第10話 冬市の無料診療所
北辺では、年に一度の冬市に合わせて無料診療所を開く慣習がある。
私はその場を利用し、実在患者の再登録を進めることにした。村ごとに欠番になった患者を呼び、本人確認と症状確認を取り直す。地味だが、虚偽患者を消す最短の方法だ。
「名前をどうぞ」
「アンナ・ベルク、三十二歳です」
咳き込む女性へ問診をしながら、私は横の帳票へ新しい番号を書き込む。隣ではマルタが服薬歴を整理し、ジークハルトが混雑の列を整えていた。
領主が診療所の受付整理をしている光景に、市の人々は最初こそ驚いたが、次第に落ち着いた。
「辺境伯様がいるなら、今日はちゃんと書いてもらえそうだ」
そんな声が聞こえてくる。
昼過ぎ、一人の老人が古い診療札を差し出した。番号は二年前で止まり、その後の治療記録だけが王都慈善枠へ転記されている。
「わしは王都なんて行っとらん」
当然だ。歩くのも辛いこの人が、誰にも気づかれず王都特別病室へ通えるはずがない。
私は診療札の裏に残る古い押印を見て、ゆっくり息を吸った。これで実在患者の証言が揃う。
夕刻、クラリッサの侍女だったという女が人混みの中から現れた。二十九歳、名をエルゼという。
「私、もう黙っていられません」
震える手で彼女が差し出したのは、王都での食事記録だった。クラリッサは病人食ではなく、肉料理と菓子を毎日のように注文している。
「奥様……いえ、レティシア様が追い出された日から、あの部屋はもっと酷くなりました」
「なぜ今になって」
「本当に苦しい患者さんが薬をもらえないと知ったからです」
私はその紙を受け取り、深く頭を下げた。
「話してくれてありがとう」
無料診療所が終わる頃には、空だった再登録台帳が実在の名前で埋まり始めていた。
嘘のために消された人たちを、紙の上へ戻していく。その作業は静かだが、確実な反撃だった。




