花芽ぐむキルシュヴァッサー20
「い、今……キルシュヴァッサーの翼が動きましたよね?」
私がシャーロット先生たちにそう確認すると、彼女たちは何度もうなずいた。
シャーロット先生が興奮したように頬を染めながら言った。
「み、見ました! 右の翼が動いたところを、間違いなく見ました!」
「やっぱりそうですよね!?」
私はキルシュヴァッサーの瞳を見つめながら、もう一度呼びかけた。
「キルシュヴァッサー?」
すると、再び右の翼が持ち上がり、バサリと音を立てて上下に動いた。
私の声に合わせて、まばたきもしてくれた。
「意思疎通ができた!」
嬉しさのあまり、思わず叫んでしまった。
キルシュヴァッサーは、久しぶりに翼を動かして疲れたのか、鼻息をふーっと漏らした。
驚いて固まっていたシーラが我に返り、両手を上げて、その場で飛び上がった。
「やった! ついにやりましたよー!」
「本当に……本当にキルシュヴァッサーが目覚めたんだ……っ!」
シャーロット先生も感極まったように目元を拭う。
補助竜医師たちも、目に涙を浮かべながら歓声を上げていた。
私はかすかに震える右手を胸に押し当て、目を閉じた。
(ありがとうございます……ジンさん!)
メルキオールの鱗を譲ってくれた竜騎士に、心の中で感謝を告げる。
私はもう一度、キルシュヴァッサーの目や身体の動きを観察した。
反応はまだ鈍いけれど、私と目を合わせようとしたり、こちらの声に応えてわずかに身体を動かしてくれる。間違いなく意識がある。
このことを一刻も早くフロリアンさんに伝えたい。
「シャーロット先生。キルシュヴァッサーをお願いします。私はフロリアンさんにこのことを報告してきます」
「わかりました。お任せください!」
「奥様、私も行きます!」
私はシーラと一緒に治療室を出て、フロリアンさんの姿を探した。けれど、執務室にも会議室にも姿がなかった。
途中でシーラと別れ、手分けして探すことにした。
私は幹部たちの執務室がある廊下を歩いていると、フロリアンさんの部下のひとりだという男性に出会った。
「フロリアン様ですか? 会議に出席したあと、どこに向かったのかわからなくて、僕も探しているんです。いつもなら、行き先くらい伝えてくれるはずなんですけどね」
「そうですか。外出してしまったのでしょうか」
「その可能性も……あ!」
「何か思い当たることでも?」
「あ、いや、あり得ないとは思いますが」
と、彼は前置きして、窓の向こうを指差した。
その先には、この建物と隣接するようにして建っている塔が見えた。
「あそこの塔から自然保護区が一望できるので、フロリアン様は休憩時間になると、あの塔の上から竜を眺めているんです。とはいえ休憩時間でもないのに、塔に登ることはないと思いますが」
私は塔の頂上を見上げた。当然、ここからでは何も見えない。
「フロリアン様をお見かけしましたら、フィルナ様が探しておられたとお伝えしておきます」
「よろしくお願いします」
私はもう一度塔へ視線を向けた。
仕事熱心な方のようだし、仕事中に塔に登るとは思えないけれど……。
(一応、確認しておこうかしら)
私はこの建物から塔へと繋がる廊下を渡り、頂上へとつづく長い階段を上った。
頂上に到着すると、そこには外へ出るための扉があった。わずかに開いている。
誰かいるのかもしれない。
期待をこめて、私はそっと扉を開いた。
まず視界に飛びこんできたのは、自然保護区の美しい緑の風景や、空に翼を広げる竜たちの姿。そして――自分の左腕に注射器の針を押し当てているフロリアンさんの姿。
注射器の中にある青い液体は、どう見ても人間用の治療薬には思えない。
私はとっさに駆け出していた。
「フロリアンさん!」
制止の意味をこめて叫ぶと、フロリアンさんがはっと顔を上げた。
その隙に、彼の手から注射器を取り上げた。
「何をやっているんですか!?」
「フィルナ様……」
フロリアンさんは、私が持っている注射器をぼんやりと見つめていた。
私は激しく脈打つ心臓を鎮めるように、ゆっくりと息を吐いた。
「フロリアンさん。これが何の薬か、わかっていて打とうとしたんですか?」
責めないようにと気をつけていても、声が震えた。
フロリアンさんは深くうつむいて、こくりとうなずいた。
「……ええ、もちろんです。竜の安楽死に使われる薬です。カルニス枢機卿様から渡されました」
「枢機卿様が? ここに枢機卿様が来られたのですか?」
「はい。今までは安楽死の提案でしたが、今日は違いました。枢機卿様の安楽死の決定は、私では覆すことはできません」
「安楽死の決定って、そんなはずは……!」
治療結果が出る前に安楽死を決定するなんて、そんな話は聞いたことがない。
フロリアンさんは、がくりと膝から崩れ落ちた。
「フロリアンさん!」
「私は……私は、キルシュを殺せません」
ぽつぽつと、彼の頬を伝った涙が石の床に落ちていく。
「だから……代わりに私が死ねば、安楽死への抗議になる。そうすれば、あの子に時間が与えられるかもしれないでしょう?」
悲壮な決意に、私は言葉を失ってしまった。
はは、とフロリアンさんは泣きながら暗く笑った。
「ああ、でも、それはあの子の苦しみを長引かせることになってしまうのかな。フィルナ様……どうすれば、あの子を幸せにできるのでしょうか。私がやってきたことは全部、間違いだったのでしょうか……っ!」
フロリアンさんは肩を震わせ、静かに涙を流していた。
自分の手で愛する竜の命を奪うのか、自分が死ぬか――ひとりで抱えこんで、思い詰めてしまったのだろう。
私は彼のそばに屈みこんだ。
「何も間違いじゃなかった。それをこれから証明しに行きましょう」
「証明って……」
フロリアンさんは涙に濡れた顔を上げた。
「フロリアンさん。キルシュヴァッサーと意思疎通が取れるようになりましたよ」
彼は一瞬、目を見開いたまま固まった。
そして、「え、ええ!?」と驚愕の声を上げた。
「待ってください! それってつまり……!」
「キルシュヴァッサーの意識が戻ったということです。枢機卿様の決定を覆せます」
「覆せる……」
フロリアンさんの目に新たな涙が浮かんだ。けれど、その表情に絶望の影はなかった。
「あなたは、どうすればあの子を幸せにできるのかと訊ねましたね。あなたがいなくなって、キルシュヴァッサーが幸せになれると思いますか?」
フロリアンさんは激しく首を横に振った。
私は小さく微笑んで、右手を差し出した。
「急ぎましょう。キルシュヴァッサーのもとへ」
次回更新は3/21です。




