七月三十一日【2】
「挨拶。 こんばんは」
「……こんばんは」
律儀にも、西園寺さんはその男に挨拶を返す。 突然に現れ、番傘を持った白髪の男に対して。
「良かったよ、ちゃんと来てくれて。 すっぽかされたらどうしようかと思ってた」
「返答。 ご心配なく。 私は約束は守ります」
嫌味っぽく言う俺に対し、男は淡々と言う。 その余裕そのものこそが、裁定者故なのだろうか。
「そうかよ、そりゃ良かった。 それなら前に言っていた「俺たちが八月を迎えられる」ってのも、しっかり守ってくれるんだよな?」
「発言。 それでは課題に張り切って挑みましょう」
やっぱりか。 ここで「はい」とでも言ってくれれば、余計なことを考えずに済んだのに。 どうやら、そう簡単には物事を進めてはくれないらしい。
「あの……。 その、課題って言うのは?」
西園寺さん自身、それは分かっているはずだ。 けど、その確認のための発言かと思われる。 念には念を入れて、この捻くれた男のことだから、何を仕掛けてくるか分かったものではない。
「返答。 課題その壱。 ループ世界を脱出しましょう。 あなた達がループを脱出したのはいつ?」
あのときと、同じ質問。 同じ課題。 それならば、もう答えは決まり切っている。
「西園寺さん、どう思う?」
隣で少々焦っているようにも思える表情をする西園寺さんへ向け、俺は問う。 西園寺さんがどう返すのか、知っておきたい。
「わたしは、あの日だと思う。 わたしが頑張って、お母さんの一件を乗り越えようと決めた日」
間違いないな。 それは確実に、正解の方だ。 この男にそう答えれば、恐らくはループは終わるだろうよ。 でも。
「……俺は、違う日をそうだと信じたい」
それが、俺の決めていたこと。 あの日、この目の前に居る男に課題を再度提示されたとき、決めたことだ。
「……成瀬くん?」
「悪い。 でも俺は、西園寺さんが言ったその日じゃないと思いたいんだよ」
もしもそれを正解としてしまうなら、もしもそれを俺たちの答えとしてしまうなら。 もうきっと、俺は西園寺さんと向き合えなくなってしまう。 西園寺さんと笑いながら話すことだって、できなくなってしまう。 どれが正しいのかは分からない、そんなことは知りたくもない。 ただ俺は、西園寺さんの友達として、友人として、答えを決めたい。
「質問。 成瀬陽夢さま。 あなたが言うその日とはいつですか?」
「決まってるだろ。 俺が思うループの脱出が決まった日、それは」
答えは違っていても、真実は間違ったものでも、俺の思う答えは情けなく、前向きでなかったとしても、それでも。
あの日、西園寺さんは言ったんだ。 母親の死を乗り越えると言ったんだ。 そして「頑張る」と、そう言ったんだ。
多分俺の答えは、そのひと言を聞いて決まったんじゃないかな。 笑顔で前向きに、無理をして、悲しそうに「頑張る」と言った西園寺さんの顔を見て。
「俺は、西園寺さんと俺が出会ったその日をそうだと答える」
だから俺は、その答えを信じたい。
「質問。 それが答えですか? 成瀬陽夢さま」
「ああ、そうだよ。 俺はそう思う」
男に対して言った俺の横で、西園寺さんは小さく「そっか」と言った。 それは俺のことを諦めて言ったのか、それとも別の意味なのかは分からない。 だから、そんな西園寺さんの心中を理解するために俺は言葉を待つ。 考えるんじゃなくて、気持ちを受け取るために。
「成瀬くんは、どうしてそう思うの?」
「……俺のワガママだよ。 西園寺さんには偉そうなことばかり言っているけどさ、俺はどうしてもそうは思いたくないんだ。 母親の死を乗り越えろだとか乗り越えるなだとか、結局は俺のワガママだ」
俺は続ける。 横で黙って聞いてくれている西園寺さんに向け。
「西園寺さんと一緒に居て分かった。 この一ヶ月、俺はいろいろなことを学んだ。 教えてもらったし、助けられた。 だから、言うぞ」
俺が教えてもらった沢山のことに比べたら、俺が教えてあげられることなんてのは小さなものだけど、些細なものだけど。 それでも、言いたい。
「そんなもの、乗り越えなくたって良い。 悩んで、考えて、それでも引き摺って。 一生忘れずに思って、泣いて悲しんで、どうしようもないくらいに落ち込んで。 そうやってみんな懸命に生きているんじゃないのかな」
西園寺さんはそれを聞くと、俺の方に顔を向ける。 そしてそのまま、俺の顔へ手を当てた。
暖かくて、だけどどこか冷たくて。 柔らかくて、優しい手。
「成瀬くん、わたしは大丈夫だよ……? わたし、頑張って乗り越えられるから。 だから、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。 西園寺さん、もう頑張らなくたって良いんだよ。 そうやって無理して、自分の心を傷つけて、それでも前に進むって言うなら、俺が絶対に止める。 別に西園寺さんのためじゃない、誰のためでもなくて、俺がそれを見ているのが嫌だから止めるんだ」
そう、言い聞かせる。 俺は他の誰でもなく、自分のためにそうするのだと。 それをすることで俺は、西園寺さんを後ろから見ていることができるんだ。
俺の何倍も綺麗な心で、俺の何倍も綺麗な想いで、純粋で真っ直ぐな彼女を見ていることができる。
「わたしは、大丈夫だよ。 本当に、大丈夫だから」
言いながら、西園寺さんは何度も繰り返す。 大丈夫だよと、何度も何度も。 俺はそれを黙って聞いていて……そして、やがて――――――――――――西園寺さんは涙を流した。
「わたし、は……成瀬くん、わたし……あの、ね」
俺の顔に当てていた手を退けて、西園寺さんは浴衣の裾を握り締めた。 必死に堪えていた思いが、そこにはしっかりと表れている。
「……嫌、だよ。 わたし、無理だよ。 お母さんが居なくなるなんて、絶対に嫌なのに……でも、頑張らないと一生このままで、それで、わたし」
ぽたぽたと涙を零して、西園寺さんは言葉を紡ぐ。 今まで抑えていた想いと、言葉。 それらは西園寺さんらしく、真っ直ぐで綺麗な想い。
「わたしは……わたしは、お母さんといつまでも一緒に居たいっ!!」
西園寺さんがそう叫んだときだった。 急に目の前が暗くなり、次に頭痛が走る。 後頭部の左側に激しい痛み。 思いっきり殴られたような、鈍器で打ち抜かれたような、激しい痛み。
「うっ……!」
「成瀬くん!?」
痛みが走る部分を押さえながらその場に蹲る。 そんな俺を支えるように、西園寺さんは俺のことを抱き止めてくれた。
……声は、靄がかかってしまったかのように遠い。 じんじんとした痛みは依然として響いていて、金槌かなにかで叩かれたように痛む。 脳が揺さぶられ、意識が遠のいて。 なにやら俺の顔を見ながら西園寺さんは叫んでいるが、その声は聞こえない。
「――――、――!!」
西園寺さんは俺から顔を逸らして、男の方を見ていた。 その横顔は……怒っている、のか?
そして目を閉じた瞬間。 西園寺さんが俺を抱きしめたような……そんな、感覚がした。
その感覚は、どこかで知っている。 とても、とても懐かしいようなこの感覚は。
「成瀬くんッ!!」
「うわっ!!」
突然に声が聞こえるようになり、視界のぼやけもなくなった。 それで分かったのだが、西園寺さんが息のかかるほど近い距離で俺の顔を覗き込んでいたのだ。
「あいたっ!」
それに驚き、俺は思わず起き上がる。 そして当然の如く、西園寺さんと衝突。 痛みわけの形。 まるでコントみたいだぞ。
「おわっ! さ、西園寺さん大丈夫!?」
「え、えへへ……。 なんとか」
おでこの辺りを抑えながら、西園寺さんは笑う。 その顔からは、さっき見た怒っている様子は微塵も感じられない。 気のせい……だったのか? まぁ、確かにあんな怒り狂った表情をする人ではないか……。
「そ、それより成瀬くんだよっ!! すごく辛そうだったけど、大丈夫なの!?」
目に涙を浮かべながら、西園寺さんは言う。 それほど心配してくれたのか。 男としては西園寺さんみたいな美人に心配されるというのは冥利に尽きる。 けど、さっきまで頭を抑えて倒れていた人の肩を掴んでぶんぶん振り回すのは止めて欲しい。
「お、落ち着いて落ち着いて。 マジで大丈夫だから」
その言葉に、偽りはない。 さっきまでの痛みは嘘だったかのように消えていて、俺の勘違いだったんじゃないかと思うほど。 あの番傘の男が何かをしたのではとも思ったが、聞いても答えは得られないだろう。
「で、でも……急に倒れるから、わたし……怖くて」
ああ、そうか。 そうだったな……西園寺さんは、同じような経験をしているんだった。 目の前で人が倒れて、必死に声をかけても起き上がらなくて。 そんな経験を西園寺さんは、三十八回もしているのだった。
「……わり、本当に俺は大丈夫だから。 心配いらない」
言いながら、俺は手を伸ばして西園寺さんの頭へと触れる。 そしてそのまま手を動かして、気付けばゆっくりと西園寺さんの頭を撫でていた。
「……うん。 ありがとう」
西園寺さんはそれを嫌がることはせず、ふにゃっと砕けた笑顔を俺に向ける。 その顔は、その表情は。 俺はもしかして。
……いや、そんなわけはない。 けどもなんだか、とても懐かしいもののように思えてしまう。
「発言。 そろそろ七月が終わります。 最終的な答えを出してください」
……結構良い雰囲気だったのに、ひと言でぶち壊しだ。 現実に戻してくれるなよ。 けどまぁ、そうだな。 決めないといけないんだ、答えを。
「質問」
番傘の男は俺と西園寺さんの返答を待つことなく、言う。 これが恐らく、最終的な答えを言うタイミングだ。
「課題その壱。 ループ世界を脱出しましょう。 あなたたちがこの世界を抜け出せることが決まったのは、いつでしょうか?」
その言葉に、俺と西園寺さんは顔を見合わせる。
「……結局、考えはまとまりきらなかったな」
「えへへ、そうだね。 けどね、成瀬くん。 わたしは成瀬くんを信じるよ。 成瀬くんの考えは、いつも正しいから」
「そんなこと、ない。 俺なんて間違えばっかりだ」
「わたしにとっては、いつも正しかったんだ。 だからわたしは信じるよ、成瀬くんの言葉と、優しさと、わたしのことを心配してくれたその気持ちを……信じるよ」
そんなたった数秒の会話で、俺はどれだけ救われたのだろうか。 どれだけこの西園寺夢花という少女に助けられたのだろうか。 でも、気持ちは軽い。 お礼は今度……今度の七月で、しっかり返していくとしよう。
「ありがとう、西園寺さん」
西園寺さんに一度お礼を言って、俺は番傘の男の方へと向き直る。 気持ちも決めた、想いも決めた。 後は、俺が怯えないで言えば良いだけだ。
俺はずっと、怖かった。 面白いと思うと同時に、それと同じくらい怖かったんだ。 一人は好きだったはずなのに、一番気楽で、一番面倒じゃない一人が好きだったんだ。 俺自身が一番良く知っている俺と向き合うことだけしていれば良い、そんな一人が楽で好きだった。
だが、いざそうなってみるとどうだろう。 極力一人で居た俺が、本当の意味で一人になったこのループ世界。 それはこの世には未知とも呼べるものが無限に広がっている可能性を俺に見せてくれた。 そして、それと同時に表しようのない恐怖を俺に植えつけたんだ。
それは、永遠に閉じ込められているからか? 違う。 俺は別に繰り返すこと自体は、確かに嫌気が差していた面もあったけど、そこまで苦ではなかった。
それは、正体不明の現象のせいか? それも違う。 俺はその現象に関しては、恐怖どころか興味を持っていたから。 どんなものか知りたいという興味を。
ならば、なぜ。
簡単な話だ。 俺は全てを知ってしまうのが怖かった。 同じ一ヶ月をずっと繰り返していれば、やがて全てを知ってしまう。 知らないものがなくなってしまう。 そんな恐怖が俺を蝕んでいたんだ。
そんなある日、出会ったのが西園寺さんだった。 彼女は俺と同じくループをしていて、そして彼女には……彼女には本当に、俺の知らない様々なことを教えてもらった。
例えば、花の名前だったり。 例えば、俺にはない広い視野だったり。 例えば、人に対する想いだったり。
そして、そんな彼女が俺のことを信じてくれると言っている。 これほど嬉しいことはない。 だったら俺も、怖がらずに言おう。
「回答だ。 俺たちのループ脱出が決まったのは」
恐れずに、男の方向に顔を向けて。
西園寺さんはそのとき、俺の右手を力強く握ってくれた。 ああ、また一つ教えられた。 友達っていうのはきっと、こういうときに助け合うものなんだな。 本当の意味での友達ってのは、そういうものなのか。
もう、大丈夫。 怖くない。
駄目だったら、また七月を迎えるだけだ。 もう俺は一人じゃない、西園寺さんが居てくれる。 彼女が居てくれるのなら、俺はもう何百回でも繰り返したっていいさ。
「俺と、西園寺さんが出会った瞬間だ」
「……疑問。 何故そう思うのですか?」
俺の言葉に、男はそう言った。 そんな風に聞かれるとも思っていたよ。
「お前がどう思っているか知らないけど、これだけは覚えとけ。 お前が思っているほど、人間なんて強くないんだよ」
男は依然として俺の方向へと顔を向けている。 そして、その表情は見えない。 狐の面から僅かに見えている口元にも変化はなく、一体何を考えているのかすら分からない。
「みんな弱くて、馬鹿なんだ。 でも、それでも懸命に生きている。 その日の朝にちょっと寝不足なら一日だるいし、雨が降ったりしたらそれだけで気分が落ち込んだりもする。 たったそれだけのことに、俺たちは影響されながら生きているんだ。 だから、お前がさせようとしている「人の死を乗り越える」ことなんて、無理だ。 無理に決まってる。 もしもそれにきっちりと区切りを付けて、きっちりと前を向いて歩ける奴が居たとしたら」
「……そいつはもう、人間じゃない」
人間誰しも、楽に生きたいものなんだ。 そんなのはもう、ルールどころか俺たちの本能に刷り込まれていることだ。 仕事の効率化だとか、農業の効率化、移動手段の効率化。 もっと身近な話に例えれば、サボりだったり先延ばしだったり。 そういう工夫に工夫を重ねて、楽をしようとしている。
だから、辛いことは自ずと避ける。 本能的に避けている。 俺が七月を乗り越えるため、西園寺さんに母親の死を受け入れろと無理を言ったように。 西園寺さんがそれを必死に拒否したように。
それにはきっと、様々な想いが絡んでいるとは思う。 でも、根本的な部分は「楽をしたい」のひと言で片付けられてしまう。 だから別に良いじゃないか。
「もしも、お前がそれで俺たちをループさせ続けるっていうなら、構わないさ。 精々俺たちは俺たちなりに楽に生きる。 全部が全部、壁を乗り越えていく必要なんてないんだよ。 たまには回り込んだり、ずっとその壁の前で座っているのも悪くはねえ。 お前が作ったルールに、俺は従わない」
「結論だ。 俺が思う、俺たちのループ脱出が決まった瞬間は……俺と西園寺さんが出会ったその日だ。 これ以外にはない」
夏の夜風は気持ち良く吹いていて、俺の中で燻っていた様々な物が流されていくような感じがした。 久し振りだ、これだけ気持ちだけで答えを決めたのは。 もう、何年もしていなかったことだ。
やっぱり、考えないっていうのは楽だなぁ。
「質問。 西園寺夢花さま。 あなたも同じ答えで宜しいでしょうか?」
「わたしは」
西園寺さんの方は見ない。 もし俺の気持ちとは違っていても、俺の答えが揺らぐことはない。 けど、どうしてだろうな。
「うん、そうだね。 わたしの答えも成瀬くんと一緒。 わたしは弱いんだ、だから助けてもらわないと、駄目だから」
そういう風に言うって、分かっていたんだ。 それはもしかしたら、西園寺さんのことを少しだけ理解できた瞬間だったのかもしれない。
「返答。 そうですか」
男はそのとき、本当に一瞬だけ笑った気がした。 しかし、俺や西園寺さんが何かを言う前に男は続ける。
「答案。 成瀬陽夢さま。 西園寺夢花さま。 あなたたちは」
「不正解です」
こうして、俺の十一回目の七月と、西園寺さんの三十八回目の七月は終わる。 夏にしては珍しく、涼しい涼しい夜のことだった。




