第1話 薬棚から消えた月白根
王立施療院の薬庫で、私は空になった引き出しを見つめていた。
高熱と肺病の重症者にしか出さない月白根が、今月だけで八本も消えている。だが診療台帳に残る処方件数は三件。数が合わない。
「また数字をにらんでいるのか、レティシア」
背後から声をかけてきたのは、婚約者のエドガー・ロスナーだった。三十四歳。施療院の副院長であり、私と同じく帳票より人脈を信じる男だ。
「にらんでいるのではなく、確認しているのです。月白根の使用量が台帳と一致しません」
「些細な記載漏れだろう。今はクラリッサの容体が不安定なんだ」
彼がそう言った瞬間、私は台帳を閉じた。
クラリッサ・ヴェルナー。二十七歳。エドガーの幼馴染で、ここ半年、施療院の特別病室に長く滞在している女だ。青白い顔と細い手首、ふらつく声。誰もが彼女を可哀想だと言い、私だけが診療記録の薄さに首をかしげていた。
「彼女の処方履歴を見せてください」
「患者の心を疑うのか」
「薬歴官の仕事は、気持ちではなく記録を見ることです」
私は台帳の一頁を指で叩いた。クラリッサに対する月白根の処方欄は空欄だ。代わりに、鎮静茶と滋養粥しか記録されていない。
エドガーの目が一瞬だけ険しくなった。
「君は最近、融通が利かなすぎる」
「融通で薬は増えません」
私がそう返すと、彼はため息をつき、いつもの穏やかな顔を作り直した。
「今夜、病室へ来い。クラリッサ本人を見れば、君も考えを改める」
その言い方に、私は小さな違和感を覚えた。記録を見せるのではなく、感情で納得させようとしている。
薬棚の奥には、誰かが急いで箱を抜いた時にしかできない粉の筋が残っていた。私は布でそっと拭い取り、小瓶に移す。
数字と痕跡は嘘をつかない。そう信じて十二年働いてきた。たとえ相手が婚約者でも、その原則は変えない。
その夜の私は、まだ知らなかった。
月白根の消失が、薬庫だけではなく、私自身の居場所まで奪う入口になることを。




