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ポンコツ魔女と音漏れ暗殺者  作者: 伊阪証


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2/2

未払い、支払い、厄介払い

翌日の正午前、暖簾を出そうとしたところで、表の引き戸が開いた。客を迎える声より先に、昨日の少年が店内へ入ってくる。逃げた人間が同じ服装のまま、同じ店へ戻り、こちらを見ても歩調一つ変えない。その厚かましさに、手にしていた暖簾を畳む必要すら忘れた。

「昨日の八百六十円。人命救助の代金は取らないけど、食い逃げまで無料にした覚えはないわよ」

アレックスは謝罪も弁明もせず、ポケットから折り畳まれた一万円札を取り出した。私の掌へ置くと、それで話は済んだと言わんばかりに店の奥へ目を向ける。昨日は服中を探って一円も持っていなかった人間が、翌朝には一万円札を出している。私は紙幣を開き、透かしを照明へ向け、指先で上下の縁を擦った。それから端へ爪を差し込み、薄く重なった二枚目がないか確かめる。

一枚だった。

裏返して、もう一度数えた。やはり一枚しかない。枚数を数える必要がないことは初めから分かっていたが、昨日の無一文と今日の一万円を同じ人間の所持金として処理するには、確認を一度で終える方が難しかった。

「何をしている」

「数えてるのよ。一枚、二枚……一枚。どう頑張っても一枚しかない」

「一万円札は一枚で一万円だろ」

「それくらい知ってるわよ。昨日のあんたから出てきたから、何か間違っているのかと思ったの」

アレックスは返答をせず、入口から最も見えにくい座敷席へ向かった。壁際へ腰を下ろし、背後を塞いでから、卓上の箸立てに映る表通りを確かめている。隠れたいなら店へ入る時から姿勢を低くすればよいものを、表からは堂々と歩き、店内へ入った途端に人目を避け始める。行動の順番が理解できない。

私は九千百四十円を数えて卓上へ置いた。アレックスは受け取った硬貨を見ずにポケットへ流し込み、昨日と同じように水を要求する代わりに、厨房へ顔を向けた。

「昨日のを二枚。肉は増やせ」

「うちはガレット屋じゃないの。昨日は心臓が止まった病人用に焼いただけよ」

「今日は止まってない」

「治った証拠にはならないでしょうが。救急車から逃げたくせに、再診も受けずに何を言ってるのよ」

昨日の倒れ方は熱中症だけでは説明できない。汗を流していながら皮膚は冷え、心臓が止まる直前まで身体を酷使していた痕跡があった。本人が平然としていることと、肉体が無事であることは別である。それでも追い返せば、別の店で胃へ重い物を詰め込むだろう。私は塩分を調整した鶏肉と卵を鉄板へ置き、薄い生地で包んだ。

一枚目を運んだ時、アレックスは耳へ小さな黒い機械を押し込んでいた。イヤホンらしい。私が皿を置いても視線を上げず、片手でガレットを折り、もう片方の手で音量を上げる。その直後、彼の耳元から男の声が漏れた。

『ハマーメッシュ、聞こえているなら返事をしろ。昨日の処理対象は逃走した。暗殺者が現場で先に心停止して、民間人に蘇生されるなど聞いたことがない』

鉄板から肉の脂が弾けた。

アレックスはガレットを噛んだまま動きを止めた。声は小さかったが、開店前の店内には客もおらず、冷房と換気扇の音しかない。しかも本人は聞き取りにくかったらしく、さらに音量を上げた。

『教団へ戻れ。依頼人が報告を求めている。標的を殺せなかった理由が空腹だったなどと言えば、今度こそ――』

アレックスがイヤホンを耳から引き抜いた。漏れていた声は途切れたものの、聞かなかったことにはできない。皿を持つ私の指先へ、昨日と同じ冷たい揺れが触れている。周囲の音を押し潰し、雷の余分な出力だけを削った、あの不自然な凪だった。

「昨日、私の雷へ割り込んだのは、あんたね」

彼は皿を置かなかった。逃げるために重心を移すことも、誤魔化す言葉を探すこともしない。ただ、こちらの手元と入口までの距離を一度ずつ確認した。

「止めなければ俺の神経が焼けていた。死にたくなかったから削った」

「人の魔術を勝手に触っておいて、その説明だけ? それより暗殺者って、誰を殺す仕事なのよ」

「指定された人間だ」

「質問をそのまま言い直さないで。昨日、誰を殺すつもりだったの」

アレックスは口を閉じた。返事がないからといって迷っている様子ではない。答えれば私が何をするか、それを測っている顔だった。昨日までなら、無愛想で腹を空かせた変人として警察へ突き出すか迷う程度で済んだ。しかし今は違う。私の魔術を見抜き、制御へ割り込み、誰かを殺すために商店街へ来ていた人間が、姉妹で暮らす店の座敷に座っている。

私は二枚目の生地を鉄板から剥がし、皿へ移さず、そのまま火を止めた。

「一万円の出所は聞かない方がいいって顔をしていたけど、予定を変えるわ。昨日の標的と、その金を誰から受け取ったのか、食べ終わるまでに話して」

「話さなければ?」

「九千百四十円を持って警察と救急へ行く。逃げるなら、今度はあんたの心臓ではなく足を狙う」

アレックスは私の右手を見た。雷を出す構えなど取っていない。それでも昨日の放電を覚えているらしく、ガレットを持つ指が一度だけ止まった。やがて彼は入口から視線を外し、店の奥へ身体を向け直した。

「まず二枚目を出せ。長い話になる」

「注文を交渉材料にするな、この音漏れ野郎。」

結局、私は三枚目のガレットまで焼いてしまった。未払い分を一万円札で渡された時には、昨日まで一銭も持っていなかった男から本物の紙幣が出てきた事実を処理できず、表裏を確かめ、一枚しかない一万円札の枚数まで数えた。その間にアレックスは、表から見えにくい座敷の隅へ移り、壁を背にして入口を窺っていた。逃げるつもりなら堂々と正面から入ってくるなと言いたかったが、厨房へ戻った時には、もう鉄板へ生地を広げていた。

三枚目を半分ほど食べたところで、アレックスが耳元の機械を外した。黒い筒から微かな雑音が漏れている。昨日、私の雷へ混じった冷たい凪とよく似た、耳ではなく胸の奥へ触れる音だった。

「魔女、お前は魔術の仕組みを知っているか?」

呼び方への文句は後回しにした。昨日までまともに使ったこともなかった以上、偉そうに答えられる知識はない。

「師匠から軽く聞いただけよ。心臓の隣にある痕跡器官が、ごく僅かな音を出す。本来ならエーテルがどうとかいう話もあったらしいけど、今は特定の周波数へ絞った波を発生させて、封印された魔術へ干渉する。詠唱は、その音を悟らせないための目眩ましにも、出力を整える補助にもなる……大体そんなところでしょう?」

「十分だ。その音が鍵になる。昔の魔女は、自分たちを守るために魔術そのものを封印し、痕跡器官を持つ者以外には開けられないようにした。あくまで痕跡器官だから魔女の血縁や聖職者の血縁があれば痕跡器官自体はあるから俺も弱いが持っている。そしてその音が衝突し、共鳴し、中和することで、周波数ごとに属性と出力が変わる」

「ええ。分かったわ、大体は」

「大体じゃ困るって話をしたんだが。」

説明を聞いても、昨日の感触が理屈へ置き換わっただけだった。私の雷が暴れ、別の波に触れた途端、余分な部分だけを切り落とされた。計算を間違えたのではない。私一人の計算では、最初から完成しない魔術だったのだ。

耳元の機械から、今度は明瞭な呼び出し音が鳴った。アレックスは一瞥しただけで応答しない。

「連絡には出なくていいの?」

「必要ない。俺みたいな落ちこぼれが一人消えても、あそこは困らない」

彼は機械を指で挟み、卓上へ置いた。

「これは通信機が本体じゃない。中和機器だ。歩幅、呼吸、武器を抜く順番まで決めて、同じ動作を繰り返す。その音へ逆位相を重ね、自分の立てる音を消す。魔女を狩るなら、魔術へ気づかれずに近づける暗殺者が有利だからな」

「でも、盛大に漏れているわよ」

「俺に完全なルーティンを組む能力がない。機械も不良品だ。利益しか見ない組織だから、追放して育成費を無駄にするより、安い仕事を回して使い潰す。文字どおり、音漏れ暗殺者というわけだ」

自嘲しているようには聞こえなかった。使えない道具の欠陥を報告するのと同じ調子で、自分の扱いを説明している。その方が腹立たしかった。

「俺は昨日、暗殺された。まだ相手は気付かれていないと思っている。」

ガレットを持っていた手が止まった。

「誰に?」

「教団だ、そして、隠したのはお前が魔女だと分かったから今日の為に一旦退却した。」

食い逃げの弁明としては八百六十円分ほど足りなかったが、昨日の逃走には一応の理由があった。アレックスは空になった皿を重ね、ようやく私と目を合わせた。

「今日は交渉に来た。追ってくる連中へ立ち向かうか、俺を殺して逃げるか。お前の練度不足で不安定な魔術なら、出力を少し誤るだけで俺を殺せる」

「それを交渉ではなく強制と言うのよ」

私を巻き込みたくなかったと言った直後に、逃げ道を二つしか用意しない。しかも片方は、助けたばかりの人間を自分で殺せという話である。馬鹿なのだろう。頭が悪いという意味ではなく、自分を選択肢へ入れる時だけ、命の値段を勝手に安くする類の馬鹿だ。

「……はぁ。こういう馬鹿な男って、どうにも嫌いになれないのよね。しょうがない」

「承諾と受け取る」

「勝手に進めないで。確認が先よ」

私は卓へ両手をつき、昨日の放電を思い返した。私の波が僅かにずれた瞬間、彼の中和がそこへ重なった。暴走を抑えただけではない。こちらが狙った出力へ、無理やり押し戻していた。

「私の細かな周波数のずれを、貴方が調整する。貴方が消せない音を、私の魔術で利用する。そういう組み合わせでしょう?」

「ああ。雑魚を二人足して無敵だ」

言い方は気に入らなかったが、内容には反論できなかった。彼は座敷から立ち上がり、右手を差し出した。

「斧と槌の暗殺者、アレックス・ハマーメッシュ。」

私はその手を取った。体温は昨日と変わらず低かったが、握る力だけは生きている人間のものだった。

「魔術歴は全部足して三時間。天野エルミラ。」

二人は、さっそく向かってきた暗殺者達に対面するべく先ずは人の居ない場所まで逃げることにした。

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