妻木
懐中電灯の光が近づくと同時に、府領は迷うことなくミコッチの手を掴んだ。そして、僕をその場に置き去りにしたまま、闇の中へと駆け出していく。
「椅子さんを置いていけないっす!」
ミコッチの悲痛な小声が聞こえたが、府領はそれを無視した。合理的で冷徹な彼女の判断だ。椅子を持って逃げれば、確実に捕まる。今はまず、自分たちの身の安全を優先したのだろう。1人残された僕を光が捉える。
「……連絡があったから来てみたが、逃げてしまったか。どうせ幽霊でも見に来たガキだろう」
懐中電灯を持った男の声を聞いて、僕は戦慄した。知っている。僕が3年生だった時の担任であり、野球部の顧問。妻木 力、35歳。どこにでもいる平凡な顔立ちで、何事にも無気力。情熱のカケラも感じさせない、事なかれ主義を絵に描いたような教師だ。妻木は逃げた2人を追おうとはしなかった。面倒な仕事は極力避けるのが、この男の処世術だからだ。
「……なんだって、こんなところに教室の椅子があるんだ?」
妻木は首を傾げた。夜の体育館裏に椅子が一脚。不審極まりない光景だが、彼は深く考えることを放棄したらしい。
「ふぅ。こんな薄気味悪い場所、すぐに立ち去りたいところだが……一服してから戻るか」
校内は全面禁煙。だがヘビースモーカーの妻木は、周囲を警戒しながら僕の座面にどっかりと腰を下ろした。かつての教え子の背中の上に、大人の重みがのしかかる。妻木はポケットから煙草を取り出し、ライターの火を灯した。紫煙が夜の闇に溶けていく。
「……あのバカが死んだせいで、野球部も廃部同然。俺のキャリアも台無しだ」
妻木は吐き捨てるように呟いた。地縛君の死を悼む気持ちなど、微塵も感じられない。だが、彼の口角が不気味に吊り上がった。
「だが、あのバカ……最後に俺へ最高の贈り物を残してくれたぜ」
妻木はポケットから、1台のスマートフォンを取り出した。
「このスマホは打ち出の小槌だ。いろんなヤツラからジャンジャンお金が出て来るぜ。がははははは!」
下品な笑い声が静まり返った夜の闇に響く。彼は事件を隠蔽した校長、そして責任を逃れたい親たち……その全員をこのスマホに記録された殺人の証拠で恐喝しているのだ。1人の少年の命と引き換えに手に入れた、汚れた金のパイプ。それを打ち出の小槌と呼び、彼は夜な夜な悦に浸っている。
その瞬間、僕の背後から、大気を切り裂くような凄まじい憎悪の気配が噴き出した。姿は見えない。けれど確信できる。地縛君が、そこにいる。最愛の妹にすら見せたくなかった無残な姿で、自分を金づるにしている裏切り者の教師を、闇の底から睨みつけていた。
背後から伝わってくる、肌を刺すような地縛君の怒り。それはもはや殺意に近い、ドロドロとした黒い熱量だった。僕はたまらず背後に視線を向けたが、そこにはもう、あの凄惨な異形の姿はなかった。
(地縛君……!?)
僕が困惑した、その時だった。さっきまで僕の座面でふんぞり返っていた妻木が、突如としてガタガタと震えだし、自分の頭を抱え込んだ。
「ひっ……あああああッ!!」
顔面は一瞬で土気色になり、脂汗が吹き出す。妻木は狂ったように頭を振りながら、夜の静寂を切り裂くような悲鳴を上げた。
「悪かった! 俺が悪かった! 頼む、頼むから消えてくれ!!」
妻木は僕の上から転げ落ちるように立ち上がると、腰を抜かしそうになりながらも、なりふり構わず走り出した。
「来るな! 来るなッ! 地縛、こっちへ来るなぁぁぁぁぁ~~~!!」
全力疾走で逃げていく妻木の背中を、僕はただ呆然と見送ることしかできなかった。僕の目には、地縛君の姿は見えない。けれど、妻木には間違いなく見えているのだ。あのグチャグチャに砕けた顔が、脳漿を滴らせ、あり得ない角度に折れ曲がった手足で自分を追いかけてくる、地獄の光景が。これは、地縛君が妻木に直接憑りついたのだろう。地縛君の強い憎悪が妻木に食らいつき、脳内に直接その凄惨な幻影を投影しているのだろう。妻木にとって、地縛君のスマホは金を産む打ち出の小槌だったはずだ。だが今、それは自分を破滅へと誘う、呪いの発信機へと変わっていた。誰もいなくなった体育館裏。闇の中へと消えていった妻木の絶叫が、いつまでも耳の奥に残っていた。




