花芽ぐむキルシュヴァッサー16
「奥様。準備ができました」
扉越しにラインさんの声が聞こえた。
気を遣ってくれているのか、彼は寝室には入ってこない。
「わかりました。すぐに向かいます」
返事が聞こえて、ラインさんの気配が遠ざかっていく。
私はもう一度、眠りつづけるヘリアス様を見つめた。
少し迷ったけれど、身を乗り出して額に口付けを落とす。
「……唇にするのは、目覚めてからにしますね。行ってきます」
最後に頬をなでてから、そっと身体を離した。
その後、私はラインさんと合流し、ジンさんが収容されている監獄へと向かった。
面会申請の際、フロリアンさんが「竜の治療のため」とあらかじめ説明してくれていたおかげで、面倒な手続きなどは一切なかった。
看守の後ろをついて歩きながら、ラインさんが小声で言った。
「こういう時、調査団の権限は役に立ちますね」
「本当にそう思います。本来なら、面倒な手続きがあるようですから」
看守が立ち止まり、扉を開いた。扉の向こうには牢屋があった。
鉄格子の向こうに、椅子に座ったまま拘束されている男性の姿が見えた。
深くうなだれ、伸びた黒髪が顔を覆い隠している。
看守も、監視のために部屋の中に入ってきた。
「どうぞ。会話は五分です」
そう言って、壁際に立った。
私は呼吸を整えてから、口を開いた。
「ジンさん?」
静かに呼びかけ、鉄格子に近づく。
ジンさんの頭がぴくりと動いた。緩慢な動きで顔を上げる。
輪郭を無精髭に覆われた、精悍な顔立ちが露わになった。
年齢は三十代くらい。
その風貌から、飢えた獣のような雰囲気があるけれど、オレンジ色の瞳は寂しげに揺れていた。
眉間には、斜めに走る大きな傷痕があった。
ジンさんはしばらく私を見つめてから、
「……何も話すことはありません」
と、疲れたように言った。
ラインさんがふっと笑った。
「ひどい姿だ。あんなに男前だったのに。ま、俺ほどではありませんがね」
ジンさんがじろりとラインさんを見やる。
「少しくらい話を聞いてくださいよ。竜の命がかかっているんです。メルキオールと同じくハイブリッド種の竜です」
かつての相棒の名を聞いて、ジンさんの眉がぴくりと動いた。
メルキオールは火と風のハイブリッド種だ。
ジンさんを含めた三賢者が騎乗していた竜――メルキオール、バルタザール、カスパールは、すべてハイブリッド種の三兄弟であり、五年前に亡くなっている。
ジンさんはため息をついてから、口を開いた。
「お前、よくここに来られたな。お前の婚約者……ヴィクトリアを殺したのは俺だぞ」
その事実に、私は息を飲んだ。
つまり、ラインさんにとってジンさんは婚約者の仇ということになる。
ちらりとラインさんを見る。
彼は口元に笑みを浮かべながら言った。
「それを言うなら、俺たちは三賢者のふたりを……あなたの大切な弟たちを殺しましたよ。それにヴィクトリアは、あなたほどの竜騎士と本気で戦えて本望だったでしょう。最期はいい笑顔をしていましたよ。本当に、あなたに嫉妬してしまうほどにね」
ラインさんは、今まで見たこともないような冷たい微笑を浮かべていた。
婚約者を殺された憎しみもあるのかもしれないけれど、それ以上の感情――本人が言うように、嫉妬のようなものを感じた。
「ジン。俺を本気で怒らせて帰らせたいのなら、『ヴィクトリアは俺の女にした』くらい言ってくださいよ。あなたにできるならね」
ジンさんは黙りこんだ。
その沈黙で、この竜騎士のことが少しわかった気がした。
討ち取った相手への敬意を忘れていない。だから、尊厳を穢すような真似はできないのだと思う。
私は重苦しい空気を変えるように、口を開いた。
「ジンさん。私は、フィルナ・アルトリーゼと申します。ヘリアス様の妻です」
「……あなたが」
彼は驚いたように、短く声を漏らした。
「今日はあなたにお願いがあって参りました」
そこで私は、キルシュヴァッサーの状態を簡潔に説明した。
彼は言葉を挟むこともなく、静かに話を聞いていた。
「……そのため、同じハイブリッド種の鱗が必要なのです。ですから、もしメルキオールの鱗が残っているのなら、少しだけ分けていただきたいのです」
ジンさんは視線を落としたまま、無言を貫いている。
長い沈黙が、私を責めているようにも感じた。
「ひどいことを言っていると思います。いくら治療のためだからといって、大切な相棒の鱗を渡したくありませんよね。それでも私は……キルシュヴァッサーを目覚めさせてあげたいのです。もし、少しでも分けていただけるのなら、減刑になるようかけ合って――」
「必要ありません。これは俺が望んだことですから」
ジンさんはきっぱりと、私の申し出を跳ね除けた。
彼はどうやら、このまま死刑になることを望んでいるみたいだ。
「なぜ……?」
思わずそう問いかけると、ジンさんは鋭く私を射抜いた。
「それはこちらのセリフです。なぜ、あなたの竜でもないのにそこまでしようとするのですか? 実績のためですか?」
「いいえ」
私はすかさず否定した。私の気持ちを誤解されたくなかったから。
「私は、キルシュヴァッサーが家族と一緒に空を飛ぶ姿が見たいのです。そして、この治療法が有効であると証明されたら、この世界に存在する植物状態の竜とその家族に、『諦めなくていい』と伝えたい」
ジンさんは私の目を見つめたまま、静かに耳を傾けている。
間違いなく話は聞いてもらえている。そのことに内心安堵しながら、私はもう一度同じ言葉を告げた。
「難しいことをお願いしているのは重々承知しております。ですが、どうしてもキルシュヴァッサーを助けたいのです。メルキオールの鱗を、少しだけ譲ってはいただけませんか?」




