10 それぞれの生き方
三つ首のドラゴンの身体に、聖なる剣が深々と突き刺さった。
その傷口からは、赤黒い血が、とめどなく流れ続ける。
既に、ドラゴンだったものは、その動きを完全に止め、己の血の海の中に、巨大な骸を横たえているのみとなった。
「イリヤー」
そんなドラゴンを、無言で見つめるイリヤーの背後から、声がした。
彼が振り向くと、そこには頭から大粒の汗を流し、上気した顔のイジャスラフが、にこやかに微笑んでいた。
「よくやった、頑張ったな」
そう言って、彼はイリヤーの身体を抱きしめてやる。
「イジャスラフさん、僕、僕……」
イリヤーも、彼の身体を抱き返す。
だが、彼の背中に手が触れた時、イリヤーはその感触に、驚いていた。
「あっ、血が……」
イジャスラフの背中は、羽織っていた毛皮がちぎれ、切り裂かれた服には、血がにじんでいたからだ。
「ご、ごめんなさい。僕、知らなくて……」
「いいんだ、イリヤー。俺はお前を守れた、それで充分なんだ」
イリヤーの頭を撫で、彼は満足そうにうなずいた。
あの戦いの最中、イジャスラフはイリヤーを庇うように、ドラゴンの注意をわざと引き、尻尾や、鋭いかまいたちのような息の攻撃を受け続けていたのだ。
守る。ただ、その一念のために。
「ありがとう、イジャスラフさん」
勇者として、使命を成し遂げたイリヤーの目に、涙が浮かんでいた。
ドラゴンの吐いた炎が消え、白煙がもくもくと立ち上っていた。
煙の向こうから、セルゲイが手を振って近づいてきた。
「おーい、イリヤー、イジャスラフさん」
「あ、セルゲイだ」
彼は、弓と共に、その手に長い何かを持っていた。
「イリヤー、お前の剣、ずいぶん遠くまで飛んでいったな」
笑いながら、彼は輝く剣をイリヤーに差し出した。
「うん、すごい飛んじゃったね」
照れながら、イリヤーは、その剣を受け取った。
「セルゲイ、お前も頑張ったな」
「いえ、そんな……」
イジャスラフの賞賛に、彼もまた、顔を紅くして照れている。
そんな二人を見ながら、イリヤーがその剣を地面に軽く突き立てた、その時だ。
轟音と共に、地面が二つに割れ、ドラゴンの血が、その裂け目に全て吸い込まれていた。
「大地は血を受け入れる、か」
イジャスラフが、ぽつりと言葉を発する。
「シャマンの言った通りになったな」
「えっ」
イリヤーの澄んだ目が、彼を見上げた。
「お前は、やはり勇者になるべく、産まれた子供だったんだ」
イジャスラフの、嬉しくも、どこか寂しげな表情に、イリヤーは首を振った。
「違います、僕は勇者じゃない。僕は、僕は……!」
彼の、色白で可愛らしい顔が、真っ赤に染まる。
「お父さん、僕は、お父さんの息子です!」
「イリヤー……」
その言葉に、イジャスラフは彼を、イリヤーを見、そして、優しく頭を撫でていた。
「ありがとうな、でもな、違うんだよ」
「イジャ……、お父さん」
「お前はもう、ドラゴンを倒した勇者なんだ。大工の息子じゃない」
言いながら、彼の目から、涙がこぼれた。
「大工の息子は、ドラゴンを倒せない。倒せるのは、勇者として産まれた子だけだ」
「そんな……」
イリヤーの頬を、涙が伝った。
「でもな、俺は嬉しいぞ」
大きな、分厚い傷だらけの手が、彼の頬を拭う。
「たとえ一時でもいい、俺とかあちゃんを、親と思ってくれていた。それで俺は満足だ」
イジャスラフは、にこりと微笑んだ。
その無理をしているような笑顔に、イリヤーは涙が止まらなくなっていた。
「お父さん……、お父さん!」
「イリヤー、ありがとう」
イリヤーは、大声で泣いた。
二人は抱きしめ合い、共に涙を流していた。
湖畔に、冷たい風が吹き渡る。
血を流し尽くしたドラゴンの骸は、岩と化し、その身に打ち込まれた杭からは、小さな葉が、芽吹きつつあった。
「この木は、ここに根付くのでしょうか」
風に吹かれて揺れる葉に、セルゲイは疑問を述べる。
「どうだろうな、運が良ければ、大きくなれるだろうな」
赤い毛の頭を掻き、イジャスラフはそう答えた。
「なれるよ」
緑の葉に、小さな勇者が言葉をかけた。
「大きくなれる、僕はそう思う」
力強く、彼は葉を見つめていた。
「そうだな、イリヤーの言う通りだ」
イジャスラフもうなずき、彼に同意をする。
「では、それが真実になるか、私が見守りましょう」
セルゲイは、微笑んでいた。
「なあ、イリヤー」
「えっ」
「お前も、私と一緒に、見守っていこう」
その問いかけに、彼はただ、うなずくだけであった。
数日後。
村の中を歩くイリヤーは、皆からの感謝を受けつつも、どこか晴れない面持ちであった。
三つ首ドラゴンは倒した。なのに、ふわふわとした安定の悪さがある。
その原因が何なのか、彼はこの数日、ずっと考えていた。
「どうした、イリヤー」
そんな考え事をしつつ一人、枯草の中で寝転んでいると、不意に声をかけられた。
「あ、イジャスラフさん、ケガはどうですか?」
イリヤーは起き上がり、にこりと笑う。
だが、それは無理をしているのが、分かるものであった。
「だいぶ良くなった、もうすぐ家に帰れそうだな」
イジャスラフは、彼の隣に座ると、その赤い頭を撫でてやる。
「よかった。イジャスラフさんに何かあったら、僕、どうしようかと思った」
「わはは、大丈夫だ。俺は頑丈だからな」
豪快に笑うその姿に、イリヤーは不思議と安心感を得ていた。
「それにしても、聖なる剣を、ああ使うなんぞ、俺には思いつかなかったな」
数日前の戦いを思い出し、彼はうんうんとうなずいていた。
「普通の剣では、傷は再生してしまう。だが傷口を焼けば、再生しないと」
「うん、それは僕もびっくりしました」
イリヤーの目が、空を仰ぎ見る。
空は雲一つ無く、冬にしては好天続きの珍しいものだった。
「俺が、あんなにすごい剣を作ったとはな、未だに信じられん」
と、イリヤーがくすくすと笑い出した。
「忘れちゃったんですか?イジャスラフさん」
「うん?」
「聞いたことがなければ、聞かせてやるって。ドラゴン退治の聖なる剣」
「……そうだったな」
互いに顔を見合わせて、二人は笑っていた。
枯草の中に、二つの赤い髪が揺れている。
それは遠目に、草原の野火のようにも見えていた。
「それでね、イジャスラフさん」
「何だ、イリヤー」
「僕、決めたんです」
姿勢を正し、イリヤーは彼に向き直る。
枯草の上を風が薙ぎ、カサカサと音をたてていた。
「僕、旅に、出ることにしました」
満面の笑みだった。
そんな顔のイリヤーに、イジャスラフは少しだけ、悲しい顔をしていた。
「何故だ」
「うん、その方が、いいかなと、思って」
精一杯の、彼なりの答えだった。
イジャスラフは、大きくため息をついた。
「嘘をつけ」
「えっ」
「村長だろう、あいつに何を言われた」
怒りの表情の彼を、イリヤーは首を振って止めていた。
「違います、村長は関係ないです。これは、僕の考えなんです」
「本当だな?」
「はい」
イリヤーの澄んだ瞳に、イジャスラフの姿が映り込む。
「でも、何だって旅に出たいんだ?」
「僕、今回のことで、初めて外に出て、いろんなことを知りました」
イジャスラフは、思い返していた。
何も知らなかった彼が、様々なことを体験し、学び、成長していったのを。
共に魚を釣り、共に寝起きもし、自分の仕事ぶりも見せた。
気弱な少年イリヤーは、今や立派な勇者イリヤーとなり、ドラゴンを退治した。
目を輝かせ、全てに興味を示した彼は、もっと広い世界を見たがるのだろう。
それこそ、ドラゴン退治の勇者イリヤーとして。
「僕、もっといろんなことを見たいんです、いろんなところに行ってみたいんです」
やはり、という目で、イジャスラフは彼を見た。
「でも、その前に……」
照れくさそうに、イリヤーは次の言葉を継いでいた。
村長の家。
「セルゲイ、お話があるんだ」
「ちょうど良かった。私も、イリヤーに話があるんだ」
居間にて、イリヤーとセルゲイ、そしてイジャスラフの三人が顔を突き合わせていた。
「ん……、先にセルゲイからどうぞ」
言いづらそうな仕草をして、イリヤーは彼に促していた。
「うん、じゃあ私から」
背筋を伸ばして、セルゲイは軽く咳払いをする。
「実は、村長の職を継ぐことに、決めたんだ」
「え、本当?」
イリヤーの言葉に、セルゲイはうなずいた。
「前から、父さんに言われていたしね。それに……」
ポリポリと頬を掻き、恥ずかしそうに彼は言う。
「イリヤーにも、今までのこと、あるしさ。次期村長として、お礼もしたいんだ」
その言葉に、イリヤーの顔に、一抹の寂しさが浮かぶ。
「なあ、イリヤー、これからも村を一緒に守ろう」
「セルゲイ……」
思わず、イリヤーはイジャスラフを見る。
だが、彼は自分の口で言えとばかりに、ついと目を反らしていた。
「あっ、あのね、セルゲイ」
「うん」
「僕、旅に出ることに決めたんだ」
「ええっ」
当然の反応だった。
セルゲイは、これからもイリヤーが村に住むものだと、思っていたからである。
「どうしてだ?やっぱり、この家にいたくないのか?」
首を振り、イリヤーはそれを否定する。
「外の世界、見てみたいんだ。それだけだよ」
「イリヤー……」
セルゲイが、寂しそうな表情をする。
せっかく、分かり合えた弟のような友。その彼が、遠くへ行ってしまうことに。
ようやっと得たイリヤーの自由だが、それを奪っては、また悲しませてしまうと、彼は気づいていた。
「お前が、そう決めたのなら、私は止めない。行ってこいとしか言えないよ」
彼の手を取り、イリヤーは元気よく言う。
「うん、僕、行ってくる」
お互いの手を、固く握り合った。
喧嘩をし、そして思いの丈を語り、和解した、あの日のように。
二人は、共にドラゴンを倒した勇者として、その絆を深めていた。
そして、旅立ちの日。
支度を調えたイジャスラフは、家の前で荷車の支度をしつつ、イリヤーを待っていた。
天気は良く、どこまでも澄み切った、青い空が、彼の目に映り込む。
「この晴れ間のうちに、家に戻らないとな」
誰に聞かせるでもなく、彼はそう言う。
早く家に帰ろう、家では妻が、自分の帰りを待っている。
そして、何があったか教えてやろう、きっと驚くはずだから。
そんなことを思いながら、一人微笑むと、家の扉が開いていた。
「お待たせしましたっ」
「おう、ようやくお出ましか」
見覚えのある、彼の妻の仕立てたマントに身を包み、勇者イリヤーが家から出てきた。
続いて、セルゲイや、村長、家の手伝いの者たちも、姿を見せる。
「イリヤー」
「セルゲイ」
旅装束の彼に、セルゲイは無理をしているような笑顔を向けた。
「気をつけて、行ってこいよ。勇者だからって、無理をしないように」
「うん、セルゲイも、お仕事、頑張ってね」
「ありがとう、それと何かあったら、いつでも私を頼ってくれ。できる限り力になるから」
セルゲイよりも、ずっと小さなイリヤーを、彼は抱きしめる。
「セルゲイ、今までありがとう」
「イリヤーも、ありがとう。お前は大事な親友だ」
涙を流し、二人はお互いに、その別れを惜しんでいた。
「それじゃ、僕、行くね」
「ああ」
イジャスラフの荷車へと、イリヤーは駆けていく。
「俺も家に戻るよ、セルゲイ」
「はい、イジャスラフさんも、お世話になりました」
そう言って、セルゲイはぺこりとお辞儀をした。
「いいってことよ。その代わり、家を建てる時は、よろしくな」
「そうですね、是非!」
イジャスラフの差し出した手を、彼は力強く握り返していた。
「じゃあな、セルゲイ」
「さようなら、イジャスラフさん、イリヤー!」
イリヤーが荷台に乗るのを確認し、イジャスラフも荷台に乗り込み手綱を握った。
荷車が、ゆっくりと動き出した。
馬の尻に鞭を入れながら、イジャスラフらは手を振り続ける。
村人たちにも、見送られ、二人はこの村を後にした。
「ただいま、かあちゃん」
勝手知ったる我が家につくなり、イジャスラフは大声でその帰還を告げた。
「あらあら、おかえりなさい」
台所からは、いつものスヴェトラーナの笑顔が、イジャスラフを出迎えている。
変わらないその様子に、彼はほっと一安心していた。
「イリヤーのドラゴン退治、無事に成功したぞ」
「本当かい?」
「ああ、詳しくは本人から聞くといい」
笑顔のイジャスラフの背後に、見覚えのある人影がいるのに、彼女は気づいた。
「やぁだ、イリヤーちゃんじゃないの!」
「た、ただいまです……」
恰幅のいい妻に抱きしめられて、イリヤーは少しだけ苦しそうな顔をした。
「おいおい、イリヤーが苦しがっているぞ」
「あらやだ、ごめんなさいねえ」
イリヤーの顔が、真っ赤になっている。
だが、その心の内は、苦しさとは真逆の、とても暖かな気持ちであった。
その年の冬。
イリヤーは、旅に関する知識や、道具の使い方、また獣の捕り方など、様々なことを、イジャスラフから教わり、その身に学んでいた。
馬の乗りこなしから、火を起こし暖を取る方法や、空の動きから明日の天候を読み取る術など。
今まで知らなかったことを知り、次々に吸収する様子は、まさに天性の才能で、それは勇者の二つ名に相応しきものであった。
夫妻は、その成長ぶりを、微笑ましく見つめ、喜び、彼を息子のように愛した。
そして、冬は過ぎ去り、心地いい陽気がやって来た、春。
少しだけ、背の伸びたイリヤーは、家の前に佇んでいた。
その傍らには、イジャスラフ夫妻から贈られた、一頭の馬がいる。
彼は、馬に飛び乗ると、見送る夫妻に頭を下げた。
「では、行ってきます」
イリヤーは、新しく仕立ててもらった服とマントに身を包み、腰にあの輝く剣と、イジャスラフに貰った短剣を差している。
「気をつけるんだよ、絶対にケガをしちゃいけないからね」
「はい」
スヴェトラーナの言葉に、イリヤーは笑顔で返した。
「イリヤー」
「はい、イジャスラフさん」
「お前は、勇者だ。それを忘れるな」
「はい」
力強く、彼はうなずいた。
「それとな」
イジャスラフの目から、涙がこぼれた。
「どこかで、可愛い娘と結婚することがあったら、俺に家を建てさせてくれ」
頬を、熱い何かが伝う。
「お前がどこにいても、俺は駆けつける。たとえ地の果てでも、行くからな」
「……ありがとう、ございます」
イリヤーの目にも、涙が浮かんでいた。
「イリヤー、達者でな」
「はい、イジャスラフさん」
イリヤーは手綱を握りしめ、馬の腹を軽く蹴った。
ゆっくりと、馬の足が動き出した。
「さようなら!お父さん、お母さん!」
その言葉に、夫妻は大きく手を振った。
「ありがとうね、イリヤーちゃん!」
「イリヤー!元気でな!」
遠ざかる彼の背中を、イジャスラフ夫妻は、いつまでも見送った。
小さな勇者イリヤー。
彼はこの後、キエフ・ルーシの地を股にかける、英雄となる。
春の暖かな風が、森を、村を、吹き渡っていた。




