第四章 狸と狐と、雨と雷と(1)
六月は、雨の月。
観光地である城下町の一角。
土産物店の軒先で雨宿りをしながら、ざあざあとよく降るものだと曇天を見上げて思う。黒い雲を背景にして、白い素麺のような雨が止む気配無く降り続けていた。
雨だけならば、まとった黄色い雨合羽が身を守り、自転車に乗って我が家である花崎旅館まで帰ることに厭いは無い。
だがしかし。
「……っ」
曇天の合間に光が走り、周囲を明るく照らすのを見た私は身構える。
光を見たら、秒を数えて待ちなさい。それほど怖くなくなるよ――。そう助言をくれた一郎兄さんの言葉を信じて、拳を握りながら「いーち、にー」と数えたところで。
「ひっ……!!」
響く轟音と振動に、フードの中に隠している丸い獣耳がぴっと跳ねる。合羽にかろうじて隠れたしっぽは、驚きでぼふっと膨らんでなかなか元に戻らない。耳と尻尾をしまおうにも、雷鳴のせいで変化に集中することができず、獣耳と獣尾を出した人間もどきの姿を保つので精いっぱいである。
ごろごろごろ……と余韻を残す空を不安げに見上げながら、私はぎゅっと身を縮こまらせた。
六月は、雷の月。
苦手な雷を前にして、家に帰ることができずに私は途方に暮れた。
***
私は雷が苦手だ。
そもそも私の知る狸達は、雷を得意としない。父様も母様も、一郎兄さんも二海兄さんも、雷の鳴る日は家で大人しくしているものだ。旅館の裏手の山に住む狸達も、雨や雷がひどいときは、巣穴や草木の陰でじっと身を寄せ合っている。
例外は、私の叔父である師匠くらいだ。
彼は雷鳴に動じることなく、山中の庵からわざわざ外に出て山々を眺めては、見事な稲光に「おお」と感心していた。わくわくと目を光らせる様は少年のようでもあった。
そうやって鑑賞する師匠とは真逆に、私は庵の片隅に積まれた布団の山に潜り込み、雷鳴をやり過ごしていたものだ。
花崎家の中でも、私と、その双子の弟である五樹君は、特に雷が苦手である。
幼い頃、まだ雷の恐ろしさを知らなかった好奇心旺盛な五樹君と私は、わざわざ雨の日に山に遊びに行った。
ばしゃばしゃと泥を跳ね上げて転げまわったり、濁流となった沢を覗き込んではその迫力に感心したりと、思う存分雨の山を堪能していた。
そうして山の頂上へと向かった私と五樹君であったが、そこで周囲がまるで昼間のように輝いたかと思ったら――
目の前の一本の高い木に、雷が落ちたのである。
びりびりと身体ごと震わせる轟音は、もはや音として認識できなかった。
私と五樹君は気づけば数メートル離れたところで地面に倒れていた。落雷の衝撃で吹き飛ばされたのだと、後で知った。
先に意識を取り戻した私が五樹君を必死に揺り起こしている間にも、不吉な轟音が空を鳴らし、光が急かすように点滅する。
五樹君はなかなか目を覚まさないし、ごろごろと雷鳴は鳴り続けるし、少し離れた場所には焦げて真っ二つに裂けた木があるし――
私は半泣きでがたがたと震え、短くも長い夕刻の雷雨を独り耐えることになった。
***
あのときほど、恐怖と不安に襲われたことはない。
以来、雷を前にすると、身が竦んでその場から動けなくなってしまう。
もっとも、雷が鳴る度に卒倒して狸姿に戻っていた幼い頃に比べれば、何とか人間の姿を保てている今はかなりマシになったほうだ。
とはいえ、雨合羽の下では耳も尻尾も出た状態で、いつ何時、他の人間に見られてしまうかわからない。……まあ、見られた場合は「こすぷれ」と言えば誤魔化せると、五樹君から教わった。
見られるに越したことはないので、フードを目深に被りながら雷が遠ざかるのを待っていれば、ふと、雨煙の向こうに人影が見えた。
金茶色の髪と、迷彩柄のTシャツに紺色のジーンズ。
「……三弦兄さん?」
家出中である、花崎家の三男……三弦兄さんらしき人影に、私は目を凝らした。
今日は、ひと月に一度、三弦兄さんと会う予定の日だった。
雨が降り雷が危ぶまれる中でも、私が自転車で城下町にやってきた理由はそれである。
雷雨だから、三弦兄さんも遠慮して来ないかもしれない。三弦兄さんは、私が雷が大の苦手であることを知っているから――。
そう思って、朝、一度は城下町に来るのを止めようとした。家族も止めたのだが、何だか行かなければという気持ちに急かされて、結局は来たのだ。
きっと、先月にあった折に、三弦兄さんが何かを言い淀んでいたことが気になったからだ。
聞けずじまいで終わったことを、今日なら話してくれるかもしれない。そして、もしかしたら戻ってきてくれるかもしれない。
そう思って城下町にやってきて、いつもの待ち合わせ場所である『喫茶 豆蔵』に行ったが、兄の姿はなかった。
二時間ほど待ってみたが、結局三弦兄さんは現れなかった。抹茶白玉パフェとほうじ茶のシフォンケーキ、それからお汁粉を食べて粘ったものの、お腹いっぱいで苦しくなり、帰宅することにした。そうして、今、強い雷雨で足止めされていたところだったのだ。
私は三弦兄さんらしき人影に向かって、傍らにあった自転車を押して駆け寄ろうとした。
だが、その人影の傍らに、スーツっぽい服を着た人が何人かいるのを見て足を止めた。彼らは親し気に会話を交わしている。どうやら連れのようだ。
……三弦兄さんは、私に会いに来るときはたいてい一人だ。
人違いだろうかと思い、私は軒先から少し出たところで立ち止まる。
フードを雨粒がぱたぱたと打つ。頭の上から飛び出た丸い耳に振動が伝わってくる。
くん、と鼻を揺らして兄の匂いをたどろうとしたが、雨が遮ってわからない。彼らの会話もまた、雨音に掻き消されてしまう。
大きな声を掛ければ気づいてくれるだろうか。でも、全然違った人だったら――
私が躊躇っている間に、三弦兄さんらしき人影は、スーツの連れと一緒に路地の向こうへと行ってしまった。
「……」
私は小さく溜息をついた。
三弦兄さんじゃなかったことにがっかりしたのか。
それとも、あれが本物の三弦兄さんで私に気づいてくれなかったことに悲しくなったのか。
よくわからないが、先ほどよりも心細さが増していた。
とぼとぼと軒先に戻れば、土産物屋のおばあさんが「お嬢ちゃん、大丈夫?外は寒いよ、中に入りなさい」と親切に声を掛けてくれる。
「ありがとうございます。大丈夫です、もうそろそろ雨も弱くなると思うので」
ぺこりと頭を下げて、人前で脱ぐわけにはいかぬ雨合羽のフードをしっかりと押さえた。