非行少年
分厚い雲が幾重にも空から降りてきて、僕らを押し潰そうとする。
天を覆う鉛色が青空を奪い去る。
きっとこの先には神様が隠したい何かがあるのだろう。
雨粒が絶え間なく降り注ぎ、世界を塗り潰していく。
いっそすべてを洗い流してくれないだろうか。
六月に入って、初めて雨が降り、梅雨入りをした日。
僕は朝から空ばかりを眺めていた。
そしてもっと空に近づきたくなった僕は、ニ時間目の授業が終わるとすぐに屋上をめざした。
三度目のチャイムが鳴った。だからきっと、四時間目がこれから始まるのだろう。
僕は屋上へと続くドアの前で座りこんでいた。屋上に行きたいなんて、青臭い気持ちだけを頼りに階段を駆け上がったものの、現実はそう優しくはなかった。
きちんと施錠されたドアを前に行き場を失った感情を持て余して、気が付くと三時間目はまるまるサボってしまった。
そしていま、四時間目もそのままサボってしまおうとしている。
もし実家に連絡がいったりしたら面倒だと少しは思ったが、よくよく考えればそれはとてもどうでもいいことだった。
誰かが階段を上ってくる音がした。
教師だったら面倒だな。そう思っていたらもっと面倒な相手が現われた。
「よっす、非行少年」
そう言って現れたのは、後ろの席の彼女だった。
やはり現実はめんどくさい。一人になりたいだけなのに、それさえも許してもらえない。
「隣いいかい?」
そう言って、彼女は僕の返事を待たずに座った。
「なんかさ、死んじゃいたい気分なんだ。ほっといてくれない?」
「私たちはみんな死刑囚だよ。いつ訪れるかはわからない、でもいつか必ず訪れる。そんな死を待つ囚われの身なんだよ」
自分に酔ってるとしか思えないようなセリフを彼女は真顔で言った。
「めんどくさいと思うなら僕なんかに構わないでいいよ」
「たしかにさ、死んじゃいたいとか言う奴はめんどくさいなって思うよ。さっさと死んじゃえばいいのにって」
「君は僕に負けず劣らず人格破綻者だ」
彼女は楽しそうに笑い、手を組んで伸びをした。
きっと彼女は授業をサボりたくなっただけで、僕のことなんてどうでもいいのだろう。
「別にやろうと思えばできるよ。私がいるから大丈夫だよ。お願いだから死なないで、って」
感情たっぷりに言う彼女の言葉はどこまでも嘘くさかった。
「バカなの?」
「優しさって難しいよね。甘い言葉をかけて同情することが果たして真の優しさと言えるのでしょうか?」
「言えないでしょ。そんなのは偽善だよ。保身とか、見返りを考えてるだけで」
「ま、でもいいんじゃない? たとえ偽善でも、優しいんだったらそれで。優しくないよりはマシだよ」
「自分から話ふってきたくせに」
彼女はどこまでも投げやりで行き当たりばったりだった。
「だってさ、結局、社会の中で生きて行くために優しさは必要じゃん。私たちは群れで生きる草食動物と同じように、互いに身を寄せ合って生きていくしかないんだよ」
「じゃあ優しくできない僕はやっぱり死ぬしかないじゃないか」
「だから言ったでしょ。そういうことうじうじ言うくらいなら死んだほうがいいって。人は一人じゃ生きていけないんだからさ。やろうと思わなければ横に寝た箸を立たせることすらできないのだよ」
彼女が意味ありげに言ったのはなにか有名な言葉なのかもしれないが、僕にはその引用元がさっぱりわからなかった。
階段の踊り場は埃っぽい。うっすらと入ってくる日差しがあたりを舞う埃の粒を浮かび上がらせていた。
「で、なんで椎名は死にたくなったの?」
その質問には、あまり答えたくなかった。
なので、「どうして君は僕なんかに構うの?」と話をすり替えた。
「椎名が私に質問するのなんて初めてじゃない?」
質問に返答がなかったことを気にも留めたふうでもなく、彼女は嬉しそうに尋ねてきた。
「それは君に興味がないからだけど」
「じゃあ今はあるの?」
「ほんの少しだけ」
彼女はフフンと満足そうに微笑んだ。
「じゃあ答えてあげよう。私が、君に興味があるからだよ」
「だから、どうして興味があるのか聞いてるんだけど」
「うーん、それは難しい質問だね。まあ一言でいうと、私の性格が悪いからだけども」
これが人生最後の会話だと思えば多少の無駄にも寛容になれたが、いかんせん彼女の話は回りくどかった。
「一言で言わなくていいから、順を追ってわかりやすく話してもらえるかな」
彼女は仕方ないなぁとニヤニヤしてから話し始めた。
「私さ、中学のとき担任の先生のことが好きだったんだ。で、付き合ってたんだけどさ」
彼女は衝撃的な告白を何事もなかったかのようにタラタラと気だるい口調で続けた。
「でもその人には家族がいて、子どももいたわけよ。テレビドラマとかで見ると、何だか使い古された安っぽい話だなって思うけど、実際に自分の身に起きたことだと不思議なもんでね。まあ自分の最低最悪な恋に燃え上がったりもするわけなんだけど」
不潔でしょ? と彼女は試すように微笑んだ。
重い話に見合わぬ軽さだったが、彼女が嘘をついているようには思えなかった。
僕は小さく首を横に振ってから、「その先生、古文の先生だった?」と尋ねた。
彼女は「うん、あたり」、と少しだけ恥じらいのこもった笑みを浮かべて頷いた。
「で、まあ色々あって大失恋をして、私の性格は歪んだわけよ。いや、元からかもだけど。ともかく生きる希望を失くした私は、人の不幸を面白がる性格になっちゃったわけ。これはいわゆる破滅願望ってやつなのかもしれないね」
彼女はほんの少しだけ悲しげな表情をしていたが、人の不幸を面白がるくらいで破滅願望と言えるのか僕にはわからなかった。
だってそうだとしたらこの世の大概の人間は破滅願望を持っていることになってしまう。
「それが僕に話しかけたことと、何の関係があるの?」
「まあ、待ちたまえ。もうすぐ核心に触れるから。人生は暇つぶしで、何もかもがつまらない茶番だと思っている私が、ある噂を聞いたわけよ。
文化祭ライブ中に告白した有名なカップルが別れて、よほどひどい別れ方をしたのか二人とも、すごく落ち込んでる。特に男子の方は軽音部もやめてしまって、どん底らしい。ってね。
まあそんな面白そうな人がすぐ前の席に座ってたらさ、そりゃちょっかい出したくもなるじゃない?」
「なるほど。じゃあ僕は君の人生の暇つぶしってこと?」
「うん、私にとって椎名はサーカスみたいなもんだね」
いい見世物、ということだろう。そんな噂になっているとはつゆ知らなかったが、僕は何だか悪い気はしなかった。
「……ねえ、生きる希望がないのにどうして君は生き続けられるの? 僕の不幸ごときで君は生きていけるの?」
「うーん、それは確かに。生きてればいつか希望が見つかるんじゃないかって思うからかなぁ」
「よくそんな不確かなものを頼りにはできるね。僕は今日を生きる理由すら見つけられないのに」
「明日は今日よりきっといい日になる、っていう期待はあるんじゃないの? 椎名もいつかは榛原さんより可愛い女の子と付き合えるかもよ?」
彼女の勘違いは都合がよかったので、誤解は解かないことにした。
「あのころより良い日は、絶対にこないっていう確信があるんだ」
彼女の纏う空気が少し揺らいだ気がした。僕の言葉はもう彼女の理解の外にあるらしい。でも、それも当然だ。彼女は僕なんかと違って、ちゃんとした人間なのだから。
「あ、でもさ、死んじゃったらその幸せだった頃のことさえ思い出せなくなるよ?」
「それは死生観の問題だよ。死後どうなるかなんて誰にもわかるわけない」
それに僕は、死んだって姉さんのことを思い出せる自信がある。
「たしかにね。……そうかもなぁ。なんか、椎名が死ぬのも仕方ない気がしてきたな」
彼女はぽつりと言った。
彼女は思った通り、サバサバしていた。
「あ、でもさ、あんまりすぐ死ぬのはやめといたほうがいいかもよ」
「どうして?」
「今椎名が死んだら、榛原さんのせいだって思われちゃいそうじゃない?」
「あ、そっか……」
僕は大事なことをまたうっかり忘れてしまうところだった。この口うるさい彼女との出会いに、僕はようやく感謝することができた。
思ったより彼女は良い人みたいだった。
「いつくらいまで生きてればいいかな?」
「卒業くらいまでかなぁ」
彼女は少しはにかみながら言った。
四度目のチャイムが鳴った。
「あ、ごはんの時間だ」
彼女は立ち上がり、ぱっぱとスカートを叩いた。
「ねえ、最後にさ、君の名前を聞いてもいい?」
「はぁ? 知らなかったの? 失礼なやつだなぁ。いいよ、教えたげる。サクラだよ、鈴川桜」
彼女はそう言って、綺麗な名前に似合う笑顔を浮かべた。
ちょっと長すぎる気もしたが、僕はとりあえず、卒業までは生きてみることにした。
ただ、時間だけが過ぎていく。いつかは何かが、見つかるかもしれないが、正直期待はしていなかった。
彼女の言う通り、僕らはきっと、いつ来るかもわからない終わりを待つ死刑囚なのだ。この世に生まれ出てくるとは、手錠をかけられることと同義で。だから僕はその日が来るまで、粛々と刑期を全うしようと思っていた。




