花芽ぐむキルシュヴァッサー13
「ねえ、レキエス。まだヘリアスは殺せないの?」
薄暗い室内に、不満そうな声が響く。
彼女の願いを叶えられていない自分に、じわりと胸の奥で苛立ちが増した。
「申し訳ありません、奥様。新しいラドロンが作れるまで、今しばらくお待ちください。いい材料になりそうな、『とても珍しい竜』が手に入りそうなのです」
「そう……。セイレニア教の教祖をつづけるのも退屈だわ」
奥様はため息をついて、肩を落とした。
私は奥様の美しいピンクベージュの長い髪をとかしながら、鏡の中の彼女の表情をうかがう。
退屈そうに尖った唇に、可憐な笑みが浮かぶのが見えた。
「そういえば、オリアス様の様子はどうかしら? しばらく、アルトリーゼの城から出ていないと聞いているけれど」
「お忙しいのでしょうね」
「お可哀想……早く私が癒して差し上げなければ! オリアス様ったら、あのアンネマリーよりも私の方が素敵だとおっしゃってくださったのよ」
「奥様の方がお美しいのですから、当然です」
「うふふ、そうよね」
奥様は恋する乙女のように微笑んでいた。
奥様が嬉しそうだと、私も嬉しくて幸せだった。
「それにしても、オリアス様に近づくあの女……本当に許せないわ。やっとアンネマリーが死んでくれたのに、今度はあの穢れた女がオリアス様に色目を使っているのよ。ヘリアスの妻だというのに、はしたない女だわ。ヘリアスもろとも殺してやる……!」
「ええ、もちろん。すべて私にお任せください、奥様。必ずや、ヘリアスとフィルナを討ち取ってみせます」
すると、鏡の中で奥様は満足げに目を細めた。
私は奥様を絶対に否定しない。私は、奥様の望みを叶えるためだけに存在しているのだから。
(憎いヘリアスのことをオリアス様と勘違いしているだなんて、指摘してはならない)
私は奥様の望みを必ず叶えてみせる。その上で――
(絶対にお前を殺してやる……ルイス!)
◇◇◇
「フィルナ様、こっちです……!」
「はい!」
私は声をひそめながら、シャーロット先生の後を追った。
長い廊下を進んでいると、普段私が行き来しているのとは別の竜舎が見えてくる。
シャーロット先生は周囲に私たち以外の気配がないことを確認してから、竜舎の扉をそっと開いた。
開いた扉の先に見慣れた赤色を認めた瞬間、私は駆け出して、鉄格子にしがみついていた。
「エアル!」
「キャア!」
エアルは興奮した様子で翼を羽ばたかせ、鉄格子の隙間に鼻先を差しこんだ。
鼻先に触れるのも久しぶりで、思わず頬が緩む。
「フィルナ様、中へどうぞ」
「ありがとうございます!」
シャーロット先生が扉を開いてくれたので、私は竜房の中に入り、その大きくて温かい身体に抱きついた。
「ああ、エアル……エアルっ! 会いたかった!」
「キュウ、キュウ……!」
頭上から切ない鳴き声が降ってきて、ぶわりと涙があふれた。
エアルは尻尾を振り乱し、すりすりと私に頭を擦りつけた。「会いたかった。寂しかった」というように、全身で私に訴えかけてくる。
「ごめん。ごめんね、エアル。寂しかったよね」
私よりもずっと大きな身体をした妹を、腕を限界まで広げて抱きしめた。
背後で、ぐすっと鼻をすする音が聞こえた。
「フィルナ様がエアルを虐待しているなんて、絶対あり得ませんね」
シャーロット先生が目元を拭いながら、そう微笑んだ。
私はエアルの顔をなでて、身体全体に素早く視線を走らせた。
目も鼻も綺麗で、鱗も艶々……健康状態に問題はなさそうだ。
「大切にされているのね。元気そうで、本当によかった……」
「キュウ、キュウ!」
「そっちもね!」と言うように、エアルが明るい鳴き声を上げた。
エアルらしくて、くすりと笑いがこぼれる。
もう少しエアルと一緒にいたかったけれど、他の人に見つかる前に、竜舎から出ることにした。
「シャーロット先生。エアルに会わせてくれて、本当にありがとうございます!」
「いえ、これくらいしかできなくてすみません」
「そんなことはありません! むしろ、規則を破るような真似をさせてしまって、申し訳ありませんでした」
「気になさらないでください! 私の意思でやったことですし、それに、誰にもバレなければ問題な――」
余裕たっぷりに胸を張っていたシャーロット先生は、その笑顔のままピシリと凍りついてしまった。
彼女の視線の先をたどると、そこにはフロリアンさんがいて、こちらを見て目を見開いていた。
(ま、まずい……)
私がエアルと会っていたと知られたら、私を案内してくれたシャーロット先生が処罰されてしまうかもしれない。
「こ、これは違うのです! 私が勝手に――」
「……私は何も見ていません。他の調査官に見られないうちに、ここから離れてください」
そう軽く注意すると、フロリアンさんは足早に去っていった。
固まっていたシャーロット先生は、ほっと息をついた。
「よかったぁ……見逃してくれましたね」
「どうして見逃してくれたのでしょう?」
「フロリアン上級調査官は、フィルナ様の働きをずっと見ていましたから、当然ですよ」
「え?」
「あ、変な意味ではないですよ! フィルナ様のおかげでキルシュヴァッサーの継続治療が認められそうですし」
「継続治療ということは、もしかして……」
シャーロット先生は硬い表情をして、うなずいた。
「キルシュヴァッサーに関しては、安楽死の提案が出ていましたから。フロリアン上級調査官は、フィルナ様に対してすごく感謝していると思います」
安楽死の提案と聞いて、自然と眉が寄る。
竜の延命については、苦しみを長引かせるだけではないかと、竜医師の間でも激しく議論されてきた。
治る希望にすがる家族の気持ちも、苦しむ竜を解放してあげたいという竜医師の願いも、どちらも理解できるからこそ、簡単に結論を出すことはできない。
廊下を歩き、いつもの竜舎まで戻ってくると、イネスの竜房の前に複数の人間の姿があった。
全員、調査官の腕章をつけている。
「調査官がたくさんいますね」
「今日は幹部を集めての会議ですからね。あれ?」
シャーロット先生が不思議そうに首を傾げた。
「あんな女の人いたかな? 他の支部にいた調査官が幹部に昇進したのでしょうか」
調査官の集団の中には、ひとりだけ女性がいた。
長い金髪をひとつにまとめて眼鏡をかけた、二十代くらいの女性だ。
やがて、その集団がこちらにやってきて、私に向かって一礼した。
私も同じように一礼すると、その女性と目が合った。鋭く理知的な眼差しをした、美しい女性だった。
(ん? このにおいは……)
すん、とにおいを嗅ぐと、その女性が目を瞬かせた。
「あら、どうかされましたか?」
「あ、いえ……魔物のにおいがしたので」
女性は目を見張り、調査官たちは何のことかと不思議そうに顔を見合わせた。
余計なことを言ったかもしれない。
「すみません、失礼なことを言ってしまって! 忘れてください」
「ふふ、大丈夫ですよ。職業上、セイレニア教の調査なども行っておりますから、そこでラドロンのにおいがついたのでしょう。フィルナ様は鼻がいいのですね。香水をつけ直さないと」
そう微笑んで、女性は去っていった。他の調査官たちもその後につづいた。
彼らの背中が見えなくなると、シャーロット先生が少し興奮気味に言った。
「よく魔物のにおいがわかりましたね。私、まったく気づきませんでした!」
「何度かラドロンと接触したことがあるので、何となくですが。それに、保護された竜たちが少し興奮しているように見えたので、何かのにおいに反応しているのはわかっていましたから」
「す、すごい……あの一瞬でそこまで見抜いていたんですか? さすが、フィルナ様です!」
彼女の称賛に照れくささを覚えながらも、胸の奥では、先ほどの女性に対する小さな違和感が残っていた。




