後日談
三人称です。
―――固く鎧った心臓を決定的に射抜かれたのは、いつ、どのタイミングだったのかと問われれば。
それは、泣き笑いに近い微笑を浮かべながら「覚悟しろ」と宣言された、あの瞬間だったに違いない。
***
「それでね、お母様。その時、宰……ユーバートが、急に怒り出したんですよ!」
王宮の小サロンでは、王妃のごくごくプライベートなお茶会が開かれていた。
テーブルの上にはティーカップの他にも所狭しとお菓子やサンドイッチが並べられているが、それらに見向きもせずに女同士はおしゃべりに興じていた。
参加者は三人だけ。和気藹々とする母と娘に挟まれて所在無さげに座っているのは、仕事中に半ば無理矢理連れてこられた宰相だ。手持無沙汰を誤魔化すために飲み続けたお茶はもうすでに三杯目。今この場で飛び跳ねたなら腹からチャプチャプと音が鳴るかもしれなかった。
「怒らなくてもいいと思いません? だって、三十歳も四十歳もたいして変わらないでしょう?」
「まあ、シルヴィアナったら。その発言は世の中の多くの人間を敵に回しますよ?」
王妃は優雅に紅茶のカップを傾けながら、母親として愛娘を優しく諭した。
その顔に浮かぶのは聖母さながらの慈愛に満ちた微笑みであるはずなのに……横で見ている宰相に、そこはかとなく黒い圧力が感じ取れるのは何故だろう。
「十六のあなたから見ればそう思えるかもしれませんが……そこには越えた者しか分からない深い隔たりがあるのです」
ね? と、共犯者のようにこちらを見るのは痛切にやめていただきたい。そう宰相は思った。
彼はまだ全然越えていない。
「それにねえ、この人は気にするでしょう。だってあなた達は、親子でもおかしくないくらいの年齢差なんですもの」
「……そこまでではありませんわ。ユーバートはお父様より随分と若いです!」
自分で言いだしたくせに、人から事実として指摘されると面白くないらしい。
一転してシルヴィアナは、宰相の擁護に回った。
「それはあなたが、わたくし達が年を取ってから授かった子供だからですよ。一般的には違います」
「でも、親子ほど年の離れた夫婦なんて、世間には大勢いるでしょう? ……ユーバートもいい加減諦めて、降参してくれればいいのに」
そう王妃に言いながら、シルヴィアナの目線が一瞬だけ宰相の表情を窺う。
宰相は耳元に小虫が纏わりついて聞こえなかったふりをした。
14歳差。
……まあ確かに。政略結婚なら、特に珍しくもない組み合わせだ。
シルヴィアナの場合は王が念入りに歳の離れた相手からの申し込みを除外していただけの話だ。――そう、"王が"。宰相ではない。宰相はただ王の提示した条件に従って候補者の調査と選定をしただけだ。……素行調査の報告時に少しだけ主観が混じったかもしれないが。
「ふふ、詮無いこと。この人ときたらそれはもう、堅物中の堅物なのですから」
一人娘の猛アプローチになかなか色よい返事を返さない家臣を、王妃は悪戯っぽい瞳で見つめた。それからおもむろに愛娘の方を振り向く。
「ところで、シルヴィアナ。その堅物を口説き落すために、あなたはこれからやる事があったのではなくて?」
「そうでしたわ! 今日の舞踏会の私の衣装、やっぱり違う趣のものに替えたいのです。お母様の紅いドレスをお借りしてもよろしいかしら?」
「紅……ああ、サテンのあれね。構いませんよ。少し詰めないといけないでしょうから、合わせてらっしゃい」
「ありがとうございます! お母様」
嬉々としてシルヴィアナは侍女と共に席を外した。この機に乗じて仕事に戻ろうと目論んだ宰相は、
「悪い事は言いませんから、シルヴィアナが戻って来るまでわたくしにお付き合いなさいな」
と、あえなく王妃に引き留められた。
座り直した宰相の前へ、冷めたお茶の代わりにと熱いカップが差し出される。どうやらこの紅茶地獄から抜け出せるのはまだまだ先になりそうだった。
「それにしても」
王妃は宰相を見て含み笑いをした。
「先日の神託の儀式は可笑しくて堪らなかったわ。自分が婿に選ばれたと知ってからの、あなたのあの慌てっぷりときたら……長い付き合いで初めて見てよ。一見冷静な指摘で誤魔化しながらも、どうにかして責を免除してもらおうと足掻く様が面白くって!! わたくしもう、腹筋が攣るかと思いましたわ。うふふふふ、この先五年は思い出し笑いのネタに事欠かないわね……!」
十年来の付き合いなので宰相も知ってはいたが、王妃は存外と人が悪い。
内心でそのような事を考えながら平然と『一理ある』と口を合わせていたとは。さすがに夫婦漫才のツッコミ役までこなす妃だ。
宰相はあえて反論せずに、自分のカップに注がれた紅茶の色が気になって仕方ないふりをした。
……しようがない。自分で思い返してみてもあの弁論は相当に胡散臭いものだったのだ。
しばらく無言でお茶を味わう。
どうせなら面目をなくしたついでに聞いてみよう、と宰相は切り出した。
「王妃様はどうお考えなのですか。その……最近の姫様の私への態度のことですが」
「ああ、シルヴィアナがあなたを好きだとようやく気付いたこと? とりあえず神事の結果に沿った形になって良かったわ。一応建前が立ちますもの。わたくしはね、あの娘の為なら神託など幾らでも歪めて解釈してしまうつもりだったのですけど」
賢明にも宰相は、再び沈黙を守った。
非公式な場ではあっても、一国の王妃が堂々と口にして良い発言ではなかったからだ。……まあ、表向きには。
「ちなみに陛下はこう仰せでしたよ。あんちくしょう、恋情もないのに義務感で婚姻を承知などしたら、この手で首をねじ切ってやる、と」
「それは……間違いなく有言実行されるおつもりなのでしょうね……」
想像すると宰相の肝が冷えた。
一気に顔色の悪くなった宰相を見て、王妃が人の悪い笑みを浮かべる。
「でもわたくしには、あなたがシルヴィアナに向ける眼差しが以前のものとは異なっているように見えますけどね?」
宰相の手にしたカップがソーサーにがちゃりと当たる音がした。
「あとはあなた次第です。一体いつになったら踏ん切りがつくのですか。……二十歳そこそこで大任を押し付けてしまったのが良くなかったのかしら? まったく、四角四面に育っちゃって」
「人のことを賽子のようにおっしゃらないでください」
からかいを含んだ王妃の言葉に、宰相は大きく息を吐いた。
「……私は姫様のお心を一度傷付けてしまったのです。今更そんな掌返しは出来ません」
生真面目に呟く宰相に、王妃は飲み物のお代わりを勧める。
「そうやって自分で自分を雁字搦めにしてしまうのは、あなたの悪い癖よねえ。……ああ、シルヴィアナが戻ってきたようだわ。ふふ、あの格好を見てもそうやって澄ましていられるかしら?」
何気なく扉の方を振り返った宰相は、紅茶を気管に詰まらせた。
シルヴィアナの纏った紅いドレスが、彼女にしては初めての、胸元が大胆に開かれたデザインだったからだ。
盛大に咽ながら、宰相は椅子を鳴らして立ち上がった。
「何を考えているんですかあなたは……! さっさと着替えて来てください‼︎」
「だって……こっちのドレスの方が、少しは大人っぽく見てもらえるかと思って」
滅多に見ない剣幕の宰相に驚いて目を丸くしていたシルヴィアナは、そこまで言ってから急に俯いてしまった。
「……似合わない?」
しょげてしまったシルヴィアナに気が付いて、途端に宰相がしどろもどろになる。
「に、似合わないとは一言も言っていないでしょう……お願いですから少しは私の気も察して下さい……!」
目線で王妃に助けを求めたが素気無くスルーされ、宰相は口の中でモゴモゴと言い訳を呟いた。
「…………見せたくないんですよ………………他の、男に…………」
とんでもなく小さなその呟きを耳に拾えるのは、この世に女神くらいしかいないのではないかと思われた。
***
中の国の王女が大々的に結婚式を挙げたのは女神シルヴィア=ナディラの神託が降りてから一年後。
黄金の弓矢によって選ばれたというその伴侶は、『それはもう、完膚なきまでに射抜かれた』と語ったという。