未払い。
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イラストありはこっち
真夏の商店街で人が倒れている場合、最初に確認すべきは野次馬の人数ではない。呼吸と脈、指定の場所に救急車を呼んだ人間が本当にいるかどうか。それだけだ。
私が人だかりへ割り込んだ時、状況はまだ悪くなかった。倒れているのは少年が一人。胸元を緩めて呼吸を確認している人が一人、携帯電話で救急へ説明している人が一人いた。残りは心配そうな顔で場所を塞いでいたので、少し離れてもらう必要はあったが、何もせず撮影している者がいないだけ商店街としては上出来である。
「AED! 誰かAED持ってきて!」
場所なら分かる。この通りには商店会が設置したものが二台あり、近い方は百メートルも離れない雑居ビルの一階だ。私は返事をするより先に走り、収納箱のプラスチックを叩き割った。警報音が響く中で本体を抱え、倒れた少年の所まで戻ってから蓋を開く。
中身がなかった。
正確には、外見だけを本物に似せた訓練用の機械と、何にも接続されていない電極パッドが入っていた。側面には小さく「サンプル」と印字され、電源を押しても当然のように反応しない。
防災訓練か何かで入れ替え、そのまま戻し忘れたのだろう。経緯は想像できたが、許せるかどうかは別問題だった。ふざけるな、と思った。人が死にかけている現場にこんなゴミを放置した誰かの怠慢への怒りで、視界が熱くなる。サンプルの硬い筐体をその場でタイルへ叩きつけて粉々に粉砕してやりたい衝動を、奥歯で噛み殺した。
「なんで訓練用のAEDレプリカなんだよクソ!」
私が告げると、胸骨圧迫を続けていた男性の顔が強張った。救急車は向かっている。しかし真夏の商店街であり、道路は混み、タイルの床からの強烈な照り返しの中で、倒れた少年の唇は既に色を失い始めている。
私、エルミラは魔女らしい。
魔女という言葉から、箒やローブや大鍋を思い浮かべる者は多いが、私はそのどれも持っていない。学校指定の制服を着て、両親の残した飲食店を姉妹三人で切り盛りし、放課後には帳簿と仕入れを確認する、ごく普通の女子高生である。
普通ではない部分を挙げるなら、心臓の隣にもう一つ、小さな器官があることだろう。そこから発する微弱な波で、世界に封印された魔術を露出させる。それが何なのか、本当のところは自分でもよく分かっていない。ただ、そういうものらしい、という曖昧な手応えがあるだけだ。師匠である歌姫から「魔術をやめろ」と言われて以来、まともに使ったことはない。家族に迷惑をかけたくなかったし、店の近所で妙な噂を立てられるのも困る。
だが、目の前で人が死にかけている時まで守るほど、大事な決まりではなかった。
「圧迫を続けてください。私が合図したら離れて」
訓練用のパッドを少年の胸へ貼りつけた。機械が空であることは、私と近くにいた数人しか知らない。遠巻きに見ている者には、AEDを使っているようにしか見えないだろう。
少年の体格。肉付きから見て、体重は五十キロ前後。その胸の厚み、じっとりと浮いた汗による皮膚抵抗の予測値、電極の位置、鼓動が途絶えてからの時間を頭の中で並べる。こういう作業は得意だった。数字を一つずつ処理する限り、手元が狂うことはほとんどない。ただし人体は帳簿と違い、見えない条件が多すぎる。まして久しぶりの魔術である。
強ければ神経を焼く。弱ければ心臓は動かない。その間へ通す。
胸の奥で痕跡器官が震え、耳では拾えないほど細い波が、腕から電極へ流れた。封じられていた雷がパッドの下へ露出し、少年の胸を挟むように走る。
その瞬間、手元に強烈な不調和を感じた。完璧に計算したはずの出力が、少年の肉体に触れた途端、底の抜けたバケツのように狂い始めたのだ。予測より僅かに出力が高い。止めようとした瞬間、どこからともなく冷たい「凪」のような微細な揺れが逆流してきて私の波に重なり、余分な電圧だけが綺麗に削ぎ落とされた。
「離れて!」
少年の身体が跳ねた。
一度目で反応がある。私はすぐに首元へ指を当て、呼吸を確認した。細い。だが戻っている。脈も弱いながら続いており、再び胸骨圧迫をする必要はなかった。
周囲から安堵の声が漏れた。私も息を吐き、動き始めた胸を見ながら、頬が緩むのを止められなかった。
上手くいった。人が助かったから嬉しい。それは当然として、魔術そのものが狙った範囲へ収まったことも嬉しかった。
だが、少年は目を覚まさなかった。心臓は動いているものの、意識は混濁したままで、ぐったりとタイルの上に横たわっている。
救急車の到着予定を確認したが、渋滞のせいでまだ時間がかかるという。この殺人的な炎天下の商店街に、死にかけた人間をこれ以上おきっぱなしにするわけにはいかない。熱中症で容体が悪化すれば、今度こそ本当に死んでしまう。
私は少年の胸から粘着パッドを乱暴に剥ぎ取ると、近くにいた男にダミーの機械ごと押し付けた。
「訓練時に入れ替えやがったポンコツ管理者に言っといて!」
呼吸の浅い少年の身体を引きずり起こす。五十キロ前後の、引き締まっているがぐったりと重い肉体を半ばかつぎ上げるようにして、私は自分の店へと彼を連れ戻した。
両親が亡くなった後も、私たち姉妹は一階の飲食店を営業し続けている。お好み焼き、焼きそば、もんじゃ焼き、たこ焼き、それ以外にも材料さえあれば大抵のB級グルメを出す。冷やかしはお断り、ナンパは通報、友人や近所の常連にもそこそこ人気の、比較的治安のいい店である。
開店前の座敷へ少年を運び込み、座布団を枕代わりにして寝かせた。
冷房の効いた部屋で冷たい水を準備し、しばらく様子を見る。少年の額にはじっとりと汗が浮かび、微かに呼吸の音が響くだけの静かな時間が流れた。さっきの手元をすり抜けた異様な不調和と、それを強引に相殺した「凪」の感触が、まだ私の指先に生々しく残っていた。感覚のズレなんかじゃない。あれは、何だ。
――寝かせてしばらくした頃、ようやく本人の瞼が動いた。
彼は数度瞬きをした後、焦点の定まらない目で天井を見上げ、それから不意にガバッと上半身を起こした。
「ちょっと、急に動かないで。心臓が止まりかけてたんだから」
「……熱い。肉をよこせ。死ぬ」
掠れた声だったが、有無を言わせない餓死寸前の獣のような眼光だった。
「は? 普通そんな電撃食らった後は吐き気で――」
「いいから飯だ。早くしろ」
彼はそのまま座布団の上で強引に胡座をかいた。病人らしさは薄いが、額にはべっとりと汗が浮かび、衣服の隙間から覗く肌は異様に冷え切っている。平気なのではなく、ただ平気な顔をして限界を隠すことに慣れきっている身体だ。
空腹の人間を前にして何も出さないのは店の方針に反する。私は言い返すのをやめて厨房へ入った。
そば粉の生地を薄く広げ、卵と鶏肉を包み、塩を控えめにしてガレットを焼く。胃が受けつけなければ途中で止めさせるつもりだったが、少年は皿を置くや否や、獣のような速度で一枚を平らげた。
「もう一枚だ」
「二枚目ぇ?まだ開店準備中なんだけど?」
彼は返事をせず、差し出された水を一息に飲み干した。やはりコップを持つ指先が僅かに震えている。
二枚目を焼きながら、私は鉄板の熱の向こうで、さっきの魔術を思い返していた。私の計算に間違いはなかった。波も乱れず、雷は的確に心臓へ走った。だが、あの少年の肉体に触れた瞬間にバケツの底が抜けたようなエラーは何だ。そして、それを綺麗に削ぎ落としたあの不気味な「凪」は。
師匠の言う通り、私の魔術がまだ雑だから起きた現象なのだろうか。いや、でも、結果として目の前の少年は生きて、ガレットを貪り食っている。
焼き上がった二枚目を皿へ移し、座敷へ運んだ。アレックスが折り畳まれた生地を受け取る寸前、私の顔をじっと見つめた。
「お前、魔女だろ」
皿を持ったまま、指先が凍りついた。
周囲の誰にも気づかれていないはずだった。訓練用の電極を通し、ただのAEDの放電に擬態させた。意識のない人間に、それが見抜けるはずがない。
「……意識はなかったはずだけど」
私の声が、自分でも驚くほど低く強張る。アレックスは視線も合わさずに二枚目のガレットを口へ運び、黙々と咀嚼しながら、ナマの言葉を吐き出した。
「あの雷に隠れた、小さな音に気付けるさ。」
「あんた、何者?」
「水」
コップを叩きつけるように置く。私の完璧な計算をあの場で狂わせ、そして暴走を中和した「凪」の正体が、この少年の内側にある。
「はぐらかさないで。どうして私の波が分かったの。あのとき、あんたの身体で何が起きて――」
食べ終えたアレックスは、空になった二枚の皿を重ね、ふらつきもしない足取りで立ち上がった。
「代金は八百六十円よ」
彼はポケットへ手を突っ込んだ。反対側を探り、上着の内側をまとめて叩いてから、私を見た。
「……ねェな」
「は? 何が」
「金だよ。一枚も入ってねェ」
「ちょっと待って、食い逃げする気!?」
店の外から、商店街のアーケードを反響させてサイレンの音が近づいてきた。救急車だ。そちらへ顔を向け、裏口の鍵が開いていることに気づいたのは、ほんの二秒足らずの隙だった。
座敷へ視線を戻した時、アレックス・ハマーメッシュの姿は消えていた。
開け放たれた裏口から外へ飛び出したが、人通りの多い商店街のタイルの上に少年の影はなく、残されていたのは使ったコップと、重ねられた二枚の皿だけだった。
「あのクソ野郎が!」
最近現金の先払いが無くなったばかりだというのに、といやいやと不満を当たり散らした。




