花芽ぐむキルシュヴァッサー22
キルシュヴァッサーが目覚め、安楽死の決定が撤回された翌朝のこと。
竜舎に向かう途中でシーラから、「調査団内にセイレニア教のスパイが紛れこんでいる可能性がある」という情報を伝えられた。
「調査団内にセイレニア教のスパイが?」
「はい。ウルリッヒ様が奥様に伝えてほしいと。まだ確定ではないらしいんですけど、怖いですよね。というか、調査団にスパイを送る意味ってあるのでしょうか?」
シーラは眉を寄せながら、首を傾げた。
私はセイレニア教が調査団に潜入する理由をいくつか考え、口を開いた。
「調査団が持っている情報、または押収品を狙ったのかもしれない」
「押収品ですか?」
「ええ。調査中の証拠品として没収したものの中には、強力な武器などもあるはずよ。それをセイレニア教に横流ししていた可能性があるわ」
「ぶ、武器!? 大問題じゃないですか! 早く捕まえないと……!」
シーラは何かに気づいたようにはっとして、怯えたように小声で言った。
「もしかして、私たちが出会った人たちの中にスパイがいるのでは?」
「それは、どうかしら……」
仲良くなった人たちも多いから、その中にスパイがいるなんて、あまり信じたくない。
(でも本当にスパイが潜んでいるとして、情報や武器以外に狙われるものって何だろう?)
他に思いつくのは、珍しいハイブリッド種のキルシュヴァッサーだ。
ラドロンの研究のために、ハイブリッド種を狙う可能性はじゅうぶんにある。
キルシュヴァッサーが狙われているなら、警備を今よりも厳重にしてもらわないと。
「まさか、安楽死の決定が早められたのって、そのことと何か関係があったりするのかしら?」
「え!? 狙いはキルシュヴァッサーですか?」
「ラドロンの研究のために、ハイブリッド種の身体が必要になった。だから、一刻も早く枢機卿様を呼んで、安楽死を行いたかった……?」
「そうなると、ティムさんがスパイ!?」
「そうと決まったわけではないけれど」
「でも可能性はありますよ! もしあの人がスパイなら、すでに拘束されていますし、安心ですね!」
シーラは「これで夜も眠れます!」と、すっかり安心しきった様子だった。
ティムさんはカルニス枢機卿様に嘘の情報を与えたとして、現在は調査団内で身柄を拘束されている。
たしかにシーラの言う通り、彼がスパイだというのなら、拘束されているのは好都合かもしれない。
治療室に入ると、窓が全開になっていて、太陽光がキルシュヴァッサーを照らしていた。
久しぶりの日光浴に、キルシュヴァッサーは気持ち良さそうに目を細めている。
「おはようございます、フィルナ様、シーラさん!」
シャーロット先生が私たちに気づいて、弾むような足取りで近づいてきた。
私たちも挨拶を返すと、シャーロット先生は待ちきれないとばかりに嬉しそうに報告してくれた。
「キルシュヴァッサー、すごく調子が良さそうですよ! 私が声をかけても、翼をパタパタ動かしてくれるんです!」
「そうなんですか? すごい回復力ですね」
「はい! メルキオールの鱗のおかげかもしれません」
静かにキルシュヴァッサーに近づくと、まぶたが完全に開いて、赤い瞳がこちらを見た。
「おはよう、キルシュヴァッサー。太陽が気持ちいいね」
声をかけて頭をなでると、キルシュヴァッサーはパタパタと小さく翼を動かし、「キュルル」と喉を鳴らした。
「あ……! 片方だけじゃなくて、両方の翼を動かせるようになっていますね!」
「そうなんです! この調子だと、近いうちに外に出られるかもしれません」
「外に出られたら、今度は飛ぶ練習を始めないといけませんね」
「もう飛ぶことまで考えているんですね」
気が早いなと言いたげな、それでいて喜びのにじんだ声が聞こえてきた。
振り返ると、やはりフロリアンさんがいた。
すると、キルシュヴァッサーが弾かれたように顔を上げた。
当たり前のように首を持ち上げたので、私とシャーロット先生は「え!?」と同時に驚きの声を上げた。
キルシュヴァッサーの回復の早さに、フロリアンさんも目を見張り、顔を綻ばせた。
「キルシュ! もうそんなに身体を動かせるのか?」
「キュウ! キュウゥ!」
「悪かったよ、待たせたね」
フロリアンさんが近づくと、キルシュヴァッサーははしゃいだように翼を羽ばたかせて、甘えた鳴き声を上げ始めた。
よしよし、とキルシュヴァッサーの頭をなでるフロリアンさんの表情は、とても穏やかだった。
「いい光景ですね」
「そうですね」
シャーロット先生も、優しく微笑みながらうなずいた。
私たちの視線に気づいたフロリアンさんは、ほんのりと目元を染めて、眼鏡をかけ直す仕草をした。
それを見たシーラがにやにやと目を細める。
「な、何ですか、その顔は」
「えー? 何も言ってないじゃないですかぁ」
「表情でわかりますよ」
フロリアンさんはあきれたようにため息をついたけれど、その表情には笑みが浮かんでいた。
「フロリアンさん。この調子だと、数日後には軽く散歩もできるかもしれませんよ」
「本当ですか? 何だか、夢みたいだな……」
フロリアンさんは、目の前にいるキルシュヴァッサーを確かめるように、何度も頭や首をなでた。
ようやく納得できたのか、彼は息をついてから、口を開いた。
「フィルナ様には本当に感謝しています。あなたがいなければ、この子は目覚めなかったし、私はこの子を置いてこの世を去っていた」
そう言って、彼は過去の行いを悔いるように目を閉じた。
フロリアンさんの発言に、シャーロット先生とシーラは息を飲んだ。
わずかに沈黙が流れて、今度はシャーロット先生が小さく微笑みながら口を開いた。
「私、最初はフィルナ様に嫉妬して、ひどい態度をとりました。自分の限界を勝手に決めて、竜医師を辞めようともしました。けれど、もう一度竜医師としてやり直そうと思えたのも、キルシュヴァッサーが目覚める瞬間に立ち会えたのも、フィルナ様のおかげです。ありがとうございます!」
シャーロット先生とフロリアンさんの、敬意のこもった眼差しとその言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
何も無駄じゃなかったと、自分の行いを誇らしく思える瞬間だった。
「……この結果は、私の力だけではありません。キルシュヴァッサーが目覚めると信じて、諦めなかった人たちがいたから成し得たことです」
「それは、フィルナ様が誰よりも強く信じていたからですよ」
シャーロット先生がそう言ってフロリアンさんに視線を向けると、彼も同意するように力強くうなずいた。
「あなただけは、決してキルシュを諦めなかった。あなたのような竜医師に出会えて本当によかった」
「フロリアンさん……」
すると、シーラが胸を張って言った。
「へへん! 私の奥様はすごいんですよ!」
「なぜシーラ殿が得意げなんですか」
その瞬間、誰からともなく吹き出して、笑いが広がった。
シーラも照れくさそうに笑い、場はすっかり和やかな空気に包まれた。
その空気を破るように、治療室の扉が荒々しく開かれた。
部屋に入ってきたのはラウラさんだ。
「た、大変です」
よほど急いでいたのか、彼女は肩で息をしていた。
尋常ではない様子に、フロリアンさんが眉を寄せた。
「どうしましたか?」
「それが……っ!」
ラウラさんはわずかに呼吸を整えてから、言葉を発した。
「ティム上級調査官が、死亡しました」
次回更新は3/27です。
【お知らせ】
「竜医師フィルナ」3巻が2026年6月1日発売予定です。
活動報告にまとめていますので、ご興味がありましたらそちらもご覧ください。
活動報告該当記事
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/2290548/blogkey/3603876/
コミカライズ企画も進行中です。




