(5)
花崎旅館の門前に車を停めさせた紅葉は、狸姿の四葉を抱えて車を降りる。いまだ止まぬ雨に傘を差して門を通ろうとしたが、ふと足を止めた。
門柱に、一人の男が寄りかかっている。旅館の浴衣を着崩した、ぼさぼさの赤茶色の髪の男は紅葉がよく知る人物だった。
「ご無沙汰しております、月之丞殿」
「おう」
丁寧に頭を下げた紅葉に、月之丞はぞんざいに頷いた。
月之丞は懐から何かを取り出す。それは小さな赤い葉だ。
「お前さんよぉ、式神使うのは構わんが、ウチに入れねぇのは知ってんだろうが。可哀そうに、門から入ろうとしてこの通りだぜ」
半分に千切れかけた葉を、月之丞はひらひらと指先で摘まんでみせる。
「もちろん、お師匠様の結界が張ってあるのは知っていますよ。今日はあなたがここにいますから、すぐに気づいてくださると思って」
にこりと微笑む紅葉に、月之丞はうへぇと嫌そうに顔を歪めた。
「おかげで土砂降りん中、四葉の自転車回収する羽目になったじゃねぇか。このクソ弟子が」
「おや、滅多なことは言わないで下さい。今はあなたの弟子じゃありませんよ」
「お前だって、さっき『お師匠様』っつったじゃねぇか」
月之丞は呆れたように返した。
二人の間に流れる空気は、気が置けない間柄のように軽い。それぞれ騙した者、騙された者であるはずなのに、遺恨など無いように会話を交わす。
月之丞は、紅葉が抱えるものを見やった。
「……相変わらず苦手なんだな、雷が」
「ええ」
頷きながら、紅葉が腕の中の狸を見下ろす。
その優しい、慈しみのこもった眼差しは、かつての『モミジ姉様』のものと相違ない。いや、今はそれ以外の感情も含まれているか。
「……手を出すなよ。まだ“約束”は果たしていないだろうが」
「ええ。わかっていますよ」
「本当かよ……」
小さく笑む紅葉と、呆れ顔の月之丞の会話を、未だ眠ったままの四葉は知る由もなかった。
***
頭を撫でる優しい感触は、懐かしかった。
「……ねえさま……」
無意識に呟いた私の頭の上で、指が止まる。ピクリと震えたそれは――
ゴッ。
握り拳となって、私の頭を一撃した。
「っ……!」
思わず跳ね起きた私の目に映ったのは、呆れ顔の師匠だ。
「寝ぼけてんじゃねぇよ」
拳を解いて腕を組む師匠は、相変わらず浴衣を着崩してだらしない格好をしている。縁側で胡坐を掻いて、座布団の上にいる私を見下ろしていた。
辺りを見回すと、散らかった二間の座敷が視界の端に映る。見慣れた光景は、師匠の引きこもる離れに違いない。
だが、やけに天井が遠い。それに、何だか師匠がとても大きく見える。
困惑して起き上がるためについた私の手は、もふっと座布団に埋まった。違和感を覚えて見下ろした先の小さな獣の足に、私は自分が狸姿であることに気づく。
いったいいつ変化が解けたのだろう。まだ混乱しながらも、身体に力を巡らせて瞬時に人間の姿へと変化した。
「っ……お師匠様!」
「何だ?」
「あの、私どうしてここに……」
問いかけを口にする間に、徐々に記憶が戻ってくる。
雨の城下町。三弦兄さんらしき人影。
黒塗りの車。七本の白い尾。
轟く雷鳴。車の中にいた綺麗なあの人の、優しい手――
「……」
思い出して言葉を詰まらせ、固まる私の様子で察したのだろう。師匠は淡々と答える。
「あいつが変化の解けたお前をここまで連れ帰ってきたんで、俺が引き取った」
「ああ……」
紅葉の前で狸姿に戻ってしまった自分が不甲斐ない。
しかも、記憶の最後では、自分は年甲斐もなく泣いていた。泣き疲れて変化を解き、なおかつ眠ってしまったのか。どっと恥ずかしさが押し寄せてきて、居た堪れなくなる。
「まあ、さすがにその姿を雪之丞達には見せられねぇからな。何があったと勘繰られるのも嫌だろ。母屋の方には、お前が俺の世話をしていると伝えてある」
「……ありがとうございます」
たしかに、狸姿の自分を紅葉が連れ帰ってきたとなったら、両親や兄弟たちはさぞ驚くに違いない。あるいは、私に何をしたのだと紅葉に詰め寄っていたかもしれない。師匠が対応してくれて助かった。
ほっと息を吐く私の頭を、もう一度師匠が叩く。
「おら、わかったならとっとと俺の世話をしろ」
相変わらずの物言いに苦笑する私の鼻を掠めたのは、懐かしい匂いだった。移り香か、残り香か――
「……」
「どうした」
「いえ……」
私は首を横に振り、師匠のぼさぼさの髪を見る。雨による湿気のせいか、いつもよりもぴんぴんと跳ねていた。
「……御髪は整えますか?」
「おう、頼むわ」
私は櫛と椿油、組紐を取ってきて、師匠の髪を梳く。
そうして、白い真珠色の組紐で彼の髪を一つにまとめた後、茶を淹れるために台所へと向かったのだった。