花芽ぐむキルシュヴァッサー5
案内されたのは、先ほどフロリアンさんに立ち入り禁止だと注意された大きな建物だった。
この扉の向こうには、どんな竜が待っているのだろう。
(時間がないと言っていたけれど、一体どのような病で……)
少し緊張しながら、ウルリッヒ様が扉を開けるのを静かに待った。
やがて扉がゆっくりと開き、中の様子が見えてくる。
そこは、想像していたような竜房ではなかった。竜の住居というより、治療室そのものだ。
その部屋の中央に、翼を広げた状態のまま眠っている竜がいた。
その竜の姿を見た私は、思わず息を飲んだ。
私の反応を見て、ウルリッヒ様が悪戯が成功したかのように微笑んだ。
「ご紹介します。この竜がキルシュヴァッサーです」
「この子が……!」
私は足音を立てないよう、その竜にゆっくりと近づいた。
その竜の体表は、桃色をしていた。窓から差しこむ陽光を受け、花びらを重ねたかのような華やかな鱗が、きらきらと輝いている。
呼吸でかすかに波打つその身体を眺めながら、私は口元を綻ばせた。
「こんなに綺麗な桃色の体表を持つ竜は、初めて見ました!」
「驚いたでしょう? 火と水のハイブリッド種です」
「ハイブリッド種!?」
ハイブリッド種とは、異なる属性の竜を交配させて生まれた竜だ。
生まれた子竜の属性は、両親からどちらかひとつ、または両方を受け継ぐと言われていて、さらに頑丈な身体で生まれてくるため、異なる属性での交配が盛んに行われた時代があった。
けれど、ハイブリッド種は生まれること自体が稀で、生まれたとしても長生きできなかったり、生殖能力がないことがほとんどだった。
「火と水のハイブリッド種なんて、初めて見ました」
「そうでしょうね。我が国では、このキルシュヴァッサーを含めて二頭しか確認されていませんから。今は眠っていて見えませんが、コケモモみたいに真っ赤で丸い可愛い目をしているんですよ」
ウルリッヒ様は我が子を自慢するように、柔らかな表情で言った。
彼が竜に向ける深い愛情に、心の奥が温かくなる。
私はキルシュヴァッサーの頭の近くで屈んだ。
キルシュヴァッサーの身体の下にはふかふかの新しい藁が敷かれていて、定期的に交換されていることがわかる。
ただ、気になることがあった。
「この建物内を動き回った形跡が、床にも壁にも見受けられませんが……」
ウルリッヒ様を見上げると、彼は寂しげな笑みを浮かべて、小さくうなずいた。
「医療ミスで、3年前から植物状態になっているんですよ」
植物状態――その言葉を聞いた瞬間、脳裏にヘリアス様の姿が過った。
ベッドに横たわり、深い眠りから覚めないヘリアス様の姿が……。
私は首を横に振って、何とかその光景を振り払った。
ドクドクと心臓が激しく脈打っている。大丈夫、ヘリアス様なら大丈夫だから。
「フィルナ様?」
黙りこんでしまった私に、ウルリッヒ様が心配そうに声をかけた。
(いけない。今は目の前のことに集中しないと!)
呼吸を整えてから、私は口を開いた。
「すみません、驚いてしまって……。医療ミスで植物状態になってしまったのですね」
「ええ。この子は元々、フロリアンくんの相棒なんですよ」
驚いて、フロリアンさんに視線を向けた。
そういえば、彼はこの部屋に入ってからずっと黙りこんでいた。
フロリアンさんは暗い目をして、キルシュヴァッサーを見つめていた。
その目の奥には怒りと悔しさ、悲しみの暗い炎が燻っているように見えた。
(医療ミスで相棒が植物状態になってしまったから、フロリアンさんは竜医師を憎んでいるのね)
そうやって竜医師を憎むことで、自分の心を保とうとしているのかもしれない。
私が立ち上がると、ウルリッヒ様は意を決した様子で切り出した。
「私はフィルナ様に、このキルシュヴァッサーの治療を依頼したいのです」
「団長、何を考えているのですか! 私は許可しませんよ!」
フロリアンさんが興奮した様子で、すかさず抗議した。
それに対し、ウルリッヒ様は冷静に答えた。
「許可しないも何も、このまま放っておけばキルシュは死ぬよ。むしろ、いつ息を引き取ってもおかしくないんだ」
その瞬間、フロリアンさんは目を見開き、ひどく傷ついた表情をした。彼の表情を見て、胸が痛んだ。
ウルリッヒ様は淡々と告げた。
「フィルナ様が、竜に真摯に向き合う優秀な竜医師であることは、さっきのイネスの件でじゅうぶん理解できたんじゃないかな。キルシュを目覚めさせることは不可能だと、どの竜医師からも言われたけどね、この子は頑張って生きている。諦める前に、打てる手はすべて打とうよ」
ウルリッヒ様の心のこもった説得に、フロリアンさんは瞳を揺らし、深くうつむいてしまった。
肯定はしなかったけれど、それ以上の反論はなかった。
ウルリッヒ様は小さくため息をついて、それから私に微笑みかけた。
「断りづらい空気にさせてしまいましたが、とても難しい話ですし、無理にとは言いません。それに、キルシュの治療結果が、エアルの訓練の件に反映されるわけでもありません」
「はい。理解しているつもりです」
植物状態の竜が目覚める確率は、かなり低い。それに、すでに三年も経過しているのなら、意識が戻る可能性はほとんどない。
(それでも、方法がないわけじゃない)
私は、まぶたを閉じて眠りつづけるキルシュヴァッサーと、うつむきながら強く拳をにぎり締めているフロリアンさんを見た。
(ふたりを放っておくなんて、できない)
それに、アルトリーゼ家に戻った時、ヘリアス様に「私は竜医師としての使命を果たしました」と、胸を張って報告したい。
私はウルリッヒ様に向き直って伝えた。
「植物状態の竜の治療法は確立されていませんから、私なりの治療を行います。それを承諾していただけるのなら、お受けします」
私の答えを聞いて、フロリアンさんがゆっくりと顔を上げた。
私に向ける表情には不審と……ほんのわずかの期待が入り混じっていた。気のせいかもしれないけれど。
ウルリッヒ様は目を見張り、心の底から安堵したように微笑んだ。
「ああ、フィルナ様、本当にありがとうございます! もちろん承諾します。どうか、キルシュのことをよろしくお願いします」
「待ってください!」
あせりを含んだ甲高い声が響き渡った。
シャーロット先生が、困惑した表情でウルリッヒ様を見つめていた。
次回更新は2/19です。




