EP.3-9
メルは本から顔を上げ、ベランダへと視線を移した。窓を開けているので空がよく見える。今日は朝から雨だった。昼を過ぎても勢いの衰える様子はなく、分厚い雲がずっと先まで広がっている。
遠くから地面に溜まった水を跳ね上げて、こちらに向かってくる足音が聞こえるとメルはベランダに飛び出した。雨に濡れるのを構うことなく手すりを掴み背伸びをして塀の外の様子を伺う。
「……ちがう」
歩いてきたのが見知らぬ人間だったことにメルはがっくりと肩を落とした。
とぼとぼとベランダを離れ、机に放置した分厚い本に再び触れる。
「あ」
濡れた手で不用意に触ったせいで文字が滲んだ。何度も読んだ本なので数文字読めなくなったところで支障はないのだが、それでも少し気落ちする。
気を取り直して読書を再開しても、やはり外が気になって仕方なかった。物音が鳴っては窓を見遣る。その繰り返し。
「注意力散漫はよおないよ、坊ちゃん?」
背後から突然声が聞こえて、メルは驚きのあまり息が詰まった。
「お前っ……なんで」
「たまには正面から入るんもええかなー思て、エレインに通してもらったんよ」
リュシアンはへらへらと笑い、メルが持っていた本を後ろから覗き込んだ。
「さっきからページめくらんと外ばっか気にしよるん。そんなにおれが来るん心待ちにしてた?」
「……いつからいたんだ?」
「ふふーん、声かけられるまで気づかんなんて、メル坊もまだまだやな〜」
「…………」
「なん、そんな顔せんとってよー」
ノックもせず気配を消して入り込んでいたリュシアンを、メルは恨めしげに睨む。
その際、リュシアンが右手に一冊の本を持っているのに気づいた。
「それ」
「じゃーん! メル坊にお土産!」
「また絵本……」
「そんな小難しい本ばっか読んだって、おもんないやろ?」
「……けいこは?」
「雨なんやから、今日はできんやろ? 諦めや」
リュシアンはベッドに腰掛けて、膝を叩く。
「ほら、おいで」
「ひとりでも読めるのに」
リュシアンがあまりに自分を幼い子供扱いしてくるので、メルは不満をこぼす。
「メル坊はこうやって絵本読んでもらうん嫌?」
側に来たメルを半ば強引に膝の上に乗せたリュシアンは、そう問い掛けた。
「……いやじゃない」
メルは絵本を開いたリュシアンの手がいつもとは違うことに気づく。
「てぶくろ、今日はしてないんだな」
「ああ、さっき濡れたから外したんよ。メル坊も、なんかちょっと全体的にしけてへん? 雨具も着んと外出たんか?」
「ちょっとだけ」
「風邪引いたらどないすんの、気いつけなあかんで」
手袋をしていないのが珍しくてメルはリュシアンの手を握った。
「つめたい」
「子どもの体温が高いだけや」
「子ども扱いするな」
そうは言いつつもメルは手を離そうとしない。
「メル坊はさ、なんで騎士になりたいと思ったん? 音楽も勉強もできるのにもったいない」
「……強くなりたいから」
「どうして?」
「強くなって父上の役に立ったら、母上もきっと褒めてくれる」
「ふーん」
「お前こそ、なんで騎士になったんだ?」
「おれ? おれは……」
君の父親を殺すためです、なんて馬鹿正直に言うわけにはいかない。そもそも今思い返すと、宰相に近づくために騎士になろうという発想がまずどうなのか。未だに目的が達成できていないあたり、この選択はあまり良いものではなかった気がする。
騎士として名を上げれば上げるほど、身勝手な行動が取りづらくなってしまった。衝動的にことを起こして足がつけばハロルドをはじめ、自分の周りにいる多数の人間にも宰相殺しの責任が生じてしまうだろう。そうしないためには機を伺い、自分が殺したとバレないように暗殺するほかない。
「リュシアン?」
メルの声でふと我に返った。思考が少しずれてしまったようだ。リュシアンは改めてメルに話せるような言葉を探す。
「おれは、そう……成り行き上仕方なくなったみたいなもんやから、特に理由はないかな。だからあんまり騎士になりたいって人の気持ちはわからんのよ」
「じゃあヒューイは?」
「へ、ヒューイ? あいつは確か、父親が騎士やったからそれに憧れたーとか言うてたかな」
もっと自分の理由に言及されるかと想定していたリュシアンは予想外の質問に肩透かしを食らった。
「おれよりヒューイが来た方が嬉しい?」
「なんで?」
「しゃあなしで騎士やってる奴より、まともな理由で騎士やってる奴の方がいいんかなーと思って。それにメル坊、最近やたらヒューイのこと気にしてるし」
「それは……」
(……あいつと楽しそうにしてたから)
メルは喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
先日ハロルドに連れられ見に行った剣術大会でのリュシアンは、メルの知らない表情をしていた。屋敷に来ている時とはまるで別人かと思うような立ち居振る舞い、そして他を寄せ付けることなく優勝を勝ち取った圧倒的な剣の技量。その光景を見ていると、どうしようもない焦燥感にかられた。
それと同時に、そんなリュシアンの隣にいることのできるヒューイが、対等に扱ってもらえているヒューイが、どうしようもなく羨ましいと思った。
「おれじゃなくてヒューイ呼ぶ?」
「い、いらない!」
自分の意図しない方向に話が進みそうになってメルは慌てて声を上げた。ここに来るのがリュシアンでなくなるなんて考えたくない。
「リュシアンじゃないと……いやだ」
「あれ、メル坊人見知り?」
そうではないけれど追求されたくもないのでメルは違う話題を口にする。
「リュシアンは騎士じゃなかったら、なにになりたかったんだ?」
「うーん、難しいこと聞くなあ」
「難しい?」
「強いて言うなら……王子様かな」
「王子様?」
「絵本にもよお出てくるやろ? みんなから好かれて頼られて、悪い奴らからお姫様を守る、強くて優しい王子様」
「無理だな」
「うわ、ひどい」
「だって王子様なんてどう頑張ってもなれないじゃないか。そういうのはうまれた時に無理だって決められてるんだ」
「確かに、ひと昔前よりはマシになったとはいえ、この国は未だに身分がどうこううるさいな。でもさ、お姫様のこと好きになって結婚したら、なれんこともないで? メル坊がそうなったらどうする?」
「好きにならない。王族は守る人で、好きになっちゃだめな人だ」
「へえ、メル坊がそんな風に言うのはちょっと意外やったなあ。あんま距離置かれるとお姫様も寂しいと思うで?」
「それは……そうかもしれないけど」
誰も側にいてくれないことの寂しさは身をもって知っている。メルはそのことを考え少し言葉に詰まった。
「ま、おれの夢なんてどうだっていいんよ。将来の夢がどうのこうのって年でもないしな。そんなことより絵本読も! せっかく持って来たんやし」
リュシアンがそう言うとメルも小さく頷く。そうやって読み始めた絵本は、奇しくもお姫様と騎士が恋をする話だった。




