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「斎藤は風邪でも引いているのか?」
背後から声をかけられて、私はぎょっとした。振り仰ぐと、そこには澄ました顔の山田君がいた。
「山田君こそ……なんで体育の授業に出てないの?」
体操着ではなく制服姿の彼に、私は言った。グラウンドでは現在、マラソンをしている。大半の生徒は力を抜き、だらだらと走っていた。
この前保健室で会った時といい、今回といい、彼はどうも体育をサボる常習犯らしい。
山田君は私の質問に一言、「体育は好きじゃない」とだけ答えた。ちなみに彼は、運動音痴ではない。以前、サッカーをしている彼を見たことがあるけれど、プロ顔負けのプレイを披露し、バスケの試合かと思わせるくらいに次々とゴールを決めていた。相手チームが不憫に思えるくらいに。
「俺の質問の答えになっていない」と山田君は言った。私はそうだね、と答える。
「木曜日の体育も、斎藤は欠席していた。今日は見学。何か理由があるのか?」
「別に。……運動音痴だから、できるだけ授業に出たくないの。それだけ」
「そうか」
山田君はそれだけ言うと、私の隣にすとんと腰掛けた。――距離が近い。嫌でも気になってしまう。
昨日、澪と「気になる人」とか「好きな人」について話したのがいけなかったのだと思う。私は妙に、山田君を意識するようになってしまっていた。なんとなく話しにくい。ちなみに今朝、澪は上機嫌で司君にDVDを返していた。DVDは、怖かったけれど内容自体は悪くなかった。
私と澪はキャラクターの性格とか相関図とか、そういうものに興味があったのだけれど、司君は殺人鬼の残虐性について熱弁していた。ラストではピュアなカップルだけが生き残るという、少しラブロマンス要素もある物語だったのだけど、そこら辺は司君にとってはどうでもよかったらしい。そっちよりも拷問シーンだろうと、ベーコンエッグを食べながら容赦ない話を熱く語っていた。男子という生き物がそういうものなのか、司君がちょっと変わっているのかは私には分かりかねる。
司君と澪が『同じ話題』で盛り上がっていく。そんな様子を見ても、山田君は特に何も思わなかったらしい。いつもと同じようにもくもくと、コッペパンを食べていた。
「……ちょうどいいから、今、返してもいいか?」
山田君は、手に持っていたおとぎ話大全集の十巻を私に差し出してきた。私は無言でそれを受け取る。それからしばらく悩んで、けれど彼が何も言ってこないから、意を決して訊ねた。
「さむがり猫と雪だるまは読んだ?」
「ああ」
「どうだった?」
山田君は、何かを考えているようだった。いつも、機械のように即答する彼が珍しくその動きを止める。そうして何秒か経ってから、
「よかった」
それだけしか、言わなかった。私は何故か、内心で肩を落とした。私にとっては特別な話でも、彼にとってはなんでもないことなのだ。
「……他には?」
「他と言うと?」
「あの話を読んで、他に思ったことはないの?」
思わず問い詰めてしまった。けれど山田君は特別顔色を変えず、これまた数秒考えてから、
「あの物語は、ハッピーエンドだと思うか?」
今度は私に質問をしてきた。
「……ハッピーエンドだったでしょ?」
「そうだろうか。俺にはどうも、そうは思えなかった。バッドではないが、ハッピーでもない。かといって、トゥルーエンドとも言い難いだろう」
私はおとぎ話の本を見た。これを最初に読んだとき、とても感動したことを覚えている。けれど、山田君はそうではなかったらしい。
「どうしてハッピーエンドじゃないと思うの?」
「まず、その物語では雪だるまがどうして喋れたのかという記述が一切ない。大きな雪だるまの周りには小さな雪だるまがあって、けれどもそれらは話さなかったという場面から、大きな雪だるまだけが特別な存在で、他の雪だるまは話せないという仮説が成り立つ。これを前提にして、物語を解釈する」
「……続けて」
「ストーリーでは猫と雪だるまが仲良くなり、けれども最終的には春がやってきて、雪だるまが溶けてしまう。花や蝶が生まれたら、猫はひとりじゃないと雪だるまは言う。ここまではいい。問題はラストだ。猫が言う。来年の冬もまた会えるか、と。それに対する雪だるまの返答は、もちろん、だ。この時点でこの物語はハッピーではない」
「どうして? また会えるのだから、ハッピーじゃない」
「また会えるという保証がどこにあるんだ?」
山田君が私をまっすぐに見た。私は思わず、童話集に目を落とす。
「いいか。あの雪だるまは『特別』なんだ。他の雪だるまは喋れないということは、あの雪だるまが生まれたのは本当に奇跡のような確率だろう。それがまた、来年も同じ猫のもとに現れるという確率は?」
「……ふたりは友達なんだから、きっと会いに来てくれると思う」
「そうだろうか。しかしそのためには、誰かが雪だるまを作らなければならない。同じ家の人間が来年も雪だるまを作るとは限らないし、猫自身が作れるわけではない。他力本願だ」
「雪だるまくらい、どこかの家の人が作るよ」
「あの物語に、『この地域は毎年雪が降ります』という記述はあったか? もしくは毎年積もるという記述は? ――なかった。雪が積もるのが珍しい地域である可能性もある。つまりは来年も雪が降る、誰かが雪だるまが作る、そこに感情が備わる、そして話せるようになる確率はかなり低いと言えるだろう」
私は押し黙ってしまった。あの物語のラストについて、ここまで悲観的に考えたことはない。というよりも、そこまで論理的に考えて読むようなものでもない気がする。
山田君の感想は、とても冷酷だ。それでも、山田君がそれだけ熱心にこの物語を読んでくれたのだなあとは思った。
私の方を見ていた山田君はすいっとグラウンドに目をやると、「そもそも」と話始めた。
「そもそも俺は、おとぎ話というものには、ハッピーエンドは存在しないと思っている。まあ、俺の知っている物語なんて数少ないが」
私は山田君の方を向いた。顔を歪めて走っている同級生を、凛と澄ました表情で見ている。
「……おとぎ話ほど、ハッピーエンドが多いものはないと思うんだけど」
「では、いくつか例をあげよう。例えばヘンゼルとグレーテルだ。彼らは親に捨てられ、お菓子の家にいる魔女に捕らえられる。最終的には魔女をかまどにいれて焼き殺し、大量の財宝を持って親もとへ帰るというのが大体のストーリーだ。おかしいと思わないか?」
「なにが?」
「彼らは、魔女を殺している」
山田君は再度、こちらに目をやった。動物実験室にいる猫のような、綺麗で透き通った目をしている。
「魔女を殺しているのに、その点は無罪放免だ。正当防衛とも言えるが、彼らが魔女を殺したという事実は一生付きまとうし、それを背負って生きていかねばならない。しかし物語では、そこまで触れていない。――人間は、人間を殺すことを禁忌としているな。聖書にすら書いてある。それでも、誰かを殺した物語が、ハッピーエンドだと思うか?」
「それは……」
「赤ずきんについても、オオカミの腹を裂いて殺している。かぐや姫については、月に帰った後、かぐや姫や老夫婦が幸せだったかどうかの記述が一切ない。別れて、終わりだ。桃太郎や一寸法師はすべて暴力で解決させているだけ。マッチ売りの少女と人魚姫にいたっては、一瞬の幸せと引き換えに自らの命を失っている。とてもじゃないがハッピーとは思えない」
私はそれこそ人魚姫のように一瞬言葉を失い、けれどもハッと思いついた。
「――それじゃあシンデレラは? 王子様と結ばれて、幸せになって終わってる」
「斎藤は、あの話の真実を知っているのか?」
シンデレラの真実? 私は首を振った。
「あの物語では、シンデレラが家に閉じ込められ、継母たちにこき使われているところから始まる。そのシンデレラが閉じ込められていた理由は、邪眼だったと言われている」
「邪眼?」
「見たものに災いをもたらす目だ。シンデレラはそれを持っていた。だから閉じ込められていたんだ」
「……でも最後は」
「そう。王子と結ばれ、シンデレラは外に出される。つまり、『災いをもたらす人間』が野放しにされて終わるということだ。これを聞いてもなお、シンデレラはハッピーエンドだと思うか」
私は絶句した。シンデレラはきっと、お城に行くことをずっと夢見ていたはずだ。それが、外に出ることで誰かを不幸にする人間だったなんて。
再び人魚姫になってしまった私に、山田君は言った。
「だから俺は、おとぎ話にはハッピーエンドがないと思っている。おとぎ話には、未来がない」
グラウンドからホイッスルの音が聞こえ、頭上からチャイムの音が降ってきた。山田君は立ち上がる。
「夢の無い話ばかりで悪かったな。まあ、そういう解釈もあるということだ」
「……山田君はさ」
私は座り込んだまま、空を見るようにして山田君を見上げた。
「シンデレラは、一生閉じ込められたままの方がよかったと思う?」
私の質問を聞いて、彼は息を吐いた。
「長くなる話だ」
「じゃあ、なるべく簡単に言って」
「周囲の人間のことを考慮したうえで答えを出すのならば、閉じ込めておくべきだ」
「シンデレラが、どれだけ外に出たがっていたとしても?」
「ああ」
私は目を伏せた。そう、それが普通なのだ。
「……じゃあ、山田君がシンデレラのことを好きになっちゃったら? それでも、閉じ込めておくべきだと思うの?」
――期待していた答えがあった。待っていた答えがあった。欲しい答えがあった。
「分からないな、その時になってみないと。ただ、やはり閉じ込めておくのが最善だろう」
けれど山田君は、私の欲しいものをくれなかった。
それからしばらく、山田君とは何も喋らなかった。休憩時間も、昼食の時も。
そうしてその日の授業もすべて終わり、私はようやく自室に戻ってゆっくりとする――のが、いつもの習慣だった。
「斎藤」
寮に戻るため、教科書類を鞄に詰めている私に話しかけてきたのは、山田君だった。その手にあるのは、大量の問題集だ。表紙にバーコードがついている。図書室から借りてきたものらしい。私はなんとなく気まずさを感じながら、けれども訊かないわけにもいかなかった。
「えーっと……勉強ですよね?」
「ああ、決めた。月曜から金曜日の夕方四時から六時まで、それから土曜日の午前九時から夕方四時にしよう。日曜日は休みだ。休暇も必要だろう」
「うん。あの、ありがと……」
正直に言ってしまうと、白目をむきそうだった。私は勉強が不得意であり、好きなわけでもない。それが、ここまでみっちりと予定を組まれてしまうとは。
こんなことなら勿体ぶらずに、彼に小説を読ませてあげればよかったとも思う。しかし、これほどやる気になっている彼に、今更「やっぱり勉強はもういいよ」とも言い難い。私は渋々、椅子から立ち上がった。
「それで、どこに行くの? 図書室?」
「いや。寮の食堂に行こう」
「食堂?」
寮の食堂は、食事の時間こそ決められているけれど、食堂自体は朝の七時から夜の八時まであいている。テーブルもたくさんあるから、座る場所も困らないだろう。けれど、
「この前、食堂はうるさいって言ってなかった?」
「いいから移動しよう。時間を有意義に使いたい」
彼はそんなことを言って、私の前をさっさと歩いて行った。山田君は私よりも歩幅が広く、歩くスピードが速い。私はたまに小走りしながら、山田君の後ろを歩いた。
訝しがりつつもついていくと、彼は何と、食堂ではなく食堂の隣にあるセルフ式の喫茶に入った。そしてまっすぐにカウンターへと向かうと、後ろで呆然としている私の方を振り返り、どれがいい? と言う。彼が見ているのはパフェのメニュー表だ。
「どれって……」
「先日話した時、斎藤は甘党なんじゃないかと思ったのだが。違うか?」
「いや、そうだけど」
「ならば、早く選んでくれ」
言われて、私はチョコパフェを選んだ。私が財布を出そうとすると、山田君は首を振った。
「いい。俺が払う」
「え、なんで?」
「謝罪だ」
謝罪ってなんの、と言おうとしたらチョコパフェがカウンターに置かれた。山田君はそれの載ったプレートを持って、窓際の席まで移動する。私は「どういうことなの」とか「なんなの」と言いながら、彼の後ろを歩いた。
山田君は四人掛けの席に着くと、私にパフェをくれた。彼自身は何も頼んでいない。
「ねえ、謝罪ってなんの?」
「いいから早く食べろ。ソフトクリームが溶けている」
言われて、私は訳も分からずにソフトクリームを一口食べた。
ここのパフェはチョコシロップとコーンフレーク、ソフトクリーム、ホイップ、それから缶詰のみかんが二粒とポッキーが二本盛り付けられている。私としてはゴージャスだと思ったけれど、澪はしょぼいしょぼいと言っていた。
「体育の時間に、おとぎ話の話をしただろう」
私がパフェを食べる様子を見ながら、山田君は頬杖を突いた。
「どうもその時、斎藤に不快な思いをさせたようだった。それの詫びだ」
私は、口元に持ってきていたみかんを思わず落としそうになった。みかんを食べようと開いていた口で、そのまま言葉を発する。
「それだけ? それで、パフェ?」
「チョコレートパフェだけでは不満か」
「いやいや、おかしいよ。山田君は自分の意見を言っただけでしょ。私に謝る必要なんてないのに」
「しかし斎藤は寂しげな顔をした。雪だるまの話と、シンデレラの時だ」
私は今度こそ、光沢のあるみかんをテーブルの上に落とした。思わず指でつまんで口に放り込む。床だったら諦めたけど、テーブルならセーフだ。山田君には汚いと思われたかもしれないけれど、気にしない。
それよりも、山田君は観察眼がすごいのだろうか。自分は無表情なのに、他人の顔はよく見ている。
「傷つけてしまったのではないかと思った。それで謝罪もかねて、一緒にパフェでもどうかと。頭を使う前に糖分を摂るのもいい事だ。できればブドウ糖そのものを摂取するのが良いのだが」
「一緒にって……。山田君は何も飲んでないし、食べてないじゃない」
「俺はいい。斎藤に謝れたら。――あの時は不快な思いをさせたようで、悪かったな」
窓の外に目をやって、山田君はぽつりと言った。日が沈み始めている。私は赤く染まった彼の横顔を見ながら、少しだけ心拍数が上昇するのを感じた。
――彼はきっと不器用で、表情筋がないんじゃないかと思うくらいにポーカーフェイスで、けれどとても、素直だ。
いつか見せてくれた、あの笑顔が見たい。そう思った。
私は食べかけのパフェにスプーンを落として、鞄から財布を取り出した。
「……ね。山田君もコーヒー飲もうよ」
「ん? いや、いい」
「いいから。気を使わせちゃったお詫びに奢らせて。ブラックだよね?」
彼の答えも聞かずに、私は走り出した。ホットコーヒーは一杯百円だ。
スターバックスのコーヒーがどれほど高級で、どれほどおいしいのか、私は知らない。
けれど、彼に渡すこのコーヒーが、他のどのコーヒーよりもおいしければいいのになと思った。