(2)
しかし五分待っても雨は一向に止む気配もなく、雷は少し離れたようだがまだ音は響いていた。その間、軒を借りている店内では、おばあさんが何度かこちらへ視線を向けてきている。
「……よし」
このままここで立ち往生するわけにもいくまい。私は覚悟を決めて、そろそろと自転車を押して軒先から出た。
大丈夫だ。よほどのことが無い限り、雷に打たれることはないはずだ。雷は高いものに落ちると聞いた。私のように小さきものには、雷様も目を向けるまい。
……いっそ狸姿で帰った方が安全だろうかとも考えたが、そうすると自転車を置いていかなくてはならなくなる。やはり人間の姿で、自転車に乗って早く帰った方がいいだろう。それに、もしかしたら一郎兄さんか二海兄さんが心配して、軽トラで迎えに来てくれているかもしれない。
考えながら、城下町の外れまできて、自転車に跨ろうとした時であった。
私の隣にすうっと音もなく、黒い塊が寄ってくる。雨をぱらぱらと弾いて白い粒を落とすのは、暗雲が垂れ込める中でも艶やかさを失わない、黒い大きな車だ。
見覚えのある車は少し進んで停まり、私の真横で後部座席の扉が自動で開く。
「四葉、乗りなさい」
涼やかな声に、私は目を見開いた。
車の中には、広い座席で悠々と足を組んで、こちらを見やるスーツ姿の男がいる。
少し長めの黒髪に、繊細さと色気を伴う、白く整った細面の顔。日本画の巨匠が描いたような流麗な切れ長の目が、私を見つめてくる。
彼は、我が旅館の上客である七重紅葉。何時でも何処でも、相も変わらず美しい男だ。
呆けて彼を見返す私に、淡く色づく薄い唇が再び開く。
「早く乗りなさい。旅館まで送るから」
「……いいえ、けっこうです」
紅葉の少し強めの口調に、私は我に返り、首を小さく横に振った。
「自転車がありますから、一人で帰れます」
「無理をしない方がいいよ。雷が怖いのだろう?それに、そのまま一人で帰ったら雷光様に攫われるかもしれないよ。雷光様の好物は、若い雌狸らしいから」
「嘘です。そんな話、聞いたことありません」
「お前が知らないだけさ。私の地元では有名な話だよ」
「う……」
明らかに嘘だとはわかるのだが、紅葉がしごく真面目な表情で言うものだから、少し不安になる。
狼狽えた隙を狙うように、私の右手首に何かがしゅるりと巻き付いた。はっと気づいて払おうとした時にはすでに遅く、両の手首と腰、それから両膝を拘束するように細長いものが巻き付いている。
ふさふさとした白い毛並みの、大きな五本の尾だった。
「わっ…!」
紅葉から伸びたそれは、私の身体を容易く車内へと引きずり込んだ。持ち主を失い、道路へと倒れかかった私の自転車を残りの二本の尾が支えた。
びしょ濡れの雨合羽のまま車内に連れ込まれた私は、絡みついた尾を外そうと試みる。
「ちょっ……な、七重様!車の中が濡れます、離してください!」
「大人しくしなさい。自転車はこちらで送るから」
そう言って私を尾で拘束したまま、紅葉はスーツの胸元から革製の名刺入れを取り出し、中の一枚を引き抜いた。白い紙がたちまちに赤いもみじの葉となり、紅葉がふうっと息を吹きかける。
意思を持つようにひらりと車の外へ飛んだ葉は、スーツ姿の男の姿へと変化した。ご丁寧に透明のレインコートを着た彼は、白い尾の代わりに自転車をその手で支えた。
「よろしくね」と紅葉が声を掛ければ、男は無表情のまま自転車に跨って、扱ぎ出して行ってしまう。
移動手段を奪われて呆然とする私の目の前で、車の扉がバタンと無情に閉まった。
「……」
雷様ではなく、紅葉に攫われたような気持ちになったのは仕方あるまい。
紅葉の隣に座らされて、ようやく尾から解放された。もはや逃げることを諦めた私は、とりあえず高級そうな車のシートを濡らさぬよう、雨合羽を急いで脱いで畳んだ。
シートのクリーニング代を、なんて言われたら堪らない。……まあ、相当なお金持ちである紅葉が、そんなみみっちいことを言うとは思えないが、個人的にあまり借りを作りたくない。
内心で溜息をつく隣では、白い七本の大きな尾がゆらゆらと揺れている。たまに頬や頭を撫でてくるそれに、私は今さらながら、彼が化け狐――七本の尾を持つ妖狐であることを実感した。
七重紅葉。
日本の妖狐の一族で、三番目に強い『七尾』の地位を持つ若き妖狐。
さらに妖狐一族の中でも『古弧族』と呼ばれる、京都や奈良といった古都に古くから縄張りをもつ、伝統と血筋を重んじる一族の一つの血を引く若様――らしい。
私が紅葉から、彼の話を直接は聞いたことはない。
訊ねたことが無いからだ。
周りから聞きかじった話ばかりで、全てが本当かどうかはわからない。
ただ、一つだけ確実にわかっているのは、彼が私の元・姉弟子であり、師匠や花崎一族を含む化け狸達を騙した張本人であること。それだけであった。




