有り余る幸福
僕と結の関係は理由が無くても一緒にいられる関係へと変わり、僕らが一緒に過ごす時間は格段に増えた。
お互いの部屋で食事をする機会も増え、休日は昼食からずっと一緒にいることも多い。学校では今まで通りそれぞれの友達と過ごしていたが、毎朝一緒に学校へ向かった。
お互い、生徒会や部活があるので一緒に帰れないからせめて朝は一緒にと結が言ったのだ。
結は文化祭を通じて学校の運営に興味を持ったそうで先日、生徒会に入った。ちょうど人手が足りなかったのと、結の人当たりの良さがすでに文化祭を通じて知られていたのもあってか大歓迎されたそうだ。
一方僕はというと、強いて言うなら一つ下の階に寄ってから学校に行かなくてはならなくなったくらいで、生活に大きな変化はない。
毎朝誰かと待ち合わせて一緒に学校に行くというのは最初は少し面倒な気もしたが、慣れてしまえばなんてことはなかった。他の生徒たちから好奇の目を向けられたり、噂話の種になることにも段々と慣れてきた。
僕と結が付き合っているという噂はクラスだけでなく学年中に知られていた。結の顔が広いのと、僕がライブであんなことを言ってしまったのが主な原因だろう。
だがしかし、それほど悪い噂もなかった。ロマンチックだねとか、青春だとか、お似合いだとか。色んな人に色んなことを言われたが、きっとそこに皮肉があったとしても僕に傷つく資格はない。
だって僕は今、とても幸せなのだろうから。
文化祭が終わり一週間ほどたった日の夜、二人でテレビを観ているときに僕は気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ、前に話してたことなんだけど、林間学校の話、どこまで聞いたの?」
「うーんと、佐久川君が相馬ちゃんにフラれて、佐久川君がそれを光君のせいだって思って喧嘩になったっていうのは、クラスの女子はみんな知ってるかな」
「そうなんだ」
おおかた、相馬たちがペラペラと話したのだろう。
テレビはクイズ番組が流れていて、ピコンピコンと騒がしい効果音がしていた。僕はクイズ番組、というかテレビ全般がそれほど好きではない。僕の部屋にテレビはなく、そのやかましい音を聞くのは結の部屋にいるときだけだった。
食べ終わった皿を持って立ち上がった。流しに置き、スポンジを握る。
「でも、光君が悪いわけじゃないっていうのはみんなわかってるから。あんまり気にすることないよ」
結は隣に来てそう言ってくれたが、僕にはそれがもどかしかった。
「でも、佐久川だって悪いわけじゃないのに。そんなふうに言いふらされるのは、あんまり……」
「そっか。そうだよね」
結は僕から食器を受け取り、泡と一緒に汚れを洗い流した。
「光君は優しいね」
「そんなことないよ。僕は、別に」
「私はね、優しいっていうのは主観だと思うんだ。私が光君を優しいって思ったら、光君は優しいんだよ」
僕の部屋の洗剤とは違うやつだからか、皿にこびりついた汚れはなかなか落ちてくれなかった。
今でも少し、結の部屋は居心地が悪かった。他人の家なのだからそれは当たり前のことなのかもしれないが、僕にはどうにも汚れが落ちないことが気がかりで、スポンジを持つ手に力を入れた。
結は僕のことを何度も優しいと言ってくれた。そして僕は、そのたびにやんわりと否定した。けれど、彼女は必ずもう一度、優しいと言ってくれた。
その一連のやり取りは、何かの証明だったのかもしれない。
確かめるように僕らは何度も同じような話をした。
「光君が好きだよ」「僕も結が大好きだよ」。
「光君は優しいね」「そんなことないよ」「ううん、光君は優しいよ」。
そうやって言葉を重ねるごとに、僕はやっと優しい人間になれたのだとホッとしていた。
文化祭が終わってからというもの、穏やかな毎日が続いていた。
特に悲しいことはなく、つらいこともない。したくないことは何一つないし、嫌な思いをすることもない。
朝起きて、彼女と学校に行って、授業を受けて、部活をして、家に帰る。休日は友達と遊びに行ったり、彼女とデートしたりする。
何の不満もない、何の苦痛もない毎日だった。
けれどそれは、色を失った日々だった。
誰も傷つけず、誰からも傷つけられず、幸せに包まれて生きてゆける、僕だけの居場所。
こんな毎日が、ずっと欲しかった。探し続けて、ようやくたどり着いたはずだった。
なのに、この場所は何かが違った。何かが足りていなかった。それが何かもわからないのに、気づかないフリをすることさえもできない。その違和感は日に日に大きくなっていき、いっそすべてを壊してしまいたいとさえ思ってしまう。あの真っ黒な日々に戻りたいとさえ願ってしまう。
自分ではどうすることもできない思いが、真っ黒な井戸の底から湧き出していた。
今日も結からメッセージが入っていた。
夕ご飯を食べに来ないかとのことだった。あまり気が乗らなかったが、彼女の誘いを断る理由は体調不良程度しか思いつかなかった。
「椎名君、どうかした? ごめん、ごはん美味しくなかった?」
「そんなことないよ。ごめん。おいしいよ」
嘘ではなかった。でも、皿にはまだたっぷりチンジャオロースが残っていた。
彼女の作ってくれたチンジャオロースはとても美味しかった。味が濃くて油っこいものを食べたい気分でなかったのは確かだが、彼女の料理がまずいわけではなかった。
「何かあったの? 私でよかったら聞くよ。それとも、体調悪かったりする? ごめんね、チンジャオロースは疲れてる時にはちょっと油っこいよね」
彼女は遠慮がちに、でも心配そうに言葉を重ねた。
僕は彼女のこういう謙虚なところが好きだった。
ちょっとだけ迷ったけれど、そんな結にだからこそ聞いてほしいと思った。
「どうしたらいいか……わからないんだ」
言葉がポロポロと口からこぼれた。気が付くと涙の粒も一緒になって、ポロポロとこぼれ始めた。
そこまで追い詰められていたつもりはなかったから、僕はその涙に改めて動揺した。
スッと結が後ろから、僕の首に抱き付いてきた。しっかりと腕を組まれ、抱きしめられた。背中や首に感じる体温が愛おしくして、切なくて、涙が止まらなくなった。
どのくらい時間が経ったかわからないが、涙はすっかり止まっていた。もう大丈夫だと言っても結は抱きついたまま離れてくれなかった。
「ダメ、もうちょっと」
結の腕に手をかけると、彼女は少し力を入れてそれを拒んだ。
「もう、光君ずるいよ。惚れた弱みにつけ込んで」
「ごめん」
「だから今度は私の番なの」
「結」
「なぁに?」
身体をよじって無理やり腕を解くと、そのまま結の背中に腕を回して抱きしめた。結の細く柔らかい身体が預けられて、甘い匂いがする。
ひゃっと可愛いらしい声が耳元で聞こえた。
少し身体がこわばって堅くなったのが、心底愛おしかった。
「ありがとう。元気出たよ」と耳元でささやくと、結も僕の背中に腕を回した。
「身体おっきいね。光君って、着痩せするんだね」
「これでも野球部だったからね」
「そうなの? 初めてきいた」
結は少しすねたように呟いた。
「……うん、言ってなかった」
ごめん。そう言ってから、また強く抱きしめた。
その日、僕は数年ぶりに穏やかで、幸せな眠りについた。




