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月喰いと契りの巫女  作者: 菊池まりな


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第12話 疑惑の確信

 満月の朝は、恐ろしいほど穏やかだった。


 空が高く晴れ渡り、山の空気が澄んでいた。鳥の声が遠くから届いて、梅の最後の花びらが風に舞っていた。こんな穏やかな朝が、今夜に続いているとは思えないほどに。


 柊は昨夜、番小屋に泊まった。


 帰れと言う朧を押し切って、結局一晩中そこにいた。朧は夜半すぎに力が溢れかけたが、柊が名前を呼ぶたびに、その揺らぎが収まった。不思議なことに、確かにそうだった。


 夜明け近く、朧は縁側に出て月が沈むのを見ていた。柊は毛布を肩にかけて、隣に座った。二人で、白んでいく空を見ていた。


 言葉はなかった。それでよかった。


 朝になって、柊は一度家に戻った。朝食の支度をして、親に顔を見せて、それから山に戻るつもりだった。


 台所で握り飯を作っていると、母が入ってきた。


「柊、顔色が悪いわよ」


「眠れなかっただけです」


「最近、山に行くことが多いわね」


「修行です」


 母は柊の顔をしばらく見ていた。柊の母は、父ほど霊力は高くないが、人を見る目は鋭かった。


「何かあったら、言いなさい」


「はい」


「お父さんには言いにくいことでも、お母さんには言えることがあるでしょう」


 柊は握り飯を包みながら、母の顔を見た。


 言いたかった。全部話してしまいたかった。でも言えば、朧のことが父に知られる。退魔師として、父は動く。そうなれば、朧は討伐対象として追われる。


「大丈夫です」


 また、その言葉を使った。

    


 山に向かう途中、蒼真に呼び止められた。


 家の近くの辻で、待っていたかのように立っていた。


「柊」


「蒼真さん」


「今日も行くのか」


「はい」


 蒼真は柊の持つ竹籠を見た。それから、柊の目を見た。


「昨夜、番小屋に泊まったな」


 柊は黙った。


「朝、山から下りてくるのを見た」


「……見ていたんですか」


「心配していたから」


 責めるような声ではなかった。でもその静けさが、かえって重かった。


「蒼真さん」


「今夜、俺も行く」


「来ないでください」


「それは聞けない」


 蒼真が一歩、近づいた。


「柊、聞け。月喰いの力は今夜最大になる。昨夜でもすでに溢れかけていたはずだ。今夜はそれどころじゃない。お前一人では」


「一人じゃないです」


「朧がいるから、か」


「はい」


「それが心配だと言っているんだ」


 蒼真の声に、初めて感情が滲んだ。静かに抑えていたものが、わずかに表に出た。


「お前が傷つくかもしれない。朧に、だ。悪意からじゃなくても、力が制御できなくなれば、近くにいる者が危険だ。それはお前も知っているはずだ」


「知っています」


「知っていて、なぜ」


「知っていても、行きます」


 蒼真は額に手を当てた。


「……俺には、理解できない」


「理解しなくていいです」


「理解できないから、心配なんだ」


 柊は蒼真を見た。


 この人は、本当に自分のことを心配している。打算もなく、義務でもなく、ただ柊のことを案じている。それが伝わるから、余計に辛かった。


「蒼真さんには、迷惑をかけたくないです」


「迷惑だと思ったことは一度もない」


「でも」


「柊」


 蒼真が、柊の名前を呼んだ。


 静かな声だった。でも今まで聞いたことのない、何かを決めたような声だった。


「俺は、お前が好きだ」


 柊は動けなかった。


 蒼真は目を逸らさなかった。真っ直ぐに、柊を見ていた。


「ずっと言わないつもりだった。タイミングじゃないとわかっている。でも今言わないと、言えなくなる気がした」


「蒼真さん……」


「返事はいらない。お前に強いるつもりもない。ただ、知っていてほしかった」


 蒼真は一歩、引いた。


「今夜、俺は離れたところで待機する。お前が呼べば、すぐ来る。それだけだ」


 踵を返した背中が、今日は遠く見えた。


 柊はしばらく、辻に立ち尽くしていた。


 胸が、痛かった。蒼真の気持ちに応えられない自分が、ひどく不甲斐なく思えた。


 でも、応えられなかった。


 なぜか、という問いの答えは、もうわかっていた。

    


 番小屋に着くと、朧は中にいた。


 窓の外を見ていたが、柊が入ると視線を向けた。


「来たか」


「来ました」


 朧の顔色は、昨日より更に白かった。目の下の影が濃くなっている。それでも視線は揺るがなかった。


「体は」


「力が表面近くにある。まだ抑えられる」


「まだ、ということは」


「夜になれば、わからない」


 柊は竹籠を置き、朧の前に座った。


「昨夜、呼ぶたびに力が静まりましたね」


「ああ」


「なぜだと思いますか」


 朧はしばらく考えた。


「わからない。ただ、お前の声が聞こえると、何かが中心に戻る感じがする」


「中心に戻る」


「力が四方に広がろうとするとき、お前の声が核になる。そこに引き寄せられる」


 柊はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。


 契りのせいかもしれない。命が繋がっているから、朧の力が柊を軸として収束する。あるいは、それ以外の何かかもしれない。


「今日は一日、ここにいます」


「止めない」


「止めてもいいですよ」


「止めても来るだろう」


「そうですね」


 朧は小さく、息をついた。


 その息が、苦しそうだった。


「朧さん」


「大したことではない」


「大したことです」


「お前も、大丈夫という言葉を使うなと言ったろう」


「それは私に言ったんです」


「俺も同じだ」


 柊は笑いそうになった。朧が柊の言葉を使って、柊に返してきた。


「少し、横になっていてください」


「夜までは保つ」


「今のうちに、少しでも」


 朧は抵抗しなかった。毛布の上に横になり、天井を見た。


 柊は隣に座った。


 静かな時間が流れた。山の音と、朧の呼吸の音だけが聞こえた。


「柊」


「はい」


「蒼真と、何かあったか」


 柊は少し驚いた。


「なぜわかるんですか」


「顔に出ている」


「……ちょっと、いろいろと」


「あの男が、何か言ったのか」


「はい」


「お前を、傷つけたか」


「違います。傷つけるような人じゃないです」


 朧は天井を見たまま、少し間を置いた。


「そうか」


「朧さんは、蒼真さんのことをどう思っていますか」


「どう、とは」


「退魔師として追いかけてくる相手ですよね。怖いとか、嫌だとか」


「怖いという感覚は、まだよくわからない。嫌かどうかも」


「では」


「お前を大切に思っている人だ、とは思う」


 柊は朧の横顔を見た。


「だから?」


「だから、何もない。ただ、そうだと思う」


 素直な言葉だった。嫉妬でも、警戒でもなく、ただ事実として受け取っている。感情の名前を知らない朧には、そういう複雑な感情がまだないのかもしれない。


 あるいは。


 柊は自分の胸に手を当てた。


 あるいは、あるけれど、名前を知らないだけかもしれない。


「朧さん」


「なんだ」


「今夜、どうなっても、私は朧さんの味方です」


 朧は天井から柊に目を移した。


「どうなっても、とはどういう意味だ」


「力が暴走しても。何が起きても。私はここにいます」


「……俺がお前を傷つけるかもしれない」


「そのときは、許します」


「許すという話ではない」


「じゃあ、恨みません」


「柊」


「朧さん」


 二人の目が合った。


 朧の銀色の目が、今日は少し揺れていた。いつもの無表情の奥に、何かが動いていた。


「俺は、お前に消えてほしくない」


「知っています」


「それは本心だ」


「わかっています」


「だから、俺がお前を傷つけるくらいなら」


「やめてください」


 柊は静かに、でも強く言った。


「その先を言わないでください」


「柊」


「聞きたくないです」


 朧は口を閉じた。


 柊は朧の手を取った。冷たかった。でも確かに、そこにあった。


「一緒にいます。今夜も」


 朧は答えなかった。


 でも取られた手を、引かなかった。


 そのまま、二人は黙っていた。山の風が番小屋を揺らし、窓から差し込む光が少しずつ傾いていった。


 夜が、近づいてきていた。

    


 日が沈んだ。


 空が茜色から深い紺へと変わっていくにつれて、朧の様子が変わり始めた。


 横になっていた体を起こし、窓の外を見た。その目が、いつもより輝いていた。月光を宿す銀色が、強くなっていた。


「朧さん」


「来る」


「力が?」


「月が、昇ってくる」


 柊は窓の外を見た。山の端に、白い光が滲み始めていた。


 満月が、昇ろうとしていた。


 朧の手が、柊の手の中で、わずかに震えた。


「朧さん、私の声が聞こえますか」


「聞こえる」


「聞こえていてください。ずっと」


「ああ」


 月が、山の端から顔を出した。


 その瞬間、朧の全身から青白い光が溢れた。


 番小屋の壁が、軋んだ。


 柊は朧の手を、強く握った。


「朧」


 名前を呼んだ。


 光が、一瞬揺れた。


 まだ、ここにいる。


 満月が、静かに空へ昇っていった。


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