元・深窓の令嬢の危急
月曜日になった。
週末どうしていたかと聞かれたら、杉山花恋は「ずっと寝ていた」と答えるだろう。
そして、ずっと寝ていた割には杉山花恋がだいぶ疲れた様子であるのには理由があった。
土日の間、白石が出張で不在だったために、夢の中では、ポラン公爵邸を目指して、ヒミカと二人で、全く思い通りに動かないし人の話を聞かない偉そうなだけのコウを引き摺って行くという高難度ミッションを行っていたからだ。
しかも、土日の間一度も『強制スリープモード』に入ることなく、つまり、一度も現代日本で目覚めることなく、である。
まあ、そんなことをしたものだから、現代日本の杉山花恋の空腹が限界値を超えたせいで、ポラン公爵邸を目前にして『強制スリープモード』に入ってしまったわけだが、起きてみたら、案外遅刻ギリギリで、走って来たのも、疲れて見える一因かもしれない。
昼前になり、VIP病棟に入院した患者が検査はまだかとごねているので検査をしてほしいとごり押しされたらしく、走って出勤してこられたくらいだから、手が空いているのなら検査をしてくれと言われ、杉山花恋に急に白羽の矢が立った。
患者が検査の受付をした時、杉山花恋は、若干驚いたが、カラニーナ時代の変な癖で、全く顔には出なかった。
VIP病棟の患者の顔は、『執事長』に酷似していた。
他人の空似かもしれない、と、杉山花恋は、気を取り直して検査を始めたが、患者は、声も『執事長』にそっくりだった。
検査前に簡単に入手した情報では、以前の入院中に妄言が増えていたため、念のために検査すると書かれているだけだった。
検査のために、もう少し、詳細な情報も欲しかったので、杉山花恋はVIP患者のカルテを見ることにした。
以前の入院中に妄言が増えていたというその患者は、ちょうど3月の半ばごろから、4月の半ばごろまで入院していたという。
それは、『執事長』があの屋敷にいたと思われる時期と一致している。
妄言についても、「執事長の俺の言うことが聞けないのか」とか、「あの囮の小娘に使う費用を水増し請求したらいい」とか、「囮の小娘なぞ残飯を与えておいたらいい!」など、患者がポラン公爵邸の執事長であったなら、そして、夢の続きにいると思い込んでいたならば、あり得る発言だ。
なぜかその発言の数々に、杉山花恋はいら立ちを覚えるが。
そして、患者の名前は、四条幸常と言った。
杉山花恋はカルテの患者の名前のフリガナをガン見した。
そして、頭の中で、一部の文字を並び替えると、『しつじちょう』になった。
これは、偶然の一致だけで片付けてはならない気がする。
この患者が『執事長』なのだとしたら、また誰か、現実世界で亡くなるはずのなかった人の命が奪われてしまうかもしれない。
昼休みになり、食堂で姫宮医師を見つけた杉山花恋は、食事を載せたトレイを持ってそちらに向かった。
「姫宮先生」と、杉山花恋が話しかけると、姫宮医師は怪訝そうな顔をして杉山花恋を見た。
「あの世界の中で、人を殺したかもしれない人が入院しました」と、杉山花恋は声を潜めていった。
「例のゲームの電源を切れるようにしてください」と、杉山花恋が言うと、「それは、簡単にできることじゃない」と、姫宮医師は首を振った。
「それでも、また、誰かが殺されたら?死ぬはずのない人が亡くなってしまったら?」と、杉山花恋がまくしたてると、姫宮医師はうんざりした顔をして、その場を離れた。
姫宮医師の説得に失敗した杉山花恋は、終業後、集中治療室に潜入した。
あのゲームの世界とのつながりを断ち切たなければならないと、考えたためだった。
何とかしなければ、と、考え込んでいた杉山花恋は、何者かが杉山花恋を尾行していることに、気が付いていなかった。
そして、例の隠し部屋に入った直後、何者かに口を押さえられ、視界が暗転した。
目を覚ますと、見たことのある白い部屋に杉山花恋ことギヤはいた。
どうやら、薬を嗅がされて眠らされたらしく、こちらの世界でも頭がぼんやりしている。
「もう!また倒れたから心配したんだよ!」というヒミカの声も、なんだか遠く聞こえる気がする。
部屋の景色と、ヒミカの声で、ここは、ヒミカの部屋だったか、と、ギヤは思った。
「ポラン公爵邸が目前だったから、ポラン公爵邸の人に助けてもらって私の部屋に入れたけど、本当にびっくりしたんだよ!」と、ヒミカは続けた。
そういえば、ポラン公爵邸の目の前で、『強制スリープモード』に入ったのだったと、ギヤは思い出した。
そして、ヒミカの話を聞く限りでは、どうやら当初の目的地だったポラン公爵邸には無事にたどり着けたらしい。
何か、ポラン公爵邸に思うところがあった気もするが、思考能力が低下していて、うまく思い出せない。
「コウは、ポラン公爵邸に着いてすぐに、屈強な男たちに共用スペースの案内に連れて行かれたんだ」と、ヒミカは言っていた。
ちょうどそんな話題をしていた時だった。
ドアをノックする音が聞こえたのは。
「あれ?コウかな?」と、ヒミカは、ドアの方に歩き始めた。
ギヤですら、コウが来たのかと思っていた。
頭がぼんやりしていたギヤは、すっかり失念していたのだ。
ヒミカたちが、ポラン公爵邸の扉を通ってきたであろうことを。
そして、執事長が戻ってきているかもしれないことを。
この世界では、特にポラン公爵邸では、ノックをされただけでは、ドアを開けてはならない、と、言われていたことを。
ドアを開けてしまったヒミカは、悲鳴を上げるよりも早く、何者かに口を塞がれ、連れ去られた。
いや、何者かはわかっている。
あのスーツは、執事長だ。
杉山花恋が薬を嗅がされたのは現代日本の方であるはずなのに、こちらの世界のギヤまで、なかなか体が動かせず、起き上がるとふらついた。
それでも動かないわけにはいかなかった。
ヒミカは、執事長に連れ去られた。
ギヤはミヤを思い出した。
あの時、動けていたら、ミヤは助かったかもしれない。
悔やんだって、ミヤは戻ってこないけれども、もう、二度と、自分の前で誰かを殺されることなんてあってはならない。
動け!歩け!
ギヤは、己を鼓舞しながらよろめきながら扉へと向かい、扉から出た。
だが、既に、廊下には人影はなかった。
見失った。
どこへ行った?
また、カラニーナの部屋かもしれない。
ギヤは、扉のノブを掴むと『ポラン・カラニーナ』と念じた。
『該当する名前の登録はありません』と、機械音声が聞こえ、続けて『3回存在しない名前を念じた場合、今後すべての『真名』の使用ができなくなります。あと1回存在しない名前を念じた場合、今後すべての『真名』の使用ができなくなります』と聞こえ、扉は開かなかった。
執事長は、どこへ行った?
ギヤの頭が冴え始めた。
共用スペースまで行くのなら、この屋敷は無駄に広いから、ギヤが起き上がって廊下を出るまでの間に、ヒミカを抱えながらだったら、まだ歩いている姿が見えたはずだ。
すでに姿が見えないということは、どこかの部屋には入ったはずだ。
だが、どこの部屋に?
これ以上間違えたら、どこの部屋にも入れなくなる。
ヒミカを助けに行けなくなる。
その時、ギヤは閃いた。
ギヤが3回しか失敗できないように、執事長も、無闇やたらに他人の名前を念じられないはずだ。
どこかの部屋で、確実に間違えることなく入れる部屋、そして、ポラン・カラニーナ以外の部屋は1つしかない。
今日のVIP病棟の患者が必ず執事長であるという確証はないが、しばらくいなかったはずの執事長が今日はいて、声も、顔も酷似して、状況的にもありえるのであれば、でたらめな名前を念じて二度と助けに行けなくなるよりも、最後にその可能性に賭けてみるしかない。
再びギヤは、ドアノブを掴んだ。
そして、扉の問いかけに対し、今日検査を行ったVIP病棟の患者の名前を慎重に思い出して、『しじょうさちつね』念じた。
今度は、扉が開いた。
そこは、ポラン・カラニーナに与えられていたあの小部屋よりも狭いみすぼらしい部屋だった。
確か、善行をすると部屋が広くなるとヒミカから聞いていたギヤは、この部屋がめちゃくちゃ狭いのは、執事長が悪行しかしていないからだろうなと察した。
四条幸常の名前を念じた時に、ギヤは、検査前に四条幸常のカルテを見た時の情報を思い出した。
ポランの執事長のものと思われる発言の数々。
どうやら執事長は、カラニーナにかかる費用を水増し請求しておきながら、カラニーナに残飯しか与えなかった張本人のようだ。
執事長を見たら一発殴ろう、と、心に決めて、ギヤは部屋を見渡した。
狭い部屋に置かれた粗末なベッドの上に、ヒミカが寝かされていた。
着衣は乱れていなさそうだし、呼吸で胸が上下している。
どうやら、まだ無事だったようだ。
ほっと胸をなでおろしていると、執事長が現れた。
何故か、手に縄を持っている。
執事長は、ギヤに気づくことなく、ヒミカに覆いかぶさろうとした。
「何を、しているんですか?」
思わずギヤが声をかけると、ものすごく驚いたように執事長が振り返った。
「なんだお前?なぜここに?」
執事長はギヤににじり寄った。
「あなたがその子を連れ去ったので追いかけてきました」
根がまじめなギヤはいたって真面目に返事した。
「ちゃんと、扉は閉めたはずだ。何故、俺の『真名』を知っている?」
さすがに、それは、今日知った患者情報を悪用したのがバレるので、ギヤは口を閉ざした。
「言わぬのなら殺すぞ」
たぶん言っても言わなくても殺されるんだろうな、と、ギヤは思ったが、ふらつきながらやっと歩けただけのギヤは、執事長が手にしている縄がが己の首にかかろうとしていても、逃げることは叶わなかった。
何とか呼吸ができるよう、縄と首の間に指を差し入れようとしたが、間に合わなかった。
「可愛いお嬢さんとお楽しみの前に、まず、こいつを処分するか」と、結局言っても言わなくても殺す気の執事長は縄を持つ手に力を入れ始めた。
こいつ、ヒミカにいかがわしいことをしようとしていたのか?
最低だな。
というか、執事長を見たら、一発殴ろうと思ってたのに!
とか、考えている場合じゃない……。
まずい。
執事長が手に力を入れるごとに縄が首に食い込んできた。
苦しい。
息ができない……。
ヤバい。
死ぬかも。
あ、強制スリープモードに入れば……。
『命の危機に瀕しているため強制スリープモードに入れません』
嘘?
ヤバい……死ぬ……。
その時、視界が暗転した。




