花芽ぐむキルシュヴァッサー21
キルシュヴァッサーのいる治療室に戻ると、そこにはたくさんの人が集まっていた。
調査団の幹部たちと、フロリアンさんの言っていたカルニス枢機卿様の姿もある。
シャーロット先生はキルシュヴァッサーを後ろに庇うように、彼らと対峙していた。
私に気づいたシーラが慌てて駆け寄ってきた。どうやら先に戻っていたみたいだ。
「奥様、大変なんです! 枢機卿様がやってきて、キルシュヴァッサーの安楽死が決まったって……っ!」
「ええ。フロリアンさんから聞いたわ」
その時、幹部のひとりがこちらを見て怒声を放った。
「フロリアン、どこに行っていたんだ! いつまでキルシュヴァッサーを苦しませるつもりだ! 早く楽にしてやれ!」
「ティム……」
フロリアンさんは目を細め、低い声で彼の名を呼んだ。
するとその言葉に、シャーロット先生がすかさず反論した。
「だから何度も説明していますが、キルシュヴァッサーの意識は戻っています! 安楽死の必要はありません!」
「そうは言うが、先ほどから何の反応もしないじゃないか」
「そ、それは……」
「本当ですか?」
私がキルシュヴァッサーに近づきながら訊ねると、シャーロット先生は困ったように眉を寄せて答えた。
「はい……。さっきまでは応えてくれていたのですが……」
私は一度カルニス枢機卿様に一礼してから、キルシュヴァッサーの頭に触れた。まぶたは閉じている。
「キルシュヴァッサー」
名前を呼ぶと、右の翼がぴくりと震えた。
久しぶりに身体を動かしたからか、疲れてしまったのかもしれない。
反応がないと思ったのか、フロリアンさんは悲しげに目を伏せた。反対に、ティムさんは「ほらね」と小さく笑った。
「本当に動いたんですから! ちゃんと意識は戻ってますよ!」
シーラが泣きそうな声で叫ぶと、補助竜医師たちもそれにつづいて声を上げた。
「そうです、私たち全員が目撃しました!」
「嘘は言っていません! 女神イーリスに誓って!」
「安楽死の撤回をお願いします!」
彼女たちは、上司である幹部たちやカルニス枢機卿様に臆せず、必死にキルシュヴァッサーを守ろうとしていた。
その覚悟に胸を打たれる。
私はキルシュヴァッサーの頭をそっとなでて、小声で呼びかけた。
「ごめんね、キルシュヴァッサー。あともう少しだけ――」
頑張ってと言いかけて、言葉に詰まった。この子は三年間ずっと頑張ってきた。
きっと、フロリアンさんのために……。
私は沈痛な表情をするフロリアンさんに向き直った。
「フロリアンさん。キルシュヴァッサーの名前を呼んであげてください。あなたの声が聞きたいはずです」
「私の……」
「今さら何をしようと、意味はありませんよ!」
ティムさんが、わずかにあせりをにじませて叫んだ。
「枢機卿様の決定は絶対です! あなた方がやっていることは竜の虐待――」
「まあまあ、少し落ち着きなさい」
カルニス枢機卿様は宥めるように言った。
ティムさんはそれでも食い下がる。
「ですが、安楽死はすでに決定しているのですよ?」
「意識の有無を最後にこの目で確認するだけですよ。静かにしていなさい」
ティムさんは口を開きかけて、言葉を飲みこんだ。
私がもう一度「フロリアンさん」と静かに呼びかけると、彼はその目に不安の色を浮かべながらも、こくりとうなずいた。
フロリアンさんはキルシュヴァッサーに近づき、頭をなでた。
その手がかすかに震えている。
もし、名前を呼んで動かなかったら?
フロリアンさんはきっと、最悪の結末を想像して、恐れている。
しばらく、フロリアンさんは無言でキルシュヴァッサーの頭をなでていたけれど、覚悟を決めたように息を吸いこむ音がした。
「……キルシュ。キルシュ、私だよ」
フロリアンさんが呼びかけても、キルシュヴァッサーの翼はぴくりとも動かなかった。
その代わりに――
「キュウ」
と小さな鳴き声が聞こえて、私ははっと息を飲んだ。
「フロリアンさん、もう一度!」
「は……はい!」
フロリアンさんはキルシュヴァッサーの閉じたまぶたを見つめながら、もう一度呼びかけた。
「キルシュ! 私の声が聞こえるか?」
「キュウ……キュウ……っ!」
まぶたがぴくぴくと震えながら開いて、フロリアンさんの姿を探すように赤い瞳が動いている。
フロリアンさんはその瞳を覗きこんで叫んだ。
「キルシュ! 私はここだよ! ここにいる!」
「……キュウ!」
「見つけた!」とでも言うように、キルシュヴァッサーの力強い鳴き声が治療室に響き渡った。
その大きな目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。
それを見たフロリアンさんの目にも涙が浮かんだ。
「ああ……本当に……っ!」
彼の震える唇から、喜びの声が漏れた。
フロリアンさんは、キルシュヴァッサーの瞳に自分の姿が映っているのを確かめてから、そっと頭を抱きしめた。
「キルシュ……ごめん、ごめんよ。ずっと、苦しませてごめん……っ!」
この三年間、何度も口にしただろう謝罪を繰り返しながら、フロリアンさんは涙に濡れた頬をすり寄せた。
キルシュヴァッサーは嬉しそうにまばたきしながら、「泣かないで」と伝えるように、か細い声で鳴いていた。
(キルシュヴァッサーが目覚めて、本当によかった……!)
三年ぶりの再会に立ち会えたことに、胸が熱くなった。
私の隣にいたシーラが、ぐすぐすと鼻をすすりながら「よがっだでずぅ〜っ!」と声を上げて泣き始めた。
ただでさえ涙腺が緩んでいたのに、シーラを見てもらい泣きしてしまった。
シャーロット先生や補助竜医師たちの目にも、喜びの涙が浮かんでいた。
すると、静かにその光景を見守っていたカルニス枢機卿様が、ふうっとため息をついた。
「まさか、このような奇跡を目撃できるとは思いませんでした。植物状態の竜は目覚めないと聞いていましたから」
カルニス枢機卿様はそう言うと、険しい顔をしてティムさんを見やった。
「フィルナ様が行なっているのは、治療という名のただの延命措置だと聞かされていましたが、本当に新しい治療法を試しているとは知りませんでした。後ほど、彼から詳しい話を聞かせてもらいましょう」
ティムさんは顔中に汗を浮かべて、視線を泳がせた。
彼がカルニス枢機卿様に正しい情報を与えないまま、安楽死へと誘導したのは間違いない。
(イナンナの時も思ったけれど、安楽死という判断を軽々しく下すような体制は、今すぐ変えるべきだわ)
救えるはずの竜の命が、人間の勝手な都合で奪われるなんて許せない。
(それにしても、ティムさんはどうして安楽死を急がせたのかしら……)
そのことを疑問に思っていると、カルニス枢機卿様がこちらに近づいてきた。
「その注射器を預かりましょう」
「あ、はい」
安楽死の薬が入った注射器を渡すと、カルニス枢機卿様は受け取った注射器を箱の中に収めた。
「当然ですが、安楽死の決定は取り消します」
「ありがとうございます」
その時、わっと歓声が上がった。
キルシュヴァッサーの左の翼が動いて、フロリアンさんを抱きしめている。
フロリアンさんの顔は涙でぐしゃぐしゃだったけれど、それでも、まぶしいほどの笑顔を浮かべていた。
次回更新は3/25です。




