花芽ぐむキルシュヴァッサー4
イネスが調査団に保護されてから、すでに二ヶ月が経っている。
人を信用できない状態のイネスに、この竜舎に慣れてもらうためにはどうすればいいのか。
竜房の隅で身体を縮めているイネスを見つめながら、黙って考えをめぐらせていると、シャーロット先生が小さく咳払いした。
「私はイネスが怖がらないように、照明の明るさを変えましたけど」
そう主張する彼女の目が、何だか少し怒っているように見えた。
(それもそうか。自分が受け持っている竜なのに、他の竜医師の意見を聞くなんて、いい気はしないわよね)
シャーロット先生からすれば、自分の能力を否定された気持ちになったのかもしれない。
私は竜房の近くに設置されている夜光石を見上げた。たしかに明るさは抑えられている。
「そうですね。この照明のおかげで、イネスも落ち着いているように見えます」
「え?」
否定されると思っていたのか、シャーロット先生は驚いたように目を瞬かせた。
それから、小さな唇をもごもごと動かして、
「そ、そうですよね。やっぱり私の判断は間違っていません」
と、どこか得意げに言った。
「では、特に竜房の環境を変える必要はありませんか?」
ウルリッヒ様が訊ねる。
私は「そうですね……」と少し考えながら、竜房の前を右へ左へと歩いてみた。
そして、時々「イネス」と呼びかけた。
その反応を見てから、私は口を開いた。
「藁をもっと増やすか、天井に板をつけて少し低くしてみるか……とにかく、この子が隠れられる場所を作るといいかもしれません」
「隠れられる場所、ですか」
「はい。私が部外者という理由もあると思いますが、移動したり、声をかけたりすると、とても怯えていました」
きっと、たくさん怖い思いをしてきたのだろう。
イネスの寂しそうな目を見つめながら、私は安心させるように微笑んだ。
「イネスが安心できる場所を設置しつつ、人目に慣れさせる。まずは、この竜房が安心できる場所だと知ってもらいましょう」
「なるほど」
ウルリッヒ様は納得したようにうなずいた。
一方、シャーロット先生は半信半疑といった表情をしていた。
フロリアンさんは、相変わらず不機嫌そうな顔をして言った。
「本当にそんなことで改善されるのですか? 結局、何も変わらなかったらどうするおつもりで?」
「わかりませんが、やってみる価値はあると思います。すぐに取りかかれるのは、そうですね……藁をたくさん積み上げて壁にすることでしょうか。竜房の周りを布で囲うというのも、いいと思います」
布はあとで用意してもらうとして、やはりまずは藁の壁だろうか。
「ウルリッヒ様。早速、作業に取りかかってもよろしいですか?」
「作業というと?」
「藁をたくさん運びます。よろしいですか?」
「フィルナ様ご自身が運ぶのですか?」
「はい! そんなに時間はかかりません。やらせてください」
ウルリッヒ様とシャーロット先生は意外そうな顔をしていたけれど、フロリアンさんだけはあきれた様子で言った。
「どうせ今だけですよ。ただの点数稼ぎでしょう」
「いい加減にしなさい、フロリアンくん」
ウルリッヒ様に注意を受けたフロリアンさんは、ふいっと視線をそらした。
「無礼をお許しください、フィルナ様」
「いえ、大丈夫です」
「寛大なお心に感謝いたします。じゃあ、シャーロット先生、フィルナ様に作業してもらっても構わないかな」
「え、ええ。ウルリッヒ団長がそう言うなら」
まだ納得しきれていないのか、シャーロット先生の返事は歯切れが悪かった。
(私の言うことが信用できないのは仕方ない。でも、試行錯誤していくしかない)
私はウルリッヒ様とシャーロット先生の許可を得て、大量の藁をイネスの竜房に運びこんだ。
作業を終えて竜房の外に出ると、早速イネスに動きがあった。
竜房の隅にいたイネスは、山積みにされた藁を見て、「何あれ!」と言わんばかりに目を丸くした。
身体を起こし、きょろきょろと周囲を警戒しながら、徐々に藁に近づいていく。
「イネスが動いた……!」
シャーロット先生が口元を押さえながら声を漏らした。
(怖くないよ。大丈夫)
心の中でイネスに声をかける。
イネスは鼻をひくひくさせて藁を嗅ぎ、それから私たちの視線を避けるように、藁の陰でゆっくりと寝転がった。
ここからだと、イネスのお尻と尻尾しか見えない。
その状態でしばらく見守っていると、「くう、くう……」と可愛らしい寝息が聞こえてきて、思わず「やった!」と心の中でガッツポーズをした。
藁を運ぶのを手伝ってくれた補助竜医師たちも、「良かった!」と声を潜めながら微笑み合っていた。
「イネスが人前で眠るなんて、初めて見た……」
シャーロット先生がどこか呆然としたようにつぶやいた。
彼女の隣にいるフロリアンさんも、イネスを見つめたまま動かない。
すると、ウルリッヒ様がこちらに近づいてきて、嬉しそうに目を細めて言った。
「ありがとうございます、フィルナ様。さすが、噂通りですね。あっという間に解決してしまうなんて」
噂通りとは? と少し疑問に思いながらも、褒められることは素直に嬉しかった。
「まさか藁を使って隠れ場所を作るなんて、思いつきませんでしたよ」
「ありがとうございます。藁に隠れてしまうと、竜の異変に気づきにくいという難点はありますが、まずはイネスの睡眠不足の解消とストレスの緩和を優先すべきと考えました。体調が回復すれば、先ほどの薬の効果もより発揮されやすくなると思います」
「なるほど」
ウルリッヒ様は神妙な面持ちでうなずき、少し間を置いてから口を開いた。
「フィルナ様。あなたに診てもらいたい竜がいます」
その瞬間、フロリアンさんははっとして、ウルリッヒ様に詰め寄った。
「待ってください、団長! それってまさか――」
「きみの考えている通りだよ」
「アルトリーゼ家の竜医師なんかに任せるなんて、許可できません!」
「でもさ、もう時間がないでしょ? このままじゃ死んじゃうよ」
死んじゃうという言葉に、私の心臓がドキッと跳ねた。
死に瀕した竜がこの竜舎のどこかにいるのだろうか。
フロリアンさんは唇を噛み、うつむき加減になって黙りこんでしまった。
私に任せたくないけれど、時間がない。その狭間で葛藤しているのかもしれない。
私はフロリアンさんに申し訳ないと思いつつも、口を開いた。
「私の力が少しでもお役に立てるのなら、その竜に会ってみたいです」
私がそう答えると、ウルリッヒ様はほっとしたように小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。ではご案内します……『キルシュヴァッサー』のもとへ」




