初夏・夕暮れ・彼岸花
その日、僕は姉さんと一緒に家へ帰った。姉さんが誘ってきたのだ。今日は一緒に帰ろう、と。
初夏の夕暮れどき、町の時間はゆっくりと流れていて、自然と二人の足取りも重くなった。僕は外で姉さんと一緒にいるのは久しぶりでなんだか緊張していたが、前を歩く姉さんはそんな様子はまったく無かった。
このまま家に帰りつくのは嫌だと思った。姉さんの背中に向かって、ゆっくりと話しかけた。
「姉さん。僕、何もできなかった。……三笠がいじめられてるのは許せなかったし。先輩たちの最後の大会だって壊したくなかったし。姉さんを、傷つけたくなかった。でも、結局何もできなかった」
気が付くと、言葉が溢れていた。僕の顔は夕日に染められて真っ赤になった。
姉さんは首だけをこちらへ向け、少しずつ歩を緩めた。僕の隣まで来て歩調を合わせてから口を開いた。
「そんなことないよ。光はよく頑張ったよ。三笠君を守ったじゃない。何もできなかったのは、私のほうだよ」
「ううん、姉さんは正しいことをしたじゃないか。今までの努力とか、最後の試合とか全部諦めてでも正しいことをしたじゃないか。それは姉さんにしかできないことだったって、思うよ」
僕は「姉さん」と口に出すのが少し気恥ずかしかった。
「ううん、私がやったことは、誰にでもできることだよ。別に、私じゃなくても良かったんだ」
「そんなことないよ、姉さんじゃなきゃできなかった。ずっと頑張ってきた目標に、挑戦することさえできないなんて。それにさっきだって、姉さんじゃなきゃ絶対できなかったよ。キャプテンにも監督にだってできなかったじゃないか。それに、僕が三笠を助けようと思ったのは、姉さんだったら助けるだろうって思ったからなんだ。だから……」
姉さんは僕の顔を見て、そして吹き出した。どうやら笑っているらしい。僕は何がおかしいかわからなかった。
「やっぱり光は優しいね」
そう言いながら、姉さんは僕の首に手をまわし、肩を組んできた。汗の匂いがする。僕より背の高い姉さんが寄りかかってきて、僕は少しよろけた。
「いや、ほんと可愛いなぁ」
姉さんは空いた方の手で僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。
熱い何かが僕の頬に落ちてきた。少しだけ目線を上げると、姉さんが泣いていた
「ごめんね、守ってあげられなくて。あんなにボコボコにされて。痛かったよね。ごめんね」
可哀想に。姉さんは消え入りそうな声で、そうつぶやいた。
僕は俯いて、姉さんの履く真っ黒なローファーを見つめた。
ようやく病室で姉さんが泣いていた理由が分かった気がした。
「姉さん、ありがとう」
少しして、姉さんが鼻をすすってから言った。
「ねえ、昔は姉ちゃんって呼んでなかった?」
「なんか恥ずかしいし。いいじゃん、姉さんでも」
「あらあら。光が知らない間に大人になっちゃって姉ちゃんは悲しいわ」
そう言ってすっとぼける姿は記憶の隅にある母さんの姿にそっくりだった。
僕はもう、姉さんのことを姉ちゃんとは呼べなかった。
はやく大人になりたかった。姉さんに頭を撫でられないくらい大人になりたかった。
それから僕は姉さんとともに自主練をした。成長期もあって体がどんどん大きくなって部活停止が解けた直後に、僕はレギュラー入りを果たした。
僕はよくわからないが嬉しくて、走って家に帰り真っ先に姉さんにそれを伝えると、姉さんは本当に飛び跳ねて喜んでくれた。そしていつの間にか学校や部活で起こる様々な問題は、何でも姉さんに相談するようになっていた。
誰にも話せない悩みも葛藤も、抑えきれない不安も怒りも、全部姉さんが受け止めてくれた。
姉さんは少しめんどくさそうに、少し照れくさそうに、何でも聞いてくれた。正しい道を一緒に考えてくれた。間違ったことをすればそれを叱り、正しいことをすれば褒めてくれた。
僕は姉さんに甘えていた。僕は姉さんが大好きだった。
どうして忘れてしまったのだろう。忘れていられたのだろう。
もう二度と忘れない。もう二度と、人を傷つけたりしない。
姉さんとの時間が、僕をつくってくれた。
姉さんが、僕を人間にしてくれた。
彼岸花の前で、僕はやっとそのことを思い出した。