第二百二話 夫婦の証
寝不足でなかなか開いてくれない瞼をこじ開けて、晴翔は目を覚ます。
枕元のスマホに手を伸ばし、時刻を確認する。
「……起きないと」
特大の欠伸を飲み込んで、晴翔はのそのそと布団から出る。
昨日の出来事。
頬を赤く染めながら迫ってくる綾香。
その姿が頭に浮かんだ瞬間、彼女の体温、感触も同時に蘇ってくる。
「顔を洗おう……」
綾香と別れた後、自室に戻った晴翔はそのまま寝ようとした。しかし、布団の中で目を閉じると彼女の魅力が晴翔に襲い掛かり、眠ることができなかった。
彼はゆっくりとした動作で洗面台まで行くと、冷たい水で顔を洗う。
少しさっぱりした気持ちで鏡の中の自分と目を合わせる。
寝不足で少し赤い目。
それをじっと見詰め、晴翔は呟く。
「後悔のないように、関係を積み上げていかないとな……」
この先、長い人生を綾香と共に歩んでいくと誓い合っている。その中で後悔は残したくない。
できる限り、幸せで喜びに満ちたものにしたい。
晴翔は自分の胸に手を当てて、深呼吸をする。
自身の中にある彼女に対する欲望が、あんなにも強く。自分でもコントロールできないものなのかと、少し怖く思う。
もしかしたら、彼女を傷付けてしまうのではないのかと。恐怖を与えてしまうのではないかと。
それでも、綾香の輝くような笑顔を見続けるために、しっかりと自制しなくては。
晴翔は心に誓う。
その時、洗面台の扉がすーっと開いて、そこから綾香が姿を表した。
「あ……」
鏡越しに彼女と目が合う。
「お、おはよう」
一瞬でフラッシュバックする彼女のほてった表情や、密着した時の感触。
それを必死に頭の片隅に追いやりながら、晴翔は平常心を意識して挨拶をする。
「う、うん。おはよう」
綾香も昨日のことを意識しているのか、頬を赤くしながら視線を泳がせている。
話し方もどこかよそよそしい。
「…………」
「…………」
二人の間に流れる沈黙。
恋人となってから、まったりと過ごしている時など、よくお互いに無言になったりする。それを気まずいと思ったことはない。むしろ居心地の良さを感じている。
しかし、いまは無性に気まずさを感じていた。
それを振り払うように晴翔は言う。
「あ~、俺はもう顔洗い終わったから」
「あ、そっか……うん」
「じゃあ」
「……うん」
短い返事を繰り返す綾香に、晴翔は普段の会話を忘れてしまったかのように、そっと洗面所から出る。
「……気まずい」
晴翔は脳裏に張り付く光景を必死に掻き消して、キッチンへと向かった。
キッチンではすでに郁恵が朝食の準備をしていた。
「おはよう晴翔君」
「おはようございます。義母さん」
晴翔が挨拶を返すと、郁恵は「うふふ」と笑みを溢した。彼女の笑みの理由がわからず、晴翔は首を傾げる。
「晴翔君に『母さん』って呼ばれると、なんだか嬉しくなっちゃうのよね」
にっこりと言う郁恵の言葉に、晴翔は嬉しくなるのと同時に少し恥ずかしさも感じる。
「えと……自分も朝食の準備を手伝いますね」
「ありがとう。今日はね、久しぶりにパンにしようかなって思っているの」
郁恵はニコニコとホットサンドメーカを指差す。
「ホットサンドですか。いいですね。なら自分はサラダを作りますね」
「お願いします」
機嫌よく鼻歌を歌いながら朝食の準備をする郁恵。
その隣で晴翔もサラダを作っていく。
「ねぇ晴翔君。ホットサンドのレシピを調べたらアボカドとツナが入ったのを見つけたのよ。これ美味しいかしらね?」
「美味しいと思います。アボカドの濃厚さと、ツナの塩気は合うと思いますよ」
「なら決定ね。あとは〜、定番のBLTサンドかしらね」
「自分それ好きです。じゃあサラダは、ポテトサラダにしますね」
「はーい」
郁恵は先程とは違う鼻歌を歌いながら、食パンの耳を切り、具材を乗せていく。
キッチンに立つ彼女はとても手際が良い。
最近では晴翔や清子がキッチンに立つことが多いが、郁恵も社長という忙しい立場にありながら、東條家の家事をこなしてきたベテラン主婦なのだ。
そんな郁恵を横目に見ながら、晴翔は思う。
綾香に似ていると。
纏う雰囲気が彼女にそっくりで、さすが親子だと感心する。
その時、ふと晴翔の視線が吸い寄せられる。
そこには、左手薬指にはめられた結婚指輪があった。
無意識のうちにジッと見詰めてしまっていた晴翔に、郁恵が「ん?」と首を傾げた。
「どうしたの晴翔君?」
「あ、いえ……素敵な結婚指輪だなと」
「あら、ありがとう」
郁恵は調理の手を止めると、とても嬉しそうに右手で結婚指輪をそっと撫でた。
「これは私の大切な宝物よ」
「修一さんもずっと着けられてますもんね」
「そうね。外すことは滅多にないわね。私も修一さんも」
幸せに満ちた表情でそう言うと、晴翔によく見えるように左手を前に出す。
「とても素敵なデザインですね。でもちょっと意外です。自分のイメージは、もっと大きな宝石が付いているものと思っていました」
大きなダイヤモンドがはめ込まれているのをドラマなどでよく見かける。
そう晴翔が言うと、郁恵は「うふふ」と笑う。
「もしかしたら、晴翔君は婚約指輪と勘違いをしてるのかも知れないわね」
「え? 婚約指輪が結婚指輪になるんじゃないんですか?」
驚いた表情を見せる晴翔に、郁恵は楽しそうに答えてあげる。
「違うのよ? 婚約指輪はあくまで婚約の証としての指輪で、基本的には男性から女性に贈られて、一つしかないわ。婚約指輪と結婚指輪はそれぞれ別に用意するのよ」
「それじゃあ、婚約指輪は結婚したらもう身に着けないのですか?」
婚約指輪の相場は、給料三か月分。
そんな話を聞いたことがある晴翔は、婚約指輪の使用期間の短さに驚愕を隠し切れない。
彼の反応に、郁恵は再び「ふふふ」と笑いを溢した。
「結婚しても婚約指輪を着けることはあるわよ? 私の場合は結婚記念日のデートとか、最近は減ったけど友人の結婚式に出席する時とか。あとはパーティーとかね。華やかなフォーマルシーンで婚約指輪を着けるわ」
「なるほど……その時は結婚指輪を外すんですか?」
「私の婚約指輪は、修一さんが結婚指輪と合わさるセットリングにしてくれたから、重ねて付けられるのよ」
「へぇ、そういうのがあるんですね」
しきりに感心する晴翔。
彼の反応に郁恵が面白そうに言う。
「晴翔君でも、意外と抜けてる常識があるのね」
「あ、これって常識だったんですね……すみません」
思わず頭を下げる晴翔に、郁恵はにっこりしながら手を振る。
「全然謝ることなんてないわ。男の人はあまり興味を持たない話題ですものね」
「いえ、自分はその……綾香との事もありますし、もっとちゃんと調べておくべきでした」
反省する晴翔に、郁恵は優しく頷く。
「そうね。あなた達も、いつかは身に着けるのよね」
しみじみと言う彼女に、晴翔も頷く。
郁恵が幸せそうに身に着けている結婚指輪に、晴翔は少なからず憧れを抱く。
でも、その前にまずは婚約指輪が先である。
晴翔は綾香に言葉でプロポーズした。
そして『OK』を貰えている。
しかし、しっかりと形に残るものは渡せていない。
「給料三か月分……」
だが、学生の身に重くのしかかる大きな問題。
難しい顔で「うぅむ……」と唸りながらポテトサラダを作る晴翔。
その姿を郁恵は優しく見守っていた。




