花芽ぐむキルシュヴァッサー19
言葉を失い、立ち尽くす私を見て、ラウラが説明してくれた。
「この方は、フレン・カルニス枢機卿。お察しの通り、カルニス枢機卿様はキルシュヴァッサーの安楽死を見届けるために来てくださったのです」
「ま、待ってください!」
ようやく声を発することができた。
淡々と告げられた安楽死の決定。そして枢機卿の登場に、内心で動揺していた。
それでも、平静な顔をして訊ねた。
「現在、キルシュは治療中です。実際、フィルナ様のおかげで目覚めの兆候が――」
「目を開けたのだってただの反射で、意識はない」
ティムが鋭く私の言葉をさえぎった。
「それに、治療中とは言っているが、治療という名のただの延命措置だろう? 完全回復には程遠く、いくらフィルナ様であってもキルシュヴァッサーを目覚めさせることはできない」
「なぜ断言できる」
「専門家たちの意見だからだよ」
ティムの背後には、他の支部の竜医師たちの姿があった。
私は彼らの顔を眺めながら、思わず小さく笑った。
「専門家? それを言うなら、竜聖医の称号持ちであるフィルナ様もそうだ。彼女は諦めていない」
竜医師たちは苦い顔をした。
私はさらに言葉をつづけた。
「近頃はセイレニア教による襲撃により、『戦える竜』の需要が高まってきた。調査団としても、治る見込みのないキルシュよりも、戦力となる竜の治療にお金を使いたい。合理的な判断だ。だが――」
私はティムを鋭くにらみつけた。次第に語気が荒くなるのを、止められそうにない。
「あなた方の本当の目的は、竜の貸し出しによる莫大な契約金と、珍しいハイブリッド種の竜の死体だ。ハイブリッド種はとんでもない高値で取引されるからな」
「そんなわけがないだろう! でたらめを言うな! すべては調査団で保護した竜を守るためだ!」
ティムはカルニス枢機卿様の耳に入るのを嫌がるように、声を荒げた。
彼の態度に怒りがこみ上げてくる。
「でたらめだと? そもそもウルリッヒ団長の不在を狙ったかのように枢機卿を招待し、シャーロット先生や他の幹部たちが呼ばれていない時点で明らかだろう! 安楽死に反対する者たちを全員排除したこの決定は公平じゃない!」
「もう、よいのです」
カルニス枢機卿様の宥めるような声が響いて、私は思わず口をつぐんだ。
彼は痛ましいものを見るように私を見つめていた。
「まぶたが開いたというのは、女神様による最後の慈悲だったのでしょう。ですが、これ以上の治療は竜を苦しめるだけです」
諭すような物言いに、私の鼓動が嫌な音を立てた。
「ま、待ってください! キルシュが目覚めるまで、あと少しなんです! だからどうか――」
「声も出せず、空も飛べない。しかも、己が竜であったことすら忘れている。それは竜にとってどれほどの苦しみでしょうか。これ以上の施しは、延命という名の苦しみでしかない。あなたは今のキルシュヴァッサーが幸せだと思いますか?」
「そ、それは……っ!」
カルニス枢機卿様を直視できなくて、視線が下がっていく。
この三年間を思えば、幸せだと言えるはずがない。
言葉が喉に引っかかって、息苦しさを覚える。
その時、節くれだった手が私の右手を包みこんだ。
顔を上げると、カルニス枢機卿様が優しく微笑んでいた。
「植物状態の竜は、もう二度と目覚めないのです。幻想は捨てて、今こそあなたの罪を償いなさい」
「え……」
ガンッと鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受け、目の前が真っ白に染まった。
わかっている。キルシュが植物状態になったのは、すべて私の責任だ。
力の抜けた私の手に、カルニス枢機卿様は金属製の何かをにぎらせた。
「最後はあなたの手で楽にしてやりなさい。その許可を与えます」
私はカルニス枢機卿様の穏やかな微笑みを見つめてから、手元に視線を落とした。
そこには、青い液体の入った注射器が、冷たい光を反射していた。
◇◇◇
キルシュヴァッサーの顔を覗きこむ。今日はまぶたが開いていて、可愛らしい赤い瞳が見えていた。
(うん。いい兆候ね)
私はシャーロット先生と一緒に、メルキオールの鱗を使って薬を調合し、キルシュヴァッサーに投与した。
投与してから一時間くらい経っただろうか。
すぐに効果は表れないだろうけれど、やはり少し期待してしまう。
私は顔を上げて治療室の中を見回した。
キルシュヴァッサーの周囲には、シーラとシャーロット先生、そして補助竜医師たちを含めた七人の姿がある。
フロリアンさんの姿はない。
「フロリアンさん、来ていませんね」
「そういえば、そうですね。何か用事ができたのかもしれません」
シャーロット先生も、彼の行き先は知らないみたいだった。
薬を投与したあと、一緒に翼を動かす約束をしていたのだけれど、仕方がない。
「とりあえず、私たちだけで始めましょうか」
「はい!」
「お任せください!」
シャーロット先生とシーラが明るく返事をしてくれた。
すると、補助竜医師のうちのひとり――湖の近くでイネスが暴れた際にそばにいた女性が、「あの、フィルナ様」と少し不安そうに声を発した。
「どうかされましたか?」
「あ、えっと……じつは先ほど、教会関係者を見かけたと噂している人たちがいたので」
「教会関係者?」
「はい。服装からして、高位の方だと言っていました。もしかしたら、教会はキルシュヴァッサーの治療を諦めたんじゃないかと、不安で……」
その話を聞いたシャーロット先生は困惑した顔で言った。
「見間違いではありませんか? 今日は教会からお客様が来るなんて連絡は受けていませんし……」
補助竜医師たちの表情は晴れない。
シャーロット先生が口を閉ざすと、重苦しい沈黙が流れた。
彼女たちの気持ちもよくわかる。
もし本当に教会関係者が来ているなら、キルシュヴァッサーの安楽死が提案されている可能性もあるから。
「大丈夫ですよ」
嫌な想像を振り払うように、私は彼女たちを見て微笑んだ。
「今はハイブリッド種の鱗を使った新しい治療法を試している最中です。治療結果が出ていない段階での安楽死は行われませんから」
シーラがはっとした顔をして言った。
「キルシュヴァッサーに新たな治療法を試しながら、教会からの提案も拒否できるということですね! さすがです、奥様!」
「なるほど……そこまで考えておられたなんて」
シャーロット先生がきらきらとした眼差しで私を見上げるので、何だかくすぐったい気持ちになった。
「教会の提案を拒否できることに関しては、偶然気づいたことですけどね。だから、本当に教会関係者が来ていたとしても心配しないでください。キルシュヴァッサーが目覚めつつあることを説明します」
そう言うと、補助竜医師たちの顔にようやく笑顔が戻った。
彼女たちの安心した表情を見て、私の心も緩んでいく。
私はキルシュヴァッサーの瞳を見つめながら、そっと頭をなでた。
「あなたももう一度、フロリアンさんと一緒に空を飛びたいよね。キルシュヴァッサー」
そう呼びかけると、突然右の翼がバサッと音を立てて上下に動いた。
羽ばたきで風が起きて、前髪がふわりと浮き上がる。
「…… え?」
ぱさりと前髪が落ちる。
私はこれが現実なのかを確かめるように、シーラたちの方を見た。
彼女たちは目と口を丸くして、キルシュヴァッサーを凝視していた。
多分私も、まったく同じ顔をしていると思う。
次回更新は3/19です。




