその身を守るように、彼を抱きしめた。
白一色の、凍りつく世界で、彼ら親子の赤い髪が、炎のように揺らめいていた。
顔を叩く雪の粒に、イジャスラフは目をつぶり、ひたすらにそれが通り過ぎるのを待ち続ける。
そうして長い長い時が経ち、ふと目を開けると、腕の中の息子が忽然と消えているではないか。
思わず辺りを見回すと、絶え間なく吹きすさぶ雪の向こうで、小さな赤い火が、ぽつりと見えていた。
彼は、息子の名を呼び、それに向かって走り出した。
だが、いくら走っても、それは一向に近づかない。
白い息を巻き散らかし、彼はひたすらに走り続ける。
しかし、走っても走っても、それは遠くに見えたまま、ついには吹雪の向こうに消えてしまった。
彼は力尽き、崩れ落ちた。
冬の精霊が、息子を連れて行ってしまったと嘆いた。
仕事ばかりで、嫁と息子を顧みなかった自分に、天罰が下ったと泣き叫んだ。
もっと、息子と遊んでやりたかった。
もっと、抱きしめてやりたかった。
後悔の念は、尽きることが無かった。
しばらくして、少しだけ吹雪は弱まり、視界も徐々にだが、晴れてきた。
彼は、雪の森を、息子の名を呼んで、歩き回ったが、彼はついに見つからなかった。
息子は、雪と共に産まれ、雪と共に消えてしまった。
ある、ひと冬の出来事、だった。
「ちょうど、生きていれば、イリヤーと同じぐらいの歳だな」
どこか遠くを見つめながら、イジャスラフは鼻をすすった。
「イリヤー……」
「えっ」
「イリヤー・イジャスラヴィチ。俺の息子の名前だ」
目を潤ませて、彼はイリヤーの肩を抱いた。
「偶然ってのは、あるんだな。同じ名前だったんだよ」
「イリヤー、僕と同じ、名前……」
イジャスラフの顔を見上げて、イリヤーは何かを考えているようだった。
「だからな、初めて会った時、お前の名前を知った時、俺は内心驚いたんだ」
川の対岸で、渡船が動き始めた。
「かあちゃんもな、あの子が帰ってきたって、喜んでたよ」
別れの直前、イリヤーが思わず言った言葉。
それは、何気なく口にしたに過ぎなかったのだが、イジャスラフ夫妻にとって、とても意味のある言葉だったのかと、彼は気づかされていた。
「イリヤー、俺の家に来てくれて、ありがとうな」
呆然としている彼の肩を叩き、イジャスラフは立ち上がった。
「さて、川を渡る準備だ。セルゲイ、馬を連れてきてくれ」
「はい」
彼に言われ、セルゲイは雑草を食んでいる馬を探しに行く。
渡し場には、人や荷車が増え、各自渡河の支度をし始めていた。
渡船の上にて。
イリヤーは、セルゲイと共に、川面を見ながら物思いに耽っていた。
「ねえ、セルゲイ」
「うん?」
「僕の名前」
捨て子だったイリヤーは、セルゲイの父親である、村長の一存で名前をつけられた。
それは、当時子供だったセルゲイも、鮮明に覚えている記憶であった。
「父さんが、つけたんだよな」
風が、ぴゅうと吹いた。
「本当に、偶然なのかな?」
「さあな、イリヤーって名前はよくあるしな」
川面のさざ波の合間に、大きな魚の背中が見え隠れする。
雪の日に消えた、イリヤー。
雪の日に拾われた、イリヤー。
どちらも、赤い髪の男の子だ。
「今、思えば、お前がイジャスラフさんに気に入られてたのも、理由があったんだな」
「うん……」
「イジャスラフさんも、おばさんも、お前に、イリヤーという子を見ていたんだな」
ぽちゃん、と魚が深みに潜った。
「もしかしたら、お前の本当の親って、イジャスラフさんかもな」
「まさか」
冗談交じりでセルゲイが言ったことに、イリヤーは少しだけ動揺していた。
無事に渡河も済み、一行は再び進み出す。
いくつもの森や草原を走り、丘陵地帯を抜け、川沿いの道を、上流方向へ。
「この川を遡ったところが、僕らの村です」
そう言って、イリヤーの顔に緊張感が浮かぶ。
村に戻ったら、ドラゴン退治が待っているからだ。
それは、死ぬかもしれない、危険な任務でもある。
シャマンの加護があるとはいえ、恐ろしいドラゴンを相手に、戦わなければいけないのだ。
ドラゴンは人を食らい、船を沈め、湖を暴れ回る、交易路の招かれざる客だ。
次第に強ばる彼の身体を、大きな手が、そっと撫でさする。
「怖いか、イリヤー?」
彼は、黙ってうなずいた。
「すごく、怖い」
澄んだ瞳が、恐怖の色に染まる。
湖のドラゴンは、三つ首の巨大な怪物だ。
船よりも、もっと、もっと、大きい、傍若無人な巨大な生き物だ。
近づいたら、ペロリと食べられてしまうかもしれない、大きな胴体で潰されるかもしれない。
彼は震えていた。
「安心しろ、俺も、セルゲイもいる。お前が危なくなったら、俺が身代わりになってやる」
その言葉に、子供たちは驚いた。
「だめですよ、イジャスラフさん」
「そ、そうだよ、そんな……」
慌てた様子の二人に、イジャスラフは大声で笑い出した。
「わっはっは、いいんだよ、イリヤー。今度こそ、俺がお前を守る」
「えっ」
「これは、神がくれた、またとない機会だ」
イリヤーの頭を、彼は撫でた。
「後悔は、したくないんだ」
そう笑う、彼の目は、覚悟を決めた、男の目であった。
「まあ、一番いいのは、誰もケガしないことだがな」
三人は、顔を見合わせて、お互いに笑い出していた。
夜。
街道脇で、三人は野宿と相成っていた。
「セルゲイ、矢の数は何本ある?」
焚き火の番をしながら、イジャスラフは問いかけた。
傍らでは、疲れたのか、イリヤーが小さな寝息を立てている。
「十本ですね」
「それでは足りないな、村に着いたら、村じゅうの矢を出してもらおう」
セルゲイの弓は強くなったが、肝心の矢が、少し心許ない。
ドラゴン相手に、矢の回収など不可能と判断し、彼は出来るだけ矢を持たせようと考えた。
「では、父に言って、皆に協力してもらいます」
「よし」
「ところで、イジャスラフさんは、どんな武器を持ってきたんですか?」
言われて、彼は荷物袋を漁った。
「弓と、あと……」
目の前に出されるのは、合成弓と、大工道具だ。
「ええ、これ、仕事用じゃないんですか?」
「そうだ、だが、武器にもなるぞ」
そう言って、彼は斧を一つ、手に取った。
「これで、ドラゴンの首をぶった切ってやる」
それは、いくつもの大木を伐採してきた、相棒とも言える斧だった。
幅広の刃に、重そうな厚みのそれは、戦い用の斧と言われても、充分に通じる大きさであった。
そんな大事な道具を、彼は惜しげも無く使用すると、言ったのだ。
「せめて、違うのを使いましょうよ。私の家の道具を出しますから」
セルゲイの言葉に、彼は頭を振った。
「いいや、使い慣れたものが一番だ。この道具のクセを知っているからな」
飴色になった、斧の柄を握る。
己の鼓動に合わせて、それが呼吸をしているかのような、錯覚が彼を襲う。
だが、それは錯覚などではなかった。
斧は、彼の身体の一部として、静かに、力強く息づいていた。
「うーん、イジャスラフさんが、そう言うなら、私は何も言えないです」
困りながらも、微笑むセルゲイに、彼も笑顔で返答する。
「さあ、そろそろ寝るとするか、村はもうすぐなんだろう?」
「はい、このぶんだと、明日の昼前には着きそうですね」
三人は寄り添い、冷たい夜風に耐えながら、眠りにつこうとしていた。
――しっかり休めるのは、今夜が最後だろう。
イジャスラフは、そう思っていた。
明日は、村にて戦支度で、そしてその翌日には、ドラゴン退治となる。
それを考えると、これ以上、子供たちの体力を減らすのは、よくない。
特に、イリヤーは、なんとしても守らないといけないのだから。
薄雲の隙間から見える夜空に、星が力強く輝いて、いた。