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 うっすらと湯気の立つ黒い液体を、俺は凝視していた。


「……ごめんね。いつもはカウンセリング室では『においのしない物』を飲むって決めているんだけど。今日はどうしてもコーヒーが飲みたくなって。ほら、外も寒いし。あと、山田君がこんな時間に来るとは思ってなかったから」

「すみません、夜遅くに」

「いいよ。こんな時間って言っても夜の八時だし。そりゃ、夜中の二時だったら何事かと思うけれど」


 赤井みどりはそう言って、コーヒーがなみなみと入ったマグを両手で包み込んだ。かぐわしいコーヒーのにおいが部屋に充満している。ミルで挽いた物なのか、それともインスタントなのかは分からない。俺は白いマグに目をやったまま、赤井に訊ねた。


「それはブラックですか?」

「ん? そうだけど」

「ブラックコーヒーという飲み物は、味蕾は苦いと感知するんですよね」

「……まあ、甘くはないよね」

「苦い物は一般的に、美味くない物と認識されているはずです。というよりも、脳がそう感じるようになっているはずです。なのに人間はなぜ、ブラックコーヒーを飲むんですか? 焦げた魚は食べられないのに、ブラックコーヒーは好んで飲む。何故ですか」


 俺の問いに、赤井は声を出して唸った。コーヒーを一口すすり、「あつっ」と声を出してから、


「苦いだけじゃないから、かな。香ばしいとか、そういうのもあるというか……」

「焦げた魚は香ばしくないのですか」

「んー。あれは単に苦くなってるだけというか……」

「ならば、ビターチョコレートと呼ばれているあれはなんなのですか。甘いのですか、苦いのですか」

「ええ? あれはこう、ほろ苦い感じで……」

「ほろ苦い? 多少苦みがある、という意味ですよね。では、チョコレートそのものは甘いだけなのですか。それにわざわざ、本来ならば不味いと認識される苦みを足していると? それでは例えば子供も、苦い物が好きなのですか」

「いや、ビターチョコはどちらかといえば大人向けで」

「苦い物は大人向けという事ですか? では、大人になると、人間は苦みが好きになるのですか」

「ええ? うーん……」

「ビターチョコレートの逆を考えるのであれば、焦げた魚に砂糖を振れば、食べられますか。美味しいと認識できますか」

「いや無理でしょう」

「何故」

「何故って……」


 赤井は眉間にしわを寄せ、唸り続けている。彼女は真摯なので、こういった質問にも真面目に答えてくれる。しかしやがて、マグを机に置いた。


「どうしてそういう質問ばかりするのかな? 山田君は」


 そうしていつものように大学ノートを開き、ボールペンを取り出した。俺は答える。


「俺に味覚がないからです。味という物が分からない。概念が分かっても認識はできません。故に、苦みや酸味と言った、本来ならば不快な味であるはずの物が好まれている理由が分からない」

「うん、そうだね。変だよね。でも山田君は今まで一度も、そういう質問はしてこなかったよ? コーヒーは苦いですかと聞かれた事はあっても、何故それが好きなのかと聞かれた事はない。どうしてそんな事を思ったのかな」

「同級生に、ブラックコーヒーが好きだと嘘をつきました」


 俺の言葉に、赤井の手が止まった。


「――……なんでそういう流れになったの?」

「スターバックスで好きな飲み物は何かと訊かれたんです。それで俺は、ブラックコーヒーだと答えた。カフェオレやカフェラテといった飲み物がどの程度の甘さなのか理解しかねるからです。クリーミーなどというのも分からない。その点、ブラックコーヒーならばそういった質問はされません。そこで質問が終わると思ったからです」

「うん、そうだね。成程。でもその同級生は、もっと突っ込んだ質問をしてきたの?」

「いいえ、それ以上は特に。ただ、甘い物は苦手かと訊かれたので、好き嫌いがあまりないとは言いました。甘い物でも食べると」

「うん。それなら問題ないんじゃないかな?」

「それが、今週の月曜日に」

「何かあった?」

「その同級生に、ブラックコーヒーを貰いました」


 赤井は再び右手を動かしながら、俺の顔を見る。彼女は無念そうな、同情を含んだような顔をしているが、そもそも彼女の表情自体がカウンセリングの傾聴技法に含まれているので、それが彼女の『真の顔』ではないだろう。


「食堂横の喫茶なんですが、先生はそこのコーヒーを飲んだ事がありますか」

「ごめん、ないなあ」

「そうですか。ならば、スターバックスのコーヒーは?」

「それならあるけど」

「食堂の喫茶は一杯百円です。スターバックスは?」

「トールサイズで、三百円ちょっとだったかな」

「だとすると食堂喫茶のコーヒーは、スターバックスのコーヒーの三分の一程度の味という事ですか?」


 赤井は神妙な面持ちをした。確かに赤井本人が食堂喫茶のコーヒーを飲んだ事がないのであれば、まず判定が難しいだろう。


「……そういう訳じゃないと思うよ。そうだね、たしかにスターバックスのコーヒーは美味しい。でも、百三十円の缶コーヒーの方が好きって人もいる。その人の好み次第だよ」

「好み、ですか」

「あとは、どういう状況でそれを飲んだのかにもよるし。食べ物の話になっちゃうけど、例えば高級料理店の料理よりも、お母さんが作ってくれた料理の方が美味しいっていう人もいる」

「それは、子供の頃から食べていて、慣れた味だからではないのですか?」

「それもあるだろうね。でもそうだな……。人の気持ちがこもってると、人間はそれをよりおいしく感じる。だから、お母さんの手作り料理は美味しいって感じるの」

「つまり」


 俺は情報を纏めて、発言した。


「気持ちがこもっていれば、百円のコーヒーでも三百円のコーヒーに勝ると?」

「――人間らしく考えるなら、そうだろうね」


 これは、今までにない難問かもしれなかった。なにせ、その理屈の訳が分からない。人間の気持ちが具現化してスパイスになる訳じゃあるまいし。なのに何故それが、美味しさにつながるのか。『人間の気持ち』という物は、味蕾に何らかの変化をもたらすのか? 訳が分からない。

 ならば例えばそう、一生懸命作ってくれたけれども焦げてしまった魚は、それでも気持ちがこもってるから美味しいと?


「……質問してもいい? なにか考え中?」


 赤井が遠慮がちにそう言ってきて、俺は顔をあげた。気づけば、腕を組んだまま下を向いていた。


「ああ、いえ。どうぞ」

「山田君は、同級生がくれたコーヒーをどうしたの?」

「飲みました」

「なんて感想を言ったのかな?」

「美味しい、と。自分で買った物ではなく、人に貰った物です。故にあの場面では、それが妥当なのだろうと判断しました。ただ、分からない。もしかすれば本当は、あの喫茶のコーヒーは不味だったかもしれない」

「ううん」


 赤井はノートの上にペンを転がし、再びマグを持ち上げ、微笑んだ。


「いいんだよ、それで」


 赤井はそれだけ言うと、マグの中身をゆっくりと飲んだ。話している間に大分と冷めたらしい。先ほどよりかは飲みやすそうにしている。それについて質問しようかと思ったら、赤井の方が先に声を出した。


「もう一つ、いいかな」

「なんでしょうか」

「その同級生って言うのは、男の子? 女の子?」

「女子です」

「……どういう関係なのかな」


 斎藤の小説の事を言おうかどうか考え、けれどもやめておくことにする。いくらこの場に守秘義務があるとはいえ、本人があまり公言していない事を、俺の口から言うのも妙だろう。


「勉強を教えています」

「どうして?」

「彼女が、――言い方は悪いですが劣等生なんです。それで」

「勉強を教えて欲しいって頼まれた?」

「ええ、まあ」


 赤井はふうんと言って、しばらく考えているようだった。それから、


「……どうしてその子が、山田君にコーヒーを買ってくれたのだと思う?」


 そんな事を言ってきた。


「話せば長くなります。かいつまむのであれば、俺は不用意な発言で彼女を傷つけました。それの詫びにと、パフェを奢ったんです。そうしたら、俺に気を使わせたお詫びにと、彼女がコーヒーを買ってくれました」

「パフェを奢ったから、かわりにコーヒーを買ってくれたのだと思う?」

「ええ、そうでしょう」

「じゃあ、どうして彼女はコーヒーを買ったのかな? パフェじゃなくて」

「え?」


 俺が首を傾げる動作をすると、赤井は微笑んだ。


「――例えば山田君がパフェを奢ってもらったとして、その相手にも何か買うとしたら何を選ぶ?」

「パフェです」

「どうして?」

「その方が、対等だからです」

「うん、そうだね。でも彼女はパフェじゃなくてコーヒーを買ったんだよね? なんでかな? 一杯百円で、安く済むから?」


 俺はデータを総動員させて、何故斎藤がコーヒーを買ったのかを考えた。

 あの時はそこまで深く考えなかったが、俺が斎藤の立場なら、斎藤と同じチョコレートパフェを奢っていただろう。俺は、好き嫌いはないと斎藤に教えたはずだ。


「……好き嫌いはないってその子に教えたんだよね?」


 俺が考えていることを見透かしたかのようなタイミングで、赤井が言った。俺は肯定する。


「でも、ブラックコーヒーは『好き』って言ったんだよね」


 赤井はどこか寂しそうに微笑んだ。


「――その女の子は、山田君がより好きな物を選んだんだよ。私はそう思うなあ」


 これには驚いた。斎藤はそこまで計算していたのか? それとも人間という生き物は、勝手にそこまで考えてしまうのだろうか。

 赤井は少しだけ首を傾げるようにして、俺の顔を見た。


「その結果が百円のコーヒーであったとしても、その気持ちは嬉しいと思わない?」

「嬉しい、ですか。そうですね。意外性はあった」

「うん……。そうだね、そっか」


 赤井は空になったマグを机に置き、ボールペンを走らせた。何を書いているのかまでは見えない。


「……もしかして、放課後に二人で勉強してるのかな?」

「はい」

「だから今日は、この時間に来てくれたんだ」

「夜の九時までならいつ来てもいいと言われていたので」

「うん、いいよ。……最後に一ついいかな?」

「なんでしょうか」

「山田君は、その女の子の事を、どう思ってる?」


 ――斎藤の事? 


「一般的な知能指数の女子で、しかし秀でている分野も確かにあります。ただ、そうですね。他の生徒とは少し違うような印象は受けます」

「それはどういう?」

「感性が豊かなんです。その反面、無知な部分が多い。それは決して、勉学の意味ではなく。表現するのが難しいのですが」


 そこで言葉を切ると、赤井は何か考え込んでいるようだった。



 赤井と共に地下研究所に行き、太田と対面する。いつも通り親指の断面にUSBケーブルを繋いで、俺のデータをパソコンにアップさせた。かと思えば太田が、「ううん?」と間の抜けたような声を出す。赤井もパソコンの画面を覗き込んだ。


「今回のデータは偏ってるなあ。いつもとは少し違うみたいだ」

「そうですか。どの点が?」

「一人の生徒に関してだけ、データがやたら増えてる。仲良くなったって事かな?」


 太田が画面を覗き込みながら、俺のデータファイルを次々とクリックする。中身を閲覧しているらしい。それを横で見ていた赤井が、俺に目をやった。パソコンのライトで、顔が青白く浮かび上がっている。


「この、データが増えてる子」


 その声はなぜが、少し震えている様に聞こえた。


「斎藤卯月さんっていう子が、山田君がさっき言ってた子?」

「そうですが、何か」

「ううん。……卯月ちゃんか。可愛い名前だね」


 そうなのだろうか。人間の感性か?

 太田は俺達の会話を聞いているのかいないのか、そうだなあどうしようかなあと一人で呟き続けている。右手でマウスを四方八方に動かしながら、左手のみで器用にキーボードを叩く。


「うん、そうだね。とりあえず今回も、食べた物に関しては全部消去するよ」

「はい、お願いします」

「あ、待って!」


 珍しくここで、赤井が口を挟んだ。パソコンの画面を指さす。


「ここ。この日の、――喫茶で飲んだコーヒーのデータに関しては残してください」


 それを聞いて、俺も太田も解せないといった顔をした。太田がそれをそのまま言葉にする。


「なんでまた。なにか重要なんですか? これ」

「ええ。お願いします」

「赤井先生がそう言うなら。山田君もそれでいいね?」

「はい」


 そうして、コーヒー以外の食べ物に関するデータが俺の中から消えた。

 次に、これまたいつも通り、最近読んだ本のデータについての話になった。


「何か残しておきたいデータはあるかな? ないなら全て消すけれど」

「そうですね。『さむがり猫と雪だるま』というタイトルのデータはありますか」

「んーっと……。ああ、あるね」

「それは残しておいてもらえますか」

「どうして?」


 訊いてきたのは、赤井だった。


「気になる点があるので。解明するまで保持しておきたい」

「そっか……。あっ」

「なんですか?」

「斎藤の小説っていうタイトルのデータがあるんだけど。これは、彼女に関するデータかな?」

「そうですが」


 ――俺がカウンセリング中、黙秘した意味が全くない。記憶は全て閲覧されてしまうのだ。この点では、自分の身体は不便だとも思う。

 しかし、赤井が言ってくれたおかげで助かった。このままだと俺は、彼女の文章すら忘れるところだったのかもしれない。「そのデータも残しておいてください」と俺が言う前に、赤井が太田の肩を叩いた。


「太田先生。このデータ、斎藤卯月のファイルに移動させてください。あと、彼女に関するデータは今回、なるべくいじらないようにしてもらえますか。保持する形で」

「そりゃあ構いませんが……。この生徒が何か?」


 太田が顔を上げると、赤井は首を縦に振った。


「少し、気になる事があるので」



 データを整理し、地下研究室からカウンセリング室へと戻ると、赤井が身体を震わせた。


「本当に寒くなってきたなあ。もう冬かあ」


 手をこすり合わせて暖を取ろうとしている赤井を見て、俺は思い出す。赤井先生と呼ぶと、彼女はいかにも寒そうな体勢をしたまま「なに?」と振り返った。


「痛いというのは、つらい事なんですよね?」


 赤井は不思議そうな顔をした。


「普通に考えるならそうだね。不快な感覚だと思う」

「寒いという感覚も、不快な物なんですよね?」

「まあ、どちらかといえば。好きな人もいるだろうけど、極端に寒いのは苦手な人が多いと思うなあ」

「そうですか。――それでその、寒いという感覚は」


 俺は『さむがり猫と雪だるま』を想起しながら言った。


「寒いという感覚は、一人きりだと感じる物なのですか? 二人だと、寒いという感覚はなくなるのですか? 寒さというのは、疎外感などから感じる物なのでしょうか」


 矢継ぎ早に質問を重ねたせいか、赤井は黙り込んでしまった。しかし俺は、それを知らなければならなかった。でなければ、あの物語を読み解く事は出来ないと思ったからだ。

 口を半開きにしたまま動かない赤井に、俺は本日最後の質問をする。


「先生。人間にとって一人という事は、よほどつらい感覚なのですか?」


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