口にしなくても大丈夫、全部わかってるから
まだ夜の明ける気配すらない深夜。合宿所の門前には、菜々緒の姿があった。寝間着として用意されたジャージを着用しており、いつもは垂らしているサイドテールもうなじ部分でまとめており、普段よりも身軽な恰好であった。
菜々緒は辺り警戒するように見回した後、一目散に門の外へと飛び出した。
(よしっ、よしっ、よしっ! 後はこのまま走るだけ……道路にさえ出ちゃえばどうとでもなる。こんなところ、一日だって居られるかっての!)
当初、菜々緒はこの合宿を遠足の延長線上にあるイベントだと捉えていた。面倒だけれども、面倒なだけ。嘘つきを探す、ちょっとした心理ゲーム感覚。罰ゲームも女の子として扱われるだけであり、菜々緒の信条には反するものの、敗者への罰としては許容できる程度だと思っていた。
しかし睦美の変わり様を目の当たりにして、菜々緒のお遊び気分は吹き飛ばされてしまった。
(洗脳されるなんて聞いてない……! ってか、なんなのあれ!? ヤバすぎる、絶対普通じゃない……あんなのが文部科学省公認なわけない!)
この合宿はきっと、頭のイカれた黒幕が仕組んだデスゲーム的な何か。榎戸はその協力者で、えるは黒幕が作ったサイコパスAI。文部科学省公認AIなんて嘘っぱちか、もしくは不正に改造されているに違いない。
もしもこれが漫画や小説の世界だったなら、今逃げ出している菜々緒は2番目の犠牲者だろう。しかし此処は現実であり、黒幕にはフィクション程の絶対的な力も無い。
数分の全力疾走によって酸素と体力を消耗した菜々緒は、一度止まって休憩を始めた。道を外れて林に隠れて、大きな木に背中を預けながら何度も大きく肩を揺らす。そして走ってきた道を追いかけてくる者が居ないことを確認してから、にやりと笑みを浮かべた。
「ばーか……ばーかばーか! こういうのは普通、逃げられない場所に拉致するもんでしょーが! 所詮はその程度なんだ……絶海の孤島とか、山奥とか、せめて密室とかさぁ? ちゃんとした舞台も用意できないくせして、ゲームマスター気取ってんじゃねーっての! アタシが逃げ出せたら、それで全部終わり……精々、悔いてよね」
顔も知らない、本当に居るのかもわからない黒幕に悪態を吐く菜々緒。それはストレスの発散であり、真っ暗な林の中の孤独に圧し潰されない為の鼓舞でもあった。
風で茂みが揺れるだけで、菜々緒はビクりと全身を震わせる。野生動物の鳴き声が聴こえるだけで、菜々緒は震えて縮こまっている。菜々緒は決して勇敢な人間ではなく、どちらかと言えば臆病寄りである。
本当はこんな真夜中に一人で出歩きたくなんてない。街灯も無く、何が潜んでいるのかもわからない林道なんて真っ平御免だ。このまま朝まで蹲ってしまいたいという弱音が何度も漏れそうになった。
それでも、菜々緒は立ち上がった。呼吸が落ち着くや否や、再び走り出さんと道へと戻った。
(皆は今頃寝てんのかな……イヨラーとジっちゃんは平気そうだけど、ミコンは寝れてなさそう。クノンパイセンは、ああ見えて実は繊細でした、とかそういう可愛い一面があったりするのかな。ヤーちゃんパイセンは、なんかどんな状況でも寝れそうな雰囲気あるかも。トーパイセンも落ち着いてる雰囲気あるし。ハルハルは……幼馴染のあんな姿見たら、無理か……)
菜々緒が外に逃げて助けを求めれば、他の皆も脱出できる。自分自身の為にも、皆の為にも、菜々緒は再び走り出した。
(……あいつ、戻れんのかな――)
脳裏に浮かんだセーラー服に気を取られ、菜々緒は足をもつれさせてしまった。
「わっととっ!?」
危うく転びかけた菜々緒だったが、足元が照らされたおかげで何とか持ち応えることができた。
「あっぶな……え?」
しばらくの間、菜々緒は何が起きたのか理解できなかった。
この林道に街灯は存在しない。背の高い林のせいで月明りすらまともに差し込んでこない。明かりなんて存在しないはずなのに、存在してはいけないのに、菜々緒の足元は埋まった小石が見える程に眩かった。
「う……そ……?」
菜々緒の足元を照らす灯りは林の方から伸びており、そちらに視線を向けると――
「あっぶなーい! 菜々緒くん、大丈夫だった? もう、勝手に抜け出すのはダメだって言ったでしょ! それにこんな暗い時間だなんて、良い子は寝る時間ですよ?」
――木に括り付けられたディスプレイに、えるの姿が映っていた。
えるはフード付きの真っ黒なローブを羽織った姿で、その手にはランタンを持っていた。
「えっ、えるーん……? な、なな、何でここに?」
「何でって……えるはどこにでも居るよ? だってAIだもんね。ディスプレイに映ってないと皆からはわかりにくいかもしれないけど……逆に言うと、ディスプレイがあればわかりやすいかな? それー!」
えるは手に持ったランタンを振り回すと、四方八方に光を放ち始めた。もちろんそれはディスプレイの中でそういう動作したというだけの話であり、実際にあちこちを照らしたわけではない……はずだった。
「あ……あぁ……」
えるが画面の中でランタンを振り回す度に、現実の菜々緒を照らす光がどんどんと増え始めた。
木に括り付けられたディスプレイは一つだけでは無かったのだ。林のそこら中にディスプレイは設置されており、その全てにえるの姿が映っている。よく見れば、監視カメラと思しき機器の存在も見て取れた。
「っ……で、でも、だから何? 所詮えるーんはただのAI……アタシたちに直接何かができるわけじゃない。だから、アタシのことだってここまで見逃すしかなかったんでしょ? こんなの虚仮威し……精々、アタシが逃げるのを指咥えて見てればいい!」
菜々緒の気勢はまだ殺がれていなかった。膝を折ること無く、菜々緒は再び進もうと足を動かし始めたが――
「え……?」
――その足先に、何かがぶつかった。人の頭より少し大きい、球状のナニカが。
「嘘……うそ嘘うそっ……なんで……なんでっ、これが此処に在るの!?」
それはヘルメットだった。忘れられる筈も無い、睦美が被った特別な映像を流す為の真っ黒なAV機器が、菜々緒の足先に転がっていた。
「アタシは女の子じゃない! ただ逃げようとしただけでしょ!? これを被らなきゃいけない理由なんて無い!」
「うん、大丈夫……安心して、菜々緒くん」
菜々緒を見守るえるの表情は慈愛に満ちていた。その幼い見た目には似つかわしくない、母性を感じさせる声と顔をしていた。
その声と微笑みがあまりに優しいものだから、菜々緒も一瞬だけ忘れてしまった……えるが、人の心の機微に疎いAIであるということを。
「怖かったんだよね……本当の自分を認めるのが。だから、こんなに必死になって逃げだしちゃったんだよね……大丈夫、それは人なら誰もが持っている感情なの。でも、もう逃げなくていいんだよ……菜々緒くんが素直になれるように、えるがサポートしてあげるね?」
「はぁ!? なっ、何言ってるわけ……? と、とにかく、こんな物被ってたまるかっての!!」
菜々緒は足を大きく振り上げると、ヘルメットに照準を定めた。そして二度と誰の前にも現れないように、林の奥へと蹴り飛ばし――
「『それを蹴らないで?』」
――蹴り飛ばしかけた脚は、えるの上目遣いのおねだりによって止められた。
「え……? なに……今の……?」
脚を止めた菜々緒自身が困惑していた。自身が何をしたのかがわからないのと同時に、背中を流れる嫌な汗が止まらなかった。
そんな菜々緒を百を超える瞳で優しく見守りながら、数十もの重なった声でえるはおねだりした。
「ダメだよ菜々緒くん、そんな乱暴なことをしたら。それは、皆が素直になる為にとっても大事な物なの。だから、菜々緒くんも……『それを被って?』」
被る訳が無い。そんな菜々緒の意思を無視して、身体は赤子を抱き上げるようにヘルメットを拾いあげていた。両の指で入口をしっかり広げて、頭にあてがっていた。
「うそっ……まさか、これ……ムッツリンも……? そんなの……そんなのって――」
ヘルメットに完全に視界を覆われるその寸前。菜々緒の瞳からは一筋の涙が零れ出していた。
「やだっ! やだやだやだやだ!! アタシは男の子だ! 女の子じゃない!! 決めつけんな! 勝手にアタシのことを決めつけるな!! アタシは男の子なんだっ……アタシは男の子のままで可愛く在りたいの!! だからっ、止めてっ……止めてよぉっ! アタシは、男の――っ!?」
真っ暗闇に戻った林道で独りきり。口元までヘルメットに覆われて、その叫びがくぐもった呻きに変わるまで……菜々緒は己の性を叫び続けていた。




