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月喰いと契りの巫女  作者: 菊池まりな


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第13話 壊れた均衡

 満月の光が、山全体を白く染めた。


 番小屋の中で、柊は朧の手を握り続けていた。朧の全身から溢れる青白い光が、壁を、床を、天井を照らしていた。普通の光ではない。月光そのものが、朧の体から漏れ出しているようだった。


「朧」


 また呼んだ。


 光が揺れた。朧が、柊を見た。その目が、いつもの銀色より強く輝いていた。


「……聞こえている」


「よかった」


 柊は握った手に力を込めた。冷たかった。でも朧の手は、柊の手を握り返していた。


「力が、大きい」


 朧の声が、少しだけ変わっていた。いつもの静かな声に、何かが混じっていた。


「抑えられますか」


「今は。でも」


「でも?」


「月が高くなれば、わからない」


 柊は朧の顔を見た。表情は変わっていない。でも目の奥に、何かが渦巻いているのが見えた。


「私の声が聞こえなくなりそうになったら、言ってください」


「言える状態かどうか、わからない」


「ならずっと呼びます。聞こえていたら、返事をしてください」


「……わかった」


 番小屋の外で、風が鳴った。


 木々が揺れる音がした。それだけではない。山全体が、何かに反応しているようだった。鳥が飛び立つ気配があった。獣が遠ざかっていく気配があった。


 満月の夜に、何かが起きようとしていた。

    


 一刻ほど、それは続いた。


 柊が名前を呼ぶたびに、朧は返事をした。光が溢れるたびに、柊の声が軸になって引き戻した。綱引きのような時間だった。


 でも月が中天に近づくにつれて、均衡が崩れ始めた。


「朧」


 返事がなかった。


「朧さん」


 光が強くなった。壁の木材が軋んで、隙間から光が漏れた。


「朧」


「……」


 朧の目が、柊を見ていなかった。月の方を向いていた。引き寄せられるように、窓の外の満月を見ていた。


 柊は朧の手を両手で包んだ。


「朧。私の声が聞こえますか」


 光が揺れた。


「……こえ、る」


「よかった。こちらを見てください」


「月が」


「月より、私を見てください」


 朧の目が、ゆっくりと柊に向いた。焦点が合うまでに、少し時間がかかった。


「柊」


「います。ここにいます」


「力が、溢れる」


「わかっています。でも私がいます」


 光が最大になった瞬間、番小屋の戸が吹き飛んだ。


 爆発的な衝撃ではなく、静かに、でも確実に。光が外に広がり、山の木々が一斉に揺れた。


 外から声がした。


「柊!」


 蒼真だった。

    


 蒼真が駆け込んできた。手に御札を構えている。退魔師として、完全に臨戦状態だった。


 一瞬で、状況を把握した。


 朧から溢れる光。柊が朧の手を握っている。番小屋の戸が吹き飛んでいる。


「柊、離れろ」


「離れません」


「今すぐ」


「蒼真さん、大丈夫です」


「大丈夫に見えるか」


 確かに、大丈夫には見えないだろう。でも柊には、わかっていた。朧の光は、外に向かっていない。暴走しているのではなく、溢れているのだ。制御を失いかけているが、まだ核はある。


「朧さん」


 朧を見た。朧は蒼真を見ていた。その目に、警戒とも敵意とも違う、複雑なものが浮かんでいた。


「退魔師が来た」


「わかっています」


「俺が、お前を危険にさらしている」


「そうじゃないです」


「客観的にそうだ」


 蒼真が御札を構えたまま、一歩近づいた。


「月喰い。お前に聞く。柊に何かするつもりがあるか」


 朧は蒼真を見た。


「ない」


「その光は何だ」


「制御できていない。意図してやっているのではない」


「意図していなくても、周囲を傷つける可能性がある」


「わかっている」


「わかっているなら」


「蒼真さん」


 柊が遮った。


「今夜は、朧さんに手を出さないでください」


「柊」


「お願いです」


 蒼真は柊を見た。その目に、様々なものが混じっていた。心配、焦り、そして今朝言った言葉の重さ。


「……今夜だけだ」


 低く言った。


「今夜は手を出さない。でも力が完全に暴走して、柊が危険になれば、その限りじゃない」


「わかりました」


 蒼真は番小屋の入口で止まった。外に出て、そこで待機するつもりらしかった。


 その背中に、朧が言った。


「蒼真」


 蒼真が振り返った。朧が名前を呼んだのは、初めてだった。


「柊を、頼む」


「……何?」


「俺が制御を失ったとき、柊を守ってくれ」


 蒼真は朧を見た。長い間、見ていた。


 やがて、短く言った。


「言われなくてもそうする」


 外に出ていった。


 番小屋の中に、静寂が戻った。


「朧さん」


「なんだ」


「今のは、どういう気持ちから言ったんですか」


 朧は少し考えた。


「俺が信用できないなら、信用できる者に任せた方がいい。あの男は、お前を守る力がある」


「朧さんも、守ってくれます」


「今夜の俺は、自分すら守れない」


 柊は朧の手を握り直した。


「それでも、あなたがいます」

    


 夜が深まるにつれて、光は強くなったり弱くなったりを繰り返した。


 柊は朧の名前を呼び続けた。返事が来るたびに、少し安心した。返事が遅れるたびに、胸が縮んだ。


 月が中天を過ぎた頃、光が一際強くなった。


 番小屋の壁が、また軋んだ。窓枠が歪んだ。


「朧」


 返事がなかった。


「朧さん」


 朧の目が、月を向いていた。焦点が失われていた。


「朧っ」


 強く呼んだ。


 光が爆発した。


 柊は吹き飛ばされた。番小屋の壁に背中をぶつけ、床に落ちた。痛みで視界が歪んだ。

「柊!」


 蒼真の声がした。番小屋に駆け込んでくる気配があった。


 柊は体を起こした。朧を見た。


 朧は立っていた。全身から溢れる光が、今や制御を失っていた。目が、柊を見ていなかった。月を見ていた。


「朧」


 立ち上がろうとして、膝が笑った。背中が痛かった。


 蒼真が柊の腕を掴んだ。


「離れろ、今すぐ」


「嫌です」


「柊」


「離れたら、誰が呼ぶんですか」


「俺が」


「蒼真さんの声では、戻ってこない」


 蒼真の手が、止まった。


 柊は立ち上がった。背中が痛かった。それでも、一歩、朧に向かって歩いた。


「朧」


 光の中に入った。


 熱くなかった。冷たくなかった。不思議と、何も感じなかった。


「朧さん、私です。柊です」


 光が揺れた。


 もう一歩、近づいた。


「返事をしてください」


 揺れた。


「朧」


 朧の目が、ゆっくりと動いた。月から、柊へ。焦点が合うまでに、今夜一番の時間がかかった。


「……柊」


「います」


「お前が、光の中にいる」


「はい」


「なぜ」


「あなたがここにいるから」


 光が、急速に収まり始めた。


 朧の膝が折れた。柊が支えた。二人で床に崩れるように座った。光が消え、番小屋の中が暗くなった。


 月明かりだけが、窓から差し込んでいた。


 蒼真は入口で止まっていた。御札を構えたまま、でも使わなかった。


「……朧さん」


「ああ」


「怪我は」


「俺は大丈夫だ。お前は」


「少し痛いですが、大丈夫です」


「嘘をつくな」


「本当です」


 朧は柊の背中に手を触れた。ぶつけた場所を、確かめるように。


「痛いだろう」


「少しだけ」


「少しではないはずだ」


 手が、背中を覆うように置かれた。温かかった。さっきまで冷たかった手が、今は温かかった。


 蒼真が、番小屋の外に出た。


 静かに、柊たちに背を向けて、夜の山を見た。


 その背中が、何かを飲み込んでいるように見えた。

    


 夜が明けた。


 朧の力は、月が沈むにつれて収まった。完全に静まったのは、夜明け近くだった。


 柊は朧の隣で、一夜を明かした。


 朝の光が差し込んだとき、蒼真が番小屋に戻ってきた。


 朧を見た。柊を見た。


「今夜のことは、報告しなければならない」


 静かに言った。


「わかっています」


「柊、お前も覚悟しておけ。月喰いの目撃情報が出れば、討伐命令が下りる。それを防ぐ方法は、今の俺にはわからない」


「蒼真さん」


「言いたくはない。でも、事実だ」


 蒼真は朧を見た。


「お前も、わかっているな」


 朧は蒼真を見返した。


「わかっている」


「ならいい」


 蒼真は踵を返した。


 山道を下りていく背中が、夜明けの光の中で遠くなっていった。


 柊は朧を見た。


 朧は窓の外を見ていた。夜明けの空が、静かに白んでいた。


「朧さん」


「ああ」


「怖いですか」


 少し間があった。


「怖い、という感覚が、少しわかった気がする」


「今夜で?」


「お前が光の中に入ってきたとき」


 柊は朧の横顔を見た。


「俺がお前を傷つけるかもしれなかった。それが、怖かった」


 夜明けの光が、朧の横顔を橙色に染めた。


 初めて、怖いという言葉を自分のものにした男の横顔が、柊には美しく見えた。


 同時に、胸の奥に冷たいものが走った。


 蒼真の言葉が、頭に残っていた。


 討伐命令が、下りる。


 その言葉が、夜明けの光の中でも消えなかった。


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