花芽ぐむキルシュヴァッサー29
「ヘリアス様!」
私は手綱を離さないよう振り返る。
アジ・ダハーカが塔のそばを通り過ぎるのと、ヘリアス様が胸壁を蹴って空へ跳んだのは、ほぼ同時に見えた。
一番端の首がヘリアス様に気づき、食らいつこうと口を開く。
けれど、その鋭い歯がヘリアス様を捉える前に、ヘリアス様の剣が上から振り下ろされた。
三つの首が軽々と斬り飛ばされ、巨大な胴体だけが意思を持ったかのようにしばらく低空飛行し、墜落する。
すると、近くに待機していたらしい二頭の風属性の竜が姿を現した。
アルトリーゼ家の竜であるヴェルトとカリスだ。その背に乗ったラインさんとブランさんが叫んだ。
「あの悪夢は五年前に終わってるんですよ!」
「吹き飛べ!」
相棒たちの叫びに呼応するように、ヴェルトとカリスが風の渦を吐き、三つの首を空高く吹き飛ばした。
上空でパンドラを爆発させるつもりだ。
「ヘリアス様!」
私はエアルを旋回させ、落下していくヘリアス様を追いかけた。
近くにドゥルキスがいるのはわかっている。
それでも、今は一秒でも早く、彼に会いたかった。
ヘリアス様は驚いたように目を見開いて、それから空中で体勢を変えた。首から下げた首飾りが光を反射する。私が贈った、火の竜の鱗とティロの石だ。
記憶を失ったヘリアス様は、あの首飾りを「私にはつける資格がない」と言って持ち歩いていた。
(あの首飾りをつけているということは、もしかして……!)
期待に胸が高鳴った。
ヘリアス様の落下に合わせて、エアルがその下に潜りこむようにして飛行し、背中を見せて待ち構える。
ヘリアス様は危なげなくエアルの背中に降り立った。
「フィルナ! 怪我はないか?」
「はい! 大丈夫です! ヘリアス様こそ、お身体は大丈夫ですか?」
ああ、本当にヘリアス様だ……! そう思って元気よく返事をしたつもりだったけれど、その声はひどく掠れていた。
ヘリアス様は心配そうに眉を寄せた。
「その声はどうしたんだ? それに、耳に血がついている」
「これは、その……あとで全部説明します。でも、身体は元気なので大丈夫です!」
ヘリアス様は何か言いたげな顔をして、その言葉を飲みこんだ。
これは、あとでお説教されるかもしれない……。
彼は小さく息をついて、気遣うような目で私を見つめた。
「……わかった。今は聞かない」
「も、申し訳ありません」
「あなたが謝る必要はない。私は、あなたに無茶をさせた自分に腹を立てている」
ヘリアス様は私の後ろに跨ると、私をそっと抱きしめた。
「遅くなってすまない。よく戦った」
ヘリアス様の労いの言葉とその温もりに、じわりと涙がにじんだ。
こんな場所じゃなかったら、今すぐ彼に抱きついて、声を上げて泣いていたかもしれない。
だから今は、肩に乗せられたヘリアス様の頭に頬を寄せた。
いつもは上げられている前髪が崩れて、私の頬に触れる。そのくすぐったい感触ですら嬉しかった。
「そろそろ爆発するだろう。急いでここから離れよう」
「はい!」
本当は、ヘリアス様の記憶が戻ったのか確かめたかったし、キルシュヴァッサーのことやジンさんと会ったことなど、話したいことがたくさんあった。
けれど、今はパンドラの爆発から逃れるのが先だ。
ヴェルトとカリスも旋回し、撤退を始めている。
私は、近くを飛んでいるドゥルキスに竜笛で指示を出し、急いでその場を離れた。
すると、空が突然パッと明るく光って、その光が急速に膨らんだ。
わずかに遅れて爆発音が響き渡り、その凄まじい衝撃が爆風となって襲いかかってきた。
「く……っ!」
距離はじゅうぶん離れているはずなのに、それでも肌を焼くような熱と暴風で吹き飛ばされてしまいそうだ。
パンドラという兵器の威力を、まざまざと思い知らされる。
エアルがわずかに体勢を崩しかけたその時、全身を襲っていた熱と風が、ふっと消えた。
「どうして? 一体何が……」
「フィルナ、空を見てみろ」
「空?」
ヘリアス様に促されて空を見上げた私は、目の前の光景に目を見張った。
私たちの頭上には、透き通った桃色の膜のようなものが広がっていた。
空そのものを覆い尽くすかのような膜が、爆風を防いでくれているようだ。
膜の範囲は広く、調査団の支部がある方角から、ここまで伸びているように見えた。
まるで、すべての命を守る盾となるように。
(この膜のようなものは一体……?)
爆風によって削られた膜は、竜の鱗が剥がれるように小さな欠片となって宙を舞った。
無数の欠片が桃色の花弁のように、はらはらと舞い落ちていく。
(空から桃色の雪が降っているかのようだわ……)
その幻想的な光景に見惚れていると、どこからか竜の鳴き声が聞こえた気がした。
慌てて周囲を見渡すと、調査団の支部がある方向から、二頭の竜が飛んでくるのが見えた。
一頭は水属性の竜、カスカーダ。その背には、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたシーラがいて、こちらに向かって激しく手を振っていた。
「奥様ー! やっと追いつけました!」
「フィルナ様! ご無事ですか!」
シーラにしがみつくようにして、シャーロット先生が声を上げる。
そしてもう一頭、桃色の体表の竜が、少し不安定ながらも翼を広げて空を飛んでいた。
その姿に、思わず自分の目を疑った。
「キルシュヴァッサー……?」
久しぶりの空に歓喜するかのように、キルシュヴァッサーは甲高い鳴き声を上げた。
その背中には、興奮した様子でこちらに手を振るフロリアンさんがいた。
次回更新は4/12です。




