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 俺は、感情のようなものを得る代わりに失った物がいくつかある。動物に必要な五感も、そのうちの二つが欠けてしまっていた。


 一つは味覚。そしてもう一つが、触覚だった。


 触覚がないというと、普通は『痛みがない』程度にしか思わないだろう。確かに俺は痛みを知らない。故にもしも誰かに叩かれたとしても、痛みどころか叩かれたという事すら分からないだろう。物を持っても触っても、なんの感覚もない。

 だが実際、触覚がないというのはもっと面倒だった。例えば、熱い冷たいという感覚もない。風呂に入っても湯の温度がまず分からないし、水の感触すら分からない。

 更に面倒なのが気温という物で、勿論それも感じられない。人間の厄介な点は、気温によって服装が変わるという事だ。厚着をしたり薄着になったり。

 俺は毎日、部屋に設置してある温度計と周囲の人間の恰好を見ながら、服を選んでいた。制服ならまだ楽だが、私服は手間がかかる。


 そんな俺にとって、寒がり猫と雪だるまという物語はまさしく『謎』だった。さむい、あたたかいという文字が山のように並んでいたが、俺はまずそれを理解出来ていないのだ。二人だとあたたかいなどという記述もあったが、この概念も謎だ。雪だるまと話したところで、猫は物理的にあたたかくなるわけではない。

 そもそもだ。寒いという事は、そこまで孤独なのだろうか。ならば、あたたかい場所――そう、例えば今まさに俺がいる風呂場などは、人間にとって楽しい場所なのだろうか。

 確かに、温泉に入る人間が発する台詞に「極楽極楽」などという物がある。それならばなんだ、あたたかいというのはいい事なのか?

 俺はシャワーの温度を、三十八度から上限値まで上げてみた。白い水蒸気が一帯を包み込む。胸、腕、背中とシャワーを当ててみるが、これといった変化はなかった。


「ちょっ、おまっ、なんだこれあっつ!」


 背後から聞き慣れた声がした。振り向くと、腕を上下に振っている轟の姿があった。知らない間に俺のシャワーの湯が、後ろに飛んでいたらしい。轟は俺のシャワーの温度を確かめ、慌てて湯を止めた。


「何してんだお前。身体、真っ赤じゃねーか」


 俺は全身を確かめる。確かに赤いが問題はない。これは人工皮膚で、温度を感知して赤くなるようになっているし、この程度で支障が出るほど脆弱な代物でもなかった。俺は自身の身体を見下ろして断言する。


「平気だ」

「突然熱湯を浴びせられた俺の方が平気じゃねーよ」

「すまなかった」

「何だよおめー、死ぬ気か?」


 俺はアンドロイドであるが、耐水性も勿論あるので風呂に入っても故障はしない。よって、壊れるつもりは毛頭なかった。

 轟はぶちぶち言いながらも「身体に負担が少なくて、熱いのがいいならこれ位にしとけ」と、シャワーの温度を四十二度に変更した。再度頭からそれを被ってみるが、やはり何も分からない。

 轟は俺の隣のシャワーを使い、髪を洗い始めた。シャンプーや石鹸は、風呂場に備え付けられている。ただし安物だが。

 俺は、頭皮を痛めそうなくらいに爪を立てて頭を洗っている轟に声をかけた。


「――なあ、轟」

「なんだ」

「お前、風呂は好きか」

「はあ?」


 轟は、泡だらけの髪と顔をあげた。


「別に、好きでも嫌いでもねーよ。とりあえず、嫌でも入るのがエチケットだろ」

「風呂に入るのが嫌だと思う時があるのか」

「面倒だと思う時はあるな」

「風呂場はあたたかいのに?」

「はああ?」


 両手を動かし続けていた轟だが、その動きを止めた。よほどおかしな質問だったようだ。しかし、言ってしまった物はもう遅い。

 轟は半ば呆れたように俺を見上げ、しかしやがて諦めたように呟いた。


「……寒がりだったら好きなんじゃねーのか。俺は暑がりだから、そんなに。どっちかってーと俺は、サウナに入ってから水風呂に入るのが好きだな」

「水風呂? 水風呂というと、冷たい風呂か?」

「今更何言ってんだ? まさかおめー、銭湯に行った事もねえのか」

「ない」

「マジかよ」


 轟は驚いたようだったが、これといって追及してこなかった。そういう奴もいるんだなあと言いながら、髪の泡を洗い流す。俺は轟に質問を続けた。


「お前、冷たい風呂がいいのか」

「ずっと水風呂に浸かってる訳じゃねーよ。熱めの露天風呂とかサウナから、水風呂に行くのがいいんだ」

「サウナは暑いんだよな?」

「……サウナも行った事ねーのか。そうだよ」

「暑い所から寒い所に、お前は好んで行くのか?」

「悪いか」

「いや、そうではないのだが」


 ――訳が分からない。人間は寒さを恐れているのではないのか? 寒い所からあたたかい所へ行くのがいいのではないのか? 寒い、冷たいという感覚は人間にとって不快ではないのか?

 何がどうなっている。


「お前さあ。またなんか、哲学的に考えてるんじゃねーか?」


 ボディソープを泡立てながら、轟は笑った。


「あんまり考えすぎると鬱になるぜ。知ってっか? 某大学の哲学科の自殺率は異常に高いっての」

「ああ」

「つまり、考えすぎは禁物ってことだ。人生、気楽にやりゃあいいんだよ」

「そうだな」


 俺はシャワーを止めた。轟は身体に付着した泡をシャワーで洗い流す。清潔に汚染された水が排水溝へと流れていく様子を、俺はしばらく眺め続けた。



 風呂から上がり談話室へ行くと、そこには予想通り名倉と森口の姿があった。名倉は相変わらず街の絵を描いている。今回は珍しく、赤色のボールペンを使用しているようだ。森口が名倉に何かを話しかけながら、その様子を見守っていた。


「相変わらず、写真のような絵だな」


 俺が上から覗き込むと、森口だけが顔をあげた。名倉は絵に集中している。今回は鳥瞰図ではなく、名倉の目線から見た街並みのようであった。――いや、これは商店街だろう。精肉店や婦人服店、古ぼけたような本屋が並んでいる。


「山田君。珍しいね、こんな時間に」


 森口がぽかんとした表情でそう言った。時刻は夜の九時。普段の俺なら部屋にこもって読書でもしているところだ。だがこの二人は、いつも談話室にいる。轟が言っていた通りだった。


「森口に用があったんだ。今ちょっといいか? ああ、場所はここで構わない」

「いいよ。なに?」


 俺は名倉の隣、森口の向かいに腰掛けた。


「森口の家は大家族だと言っていたな」

「え? うん、そうだけど……」

「九人家族だったはずだ。両親と六人の子供、それから父方の祖母。きょうだいでは森口が長女で、その次が長男、次女、三女、次男、三男の順だ」

「よく覚えてるね」


 森口はますますぽかんとした表情になった。しかし、俺が聞きたいのはそこではない。もしかしたら変な質問になるかもしれないと思い、俺は森口の方に顔を近づけ、小声で言った。


「その、大家族というのはあたたかいのか?」

「へっ?」


 案の定、変な質問だったようだ。森口はブロンズ像のように凝り固まってしまった。しかし、猫と雪だるまの話を信じるのであれば、『人といるのはあたたかい事』なのだ。ならば、人が多ければ多いほど、あたたかいのではないのか。俺の仮説はおかしいのか?


「えっと……質問の意味が分からないんだけど……」

「そうだな、質問の仕方を変えよう。一人っ子よりも大家族の方があたたかいのか?」

「え?」


 森口は今度こそ、彫刻のようになってしまった。オーギュスト・ロダンの考える人とまでは言わないが、それに近いようなポーズをしている。しかし、森口は人間である。やがて息を吹き返したように、ふと顔をあげた。


「それはあの、寂しいとかそういう事を言いたいの?」

「寂しい? そうか。寒いとはつまり、寂しいのか」

「え?」

「なんだ、違うのか?」

「いや、あの……」


 森口は困ったように、顔面をあちこちに振っている。俺の隣で、名倉がボールペンを動かす音だけが断続的に続いた。

 森口は再び考える人のポーズを取り、三十秒ほどしてからまたもや顔をあげた。


「なんていうか……山田君にしては珍しいね」

「何がだ」

「質問の意図がよく分からないの。いつもはきちんと組み立てられた完璧な日本語で話すのに、今日の質問は漠然としてると言うか……山田君らしくないなあって」

「そうか?」

「うん。ええっと、最初の質問は何だったっけ」

「大家族というのはあたたかいのか?」

「ああそう、それ。騒がしいのか? って訊かれたなら、答えは当然イエスだよ。末っ子は、私が家にいた頃はまだ幼稚園児で、しかもかなりやんちゃだったし。でも、そうだなあ。あたたかいとか、そういう風に考えた事はなかったな」

「ならば、質問されてみたらどう思った? あたたかいと思うか?」

「うーん」


 実は言いにくいんだけどね、と一言添えてから、森口は呟いた。


「私は、一人の方が好きなんだ。だから正直、この寮の一人部屋はすごく落ち着くよ」


 俺はよほどおかしな表情を作ったらしい。森口に「そんな顔の山田君初めて見た」と言われた。


「一人というのは、寒くないのか?」

「……ごめん、その言葉の意味がよく分からないんだけど。寂しいって事でいいのかな。だとすればほら、英語の単語。孤独って単語は二つあるでしょう?」

「solitudeとlonelinessか」

「そう。その二つって、日本語にしたら孤独とか一人とかだけど、それぞれ意味が違うじゃない。solitudeの『一人』は単なる数的概念として捉えられるけど、lonelinessはそこに寂しいとかそういうのが加わる。誰とも繋がっていないような状態の事。私が好きなのは、solitudeの方だよ」

「つまり、一人だからといって寂しいとは限らないと?」

「うん。ヒカル君もどっちかと言えば、大勢より少人数の方が好きなんじゃないかな」


 俺は名倉に目をやる。名倉は電線を描くのに夢中だ。


「という事は、一人は寒くないのか」

「まだそれ言うんだね。うん、そうだと思うよ」


 ――ますます訳が分からない。さむがり猫と雪だるま。あのおとぎ話はなんなのだ? 一人が寒くないのなら、そして寒いのがつらくないのであれば、あれは物語として破綻している。

 一匹で活動していた猫に対して雪だるまは「さむそう」だと言っているし、更には二人だと寒くないとも記述されていた。しかし、森口は一人が好きだし寒くないと言う。どういうことだ。意味が分からない。

 今度は俺の方がロダンのポーズを取っていると、森口が「でも」と付け足した。


「一人の意味がlonelinessの方だったら、それは寒いのかもしれない。一人より大勢の人といたいって、思うかも」


 俺は顔をあげた。光明とも言える言葉を聞いた気がした。


「そうなのか?」

「うん。私はほら、沢山の人に囲まれて育ってきたから一人が好き。でも逆に、独りぼっちだったらきっと人と触れたくなる。人間って、ない物ねだりだもの」

「では、一人で育ってきたら寒いのか」

「極論だし比喩的だけど……そうだと思う」


 ようやくあの物語が掴めてきたような気がする。つまりあの物語の猫はlonelinessの方の一人だったのだ。だから寒かった。しかし、ならば何故雪だるまと話したらあたたかくなるんだ? 雪だるまと対話したところで気温が上がる訳でも猫の体温が上がる訳でもない。

 いやきっとこれは物理的な問題ではなく、比喩表現に違いない。一人ではなく話し相手が出来たから、あたたかくなったという事か。成程少し理解できた。


「……山田君、心の声がすごく出てるよ。猫とか雪だるまがどうしたの?」

「ああいや、なんでもない」

「できました」


 名倉が勢いよく顔をあげた。森口と二人でA4用紙を覗き込む。ものの見事に商店街の光景が描写されていて、しかしそこには人が一人もいなかった。季節を表すものが何もないので、春夏秋冬も分からない。

 しかし俺はふと思いついて、名倉に頼んだ。


「名倉。猫を描いてくれないか」

「ねこ? ねこさんですか?」

「そう、猫さんだ」

「ねこさん、ねこさん……。くろいのですか? しろいのですか? ちゃいろですか? それとも……」

「白い猫を。――雪のように白い猫だ」

「しろいねこさん。しろいねこさん。ねこさん、首輪はあかいろですか、あおいろですか」

「いや、首輪は要らない。野良猫が良いんだ」

「のらねこさんですか。のら……のらねこさん、しろいろ、のらねこさん」


 こんな漠然とした注文にも関わらず、名倉はあっという間に猫を書き上げた。横向きのシルエットで、精肉店を見ているような格好になっている。雪だるまも追加注文したかったが、描き足せそうなスペースはなかった。

 俺は描き終えたそれをひょいと持ち上げると、名倉に言った。


「これ、貰ってもいいか?」

「あげます、どうぞ」

「ありがとう」


 俺の言葉を聞いているのかいないのか、名倉は壁時計に目をやった。時刻はちょうど九時半だ。それを確認した途端、これまたすごい勢いで名倉は立ち上がった。森口は慣れているのか、何も言わない。

 名倉は自分の顔の前で右手をひらひらさせながら、どこを見ているのか分からない目で歩き出した。


「お風呂の時間です。さようなら」

「うん。おやすみヒカル君」

「おやすみヒカル君。お風呂の時間です、さようなら」


 遠ざかっていく名倉の背中を見送った後、森口がこちらを向いた。


「今日は珍しい事が続くなあ」

「なんだ?」

「ヒカル君。いつもは、何かリクエストしても描いてくれないよ? でも今日は猫の絵を描いてくれた。ちょっと見せてくれる?」


 森口に用紙を渡すと、彼女は「すごい」と感嘆した。


「ヒカル君って、動物や人間を描かないんだよね。基本街の絵が多くて、あとはたまに自動車とか飛行機の絵を描くの。彼が猫を描いてるの、初めて見た。やっぱり何を描いても上手いんだなあ」


 すごいすごいを繰り返す森口を見ながら、俺は思っていた事を訊ねた。


「森口はどうしてそこまで、名倉のそばに居ようとするんだ?」


 森口はそうだなあ、と言いながら、俺に絵を渡してきた。


「ここに来てから、私の演奏を最初に褒めてくれたのが、ヒカル君だったんだよね」

「そうなのか?」

「うん。この学校に来た頃、周りは色んな才能を持った子たちばっかりでさ。私ちょっと怖かったんだ。自分だけはみ出してるんじゃないかなあって。でもある日、私がここでピアノを弾いてた時、ヒカル君が突然乱入してきたの。ノックもなしで」

「それは驚いただろう」

「まあね」


 森口は苦笑した。


「でも、その後彼はその場で一枚の絵を描いて、私にくれた。――あの絵も、ヒカル君にしてはとても珍しかったな」

「何の絵だったんだ?」

「夜空。星がたくさんあるの。これまた彼にしては珍しい事に、水彩絵の具で描かれた物だった。とっても綺麗な絵だったんだけどね、それを描き終わったヒカル君が言ったの。『あなたのピアノはこれです』って」

「森口の演奏が、夜空か」

「その時弾いてたのが、きらきら星変奏曲だったんだ。だから星空だったのかもしれない。でも私はそれが嬉しくて、もっと頑張ろうって思えたの。それに、彼の絵を楽譜にしてみたいとも思った。どんな音楽が出来るのかなって」


 森口はどこか恥ずかしそうにそう言った。酷い猫背だ。やはり、演奏する時の彼女と、普段の彼女は人格が変わるのではないだろうか。


「その星空の絵はどうしたんだ?」


 俺の言葉に、森口ははにかんだ。


「額に入れて、部屋に飾ってる。――いつかあの絵を見て、演奏しようと思ってるんだ。きらきら星変奏曲じゃなくて、私のオリジナル作品を。ヒカル君のために」



 自室に戻り、電気をつける。ほとんど備え付けの物しか置かれていない、殺風景な部屋。

 俺はデスクから押しピンを取り出して、デスクの上に名倉の絵を貼り付けた。作品に穴が開いてしまうが、額縁も持っていないし仕方がない。

 椅子に座り、デスクに頬杖をついてそれを眺める。シャッターの閉まった時計屋。きんつばと書かれた和菓子屋。ワゴンセールをやっている古本屋。婦人服店。

 精肉店のサンシェードを眺める、たった一匹の白い猫。


「――もう一匹、描いてもらうべきだったか」


 誰もいない部屋で、俺はひとりごちた。


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