復讐
嵐が過ぎ去った後の体育館裏は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。遠ざかっていく妻木の絶叫も今はもう聞こえない。僕は暗闇の中にポツンと取り残された。どうせ、僕はただの椅子だ。自分の足で地縛君が取り憑いた妻木を追いかけることなんてできやしない。2人があの後どうなったのか、気になるところだが、今の僕にできるのは、夜空に散らばる星をぼーっと眺めることだけだった。
「……椅子さん! 無事でよかったっす!」
しばらくして、闇を割って駆け寄ってくる足音が聞こえた。僕を心配して戻ってきてくれたのは、ミコッチだけだった。府領はどこかで待機しているのか、あるいは呆れて先に帰ったのかもしれない。
「もう、誰もいないみたいっすね」
彼女は深く、深く、空気を吸い込んだ。肺の奥まで空気が満たされると同時に、彼女は静かにまぶたを閉じる。そのまぶたの裏では何かが蠢いている。 細い血管が浮き上がり、神経が粟立つような微かな震え。そして、彼女がゆっくりと目を開けて霊眼を発動した。
「椅子さん、教えてほしいっす。……あの幽霊は、やっぱり僕の兄だったんっすか?」
心配そうに、縋るような瞳で僕を問いかけるミコッチ。僕は言葉に詰まった。地縛君から聞いた凄惨な真実。彼が殺されたこと。犯人が鳳たちであること。そして、あの妻木が証拠を握っていること。
……すべてを話すわけにはいかない。それは、地縛君との巫女を巻き込まないという誓いを破ることになるからだ。僕は震える思念で幽霊の正体だけを告げることにした。
『……そうだよ。幽霊の正体は、やっぱり地縛君だったよ。でも、彼は自分の今の姿をミコッチに見られたくなかったんだ。だから、君の問いかけに答えることができなかったんだよ』
「やっぱり……そうだったんっすね。でも、僕にはちゃんと姿が見えないから、そんなの気にすることないのに……」
僕は嘘の報告に、ミコッチは寂しげに微笑み、視線を落とした。そして、ポツリ、ポツリと大粒の涙を地面に零し始めた。
「お兄ちゃん……悔しい気持ちはわかるっす。でも、もういいんっすよ。そんなに苦しまないで、成仏してほしいっす……」
ミコッチの祈るような言葉が、冷たい夜の空気に溶けていく。彼女は兄がいじめを苦に自ら命を絶ったと信じている。だからこそ、その魂が安らかに眠ることを願っているのだ。けれど、本当は地縛君は殺された。その真実を喉元まで出かかって、僕は飲み込む。言えない。地縛君との約束がある。けれど、嘘を付きとおす自分の座面が、ひどく冷たく感じられた。
その時だった。
「あぁ……あぁぁぁぁぁ……ッ!!」
静寂を切り裂くような、この世のものとは思えないおぞましい絶叫が響き渡った。続いて届いたのは、『グチャッ』という、熟れた果実をコンクリートに叩きつけたような鈍く重い音。
「椅子さん、今の音は何っすか!? ちょっと見てくるっす!」
ミコッチの表情が強張る。僕は夜風とは無関係な冷気が、自身の芯まで一気に貫くのを感じた。 言葉にできない決定的な不吉さが、僕の全身を支配していた。
『ミコッチ、僕も連れて行ってくれ!』
「わかったっす!」
ミコッチは急いで生身の体に戻ると、僕をひっつかんで担ぎ上げた。彼女の小さな肩にのしかかる僕の重み。けれど彼女は構わず、音がした校舎の方へと駆け出した。グラウンドに差し掛かったところで、ミコッチの足がピタリと止まった。僕を担ぐ彼女の肩が、ガタガタと激しく震え出す。校舎前。遠くの街灯に照らされたその場所には、広がる真っ赤な海の真ん中に、歪な塊が横たわっていた。
(……そんな、まさか)
僕はその姿に見覚えがあった。折れた骨の鋭利な断面が、肉と布を突き破って白く突き出している。両腕と両足は、人体の関節構造を完全に無視した、あり得ない角度にねじ曲がっていた。右腕は肩から後ろ向きに垂れ下がり、左足の膝は逆に曲がって脛の骨が太ももに突き刺さっている。それは、ついさっきまで僕が見ていた、地縛君の亡霊そのものの姿だった。
けれど、違う。あそこに横たわっているのは、幽霊ではない。血を流し、肉の匂いをさせ、つい数分前まで僕の上に座って下品な笑い声を上げていた男……妻木だ。
地縛君が突き落とされたあの屋上から、今度は彼が、地縛君と全く同じ姿で叩きつけられたのだ。




