花芽ぐむキルシュヴァッサー30
キルシュヴァッサーとフロリアンさんが一緒に空を飛ぶ光景を、何度思い描いただろう。
実際にその光景を目にした私は、感激の涙よりも衝撃のあまり叫んでしまった。
「と、飛んでる!?」
「そうなんです!」
フロリアンさんは嬉しそうに、力強くうなずいた。
「フィルナ様がエアルに乗って去ったあと、突然起き上がって軽々と飛んだんです! 本当に驚きましたよ」
「それは驚きますよね。まだ飛べるほど回復していなかったはずなのに」
「ええ。シャーロット先生も同じことを言っていました。メルキオールの鱗が効いているんでしょうか?」
私は、エアルの隣に並んで飛ぶキルシュヴァッサーを、頭から尻尾までざっと確認した。
外見に変化は見受けられない。
「ハイブリッド種か。あなたの竜か?」
後ろにいるヘリアス様が、物珍しそうに訊ねた。
ヘリアス様の存在に今気づいたのか、フロリアンさんが「ヘリアス様!?」と声をわずかに裏返らせる。
「は、はい! 私の大切な家族である、キルシュヴァッサーです」
「そうか。それにしても、アルトリーゼ家を目の敵にしていたあの調査団員が、フィルナとずいぶん親しげに話すじゃないか」
少々棘のある口調のヘリアス様に、フロリアンさんは慌てた様子で答えた。
「そ、それは、フィルナ様が親身になって、植物状態のキルシュを助けてくださって……!」
「ほう……そういうことか」
「あと少し遅ければ安楽死になっていたところを、フィルナ様のおかげで回避できました。最後まで決して諦めない、素晴らしい竜医師です」
「知っている」
ヘリアス様は即答した。
表情は見えないのに、後ろで得意げに微笑んでいるような気配がして、とても照れくさい気持ちになった。
「あ、あの、フロリアンさん。私たちの頭上にあるこの膜のことについて、何か知っていますか?」
「ああ、これは――」
フロリアンさんが説明しようとした瞬間、キルシュヴァッサーが大きく口を開いて、上を向いた。
何をしているのかと観察していると、キルシュヴァッサーの口から白い霧状のものが噴き出しているのが見えた。
その霧は空高く舞い上がり、やがて新たな桃色の膜が形成された。
「この膜、キルシュヴァッサーが作っていたんですか!?」
「はい。私もキルシュにこんな力があるなんて知りませんでした。パンドラが爆発する直前、急にこの膜を作り始めたんです」
そう言って、フロリアンさんは優しく目を細め、キルシュヴァッサーの首をなでた。
たしかに、最初からこの力を使えたなら、フロリアンさんを膜で守っていたはずだ。
「ハイブリッド種の膜……そうか、これが鱗膜!」
「知っているのか?」
「はい! まだほとんど解明されていませんが、ハイブリッド種特有の能力です」
鱗膜とは「透明の盾」とも呼ばれていて、口から霧のようなものを吐き出し、それが空気に反応して膜を形成する。
ハイブリッド種の中には、親から受け継ぐ属性の他に、この鱗膜を形成する能力を持つ竜が稀に現れると言われていた。
本物を見たのは私も初めてで、好奇心から、舞い落ちる桃色の欠片に手を伸ばした。
淡い花弁のようなそれは、私の手の平の温度で溶けるように消えてしまった。
(この短時間で、キルシュヴァッサーは飛べるようになっただけじゃなく、鱗膜という能力まで使えるようになった)
私はそっと自分の喉に触れた。
先ほどよりましになったけれど、話すたびにズキズキと痛む。
(まさか、ウタヒメの声の力で能力が覚醒した……?)
ウタヒメの歌は、竜の潜在能力を解放する。
だけどその条件は、ウタヒメと最も相性の良い竜であること。
その竜が他の竜と共鳴反応を起こすことで、複数の竜の能力も高められるけれど、私のそばにドゥルキスはいなかった。
(もし、その前提が……イーリス教の言っていることが間違っているのだとしたら……)
自分の発想が恐ろしくなって、私は首を横に振った。
ウタヒメの能力には謎が多い。声の力に関して、今すぐ答えを出すのは難しいし、イーリス教が伝えてきたウタヒメ伝説を覆すようなことを不用意に発言するのは危険だ。
「キルシュ!」
フロリアンさんの声に、意識が現実へと引き戻された。
先ほどまで並んで飛んでいたキルシュヴァッサーが急激に高度を落とし、平原に降り立った。
久しぶりに空を飛んで、疲れてしまったらしい。
キルシュヴァッサーは翼を広げたまま、草の上にうつ伏せになった。
フロリアンさんが無事を知らせるように、こちらに向かって両手を振っている。
「ああ、よかった……!」
「運んでやるか」
「はい!」
エアルをキルシュヴァッサーの近くに降ろそうとすると、エアルは「嫌!」と頭を振った。
アジ・ダハーカに追いつかれたことが悔しかったのか、少し興奮気味だ。
「すみません、ヘリアス様。旋回させて落ち着かせてから降ろそうと思います」
「構わない。ドゥルキスも飛びたいらしいからな」
エアルと違って、ドゥルキスは楽しそうに空を飛んでいた。
今までずっとヘリアス様が眠ったままだったので、一緒に空を飛べて嬉しいのかもしれない。
私はエアルの首に触れながら、「エアルはすごかったよ」と声をかけた。不満そうな鼻息が聞こえて、苦笑する。
「そういえば、ヘリアス様はどうしてあの塔に?」
「調査団の支部に向かっている途中で、土属性の竜に乗って避難してきた補助竜医師の女性を保護し、話を聞いた。パンドラを積んだアジ・ダハーカが出現し、フィルナが残って避難誘導をしているのだと」
「補助竜医師の女性……」
もしかして……と頭に浮かんだのは、イネスを任せたあの女性だ。
「ラインとブランにアジ・ダハーカを塔まで誘導させ、上空で爆破させるつもりだったのだが……まさか、あなたが連れてくるとは思っていなかった」
「そういう作戦だったのですね。ヘリアス様たちが来てくださって、本当に助かりました」
「間に合ってよかった。いや、あなたに怪我をさせた時点で間に合っていないな。すまない」
「ヘリアス様が謝ることではありません! あの指示笛の音が、どれほど心強かったことか」
こうやって言葉を交わせることが嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。
ちらりとヘリアス様に視線を向けると、彼と目が合った。
(今なら、いいわよね?)
私は上体を捻って、不意打ちのように、ヘリアス様の唇に自分の唇を重ねた。
ヘリアス様は驚いたように目を瞬かせた。
私は悪戯が成功した気分になって、ふふっと笑う。
「唇にするのは目覚めてからだと、約束しましたから」
「フィルナ……」
ヘリアス様は自分の唇に触れながら言った。
「嬉しいが……私はその約束を覚えていない。まさか、私の記憶はまだ――」
「ち、違います! 私の一方的な約束なのです! ヘリアス様が目覚めたらキスをしようと心に決めていて……!」
ふっと吹き出す声に、私はぽかんとしてしまった。
ヘリアス様は「すまない」と小さく笑った。
「冗談だ。少しからかっただけだ」
「ヘリアス様……!」
抗議のつもりで、ヘリアス様にもたれかかる。
びくともしなかったので、結局意味はなかったけれど。
ヘリアス様はもう一度「すまなかった」と穏やかな声で謝罪した。
「すべて覚えているよ。二度と忘れないと約束したからな」
「ヘリアス様……」
桃色の欠片が舞い散る中、私たちは互いに視線を交わして微笑み合った。
記憶があろうとなかろうと、大好きなヘリアス様であることに変わりはない。心からそう思っていた。
なのに、ずっと会いたかったと、心臓が鼓動で訴えてくる。
気づけば、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていて、慰めるようにヘリアス様の唇が目元に触れた。
◇◇◇
調査団での依頼を達成した私は、エアルとともにアウデンティア公国に戻っていた。
竜舎での作業を終えて執務室に向かい、届いたばかりの手紙や報告書を手に取る。
届いていた手紙のひとつは、氷竜アイオンとともにルクスリア帝国に戻ったオスカー様のものだ。
彼がルクスリア帝国に戻ると、すでに多くの氷竜が氷結化を発症しており、大混乱が起きていたそうだ。
オスカー様は、すぐさまアストロモロス公爵に氷結化の治療法と滋養強壮薬についての報告書を提出した。
その後、氷竜を救った功績が認められ、内乱は開戦寸前で回避されたという。
というより、氷結化によって戦える状況ではなかったのかもしれない。
クリスタロス侯爵とオスカー様のお兄様は拘束され、これから処罰が言い渡されるそうだけれど、「処刑は免れるかもしれない」と前向きな言葉が綴られていた。
手紙の最後には、私やヘリアス様への感謝と、「アストロモロス公爵がフィルナ様にお会いしたいとおっしゃっておられました」と記されていた。
「こ、これは、ヘリアス様に相談しないと……。でも、ご無事でよかった」
安堵の息をついて、次に調査団から届いた手紙を手に取った。
ウルリッヒ様やシャーロット先生、補助竜医師たちからの感謝の手紙がたくさん届いていた。
そして、フロリアンさんからも。
「これは、セイレニア教の報告書?」
フロリアンさんは手紙と一緒に、例のスパイに関する調査報告書を送ってくれていた。
ラウラさんを騙って潜入していたあの女性はまだ捕まっていないけれど、その正体は、シセラ様の侍女と名乗っていた「レキエス」の可能性が高いそうだ。
「彼女がレキエス……」
冷たい眼差しに、根深い憎悪の光を宿した女性だった。
イーリス教よりも、ルイス様個人への憎しみが深いように思えた。
報告書に添えられた手紙を開くと、そこには私への感謝の言葉と、キルシュヴァッサーが問題なく飛べるようになったという喜ばしい報告が綴られていた。
楽しそうに空を飛ぶキルシュヴァッサーとフロリアンさんの姿を思い出して、頬が緩んだ。
その手紙にはつづきがあった。そこには、「メルキオールの安全装置の件について報告します」と書いてあった。
「竜も人と同じように、自らの意思で人を守ろうとすることを身をもって知りました。メルキオールもまた訓練で洗脳されたという事実はなく、アルトリーゼ家による虐待の事実はなかったと正式に発表し、謝罪します」
と、深い反省の気持ちをこめた言葉で締めくくられていた。
この内容は他国にも公表されるだろう。
安全装置への認識がどのように変化するかはわからないけれど、アルトリーゼ家に向けられた疑いはこれで払拭された。
私は視線を机の上に落とした。そこには、フロリアンさんから贈られた小さな木箱があった。
木箱の蓋をそっと開いた私は、「あ!」と声を上げた。
「これは……!」
中には、桃色の鱗がたくさん入っていた。
「キルシュヴァッサーの鱗! ハイブリッド種の貴重な鱗を、こんなにたくさん……」
きらりと陽光を反射する美しい鱗の上には、フロリアンさんからのメッセージカードが添えられていた。
「誇り高き竜医師のフィルナ様へ。竜も人も救いたいという、あなたの願いが叶いますように」
優しい祈りの言葉に、私は静かに目を閉じて、心の中で感謝を告げた。
(フロリアンさん、キルシュヴァッサー。本当にありがとうございます。貴重なハイブリッド種の鱗は、これを必要とする竜たちに使わせていただきます)
これからは、失われた時間を取り戻すくらい、幸せな日々を送ってほしい。
両手を組んで祈りを捧げていると、外から警戒を示す鐘の音が聞こえてきた。
弾かれたように立ち上がり、窓に近づいた。
鐘の音をかき消すかのように、獣が唸るような重い音が響き渡り、ビリビリと窓ガラスが振動した。
目を細めてその音の出所を探ると、雲の切れ間から巨大な影が見え隠れしていて、自然と眉が寄った。
「回遊船団……」
新たな問題が、アウデンティア公国に迫りつつあった。
「花芽ぐむキルシュヴァッサー」 終
次回更新は4/23を予定しております。




