(6)
四葉ちゃん、と五樹君の声がはるか上方から聞こえた。
思わぬ再会に、私はかなり動揺していたようだ。化け術が解けて狸姿になり、地面に落ちていた籠にお尻がころりと嵌まり込む形になっていた。
それを見た男はいつかのように目を瞠った後、小さく吹き出して、踵を返しこちらに向かってくる。
五樹君が庇うように相手の前に立ち塞がってくれたが、私はその場にいることができなかった。籠からもがき出た私は、辺りの枇杷を蹴散らし転びかけながら、一目散に逃げる。
叔父上、叔父上、――お師匠様、お師匠様。
頭の中にはそれだけが浮かんでいた。
縺れる四つ足で駆け込んだ先は、師匠が住まう西の離れだ。縁側にだらしなく寝っ転がった彼の懐に、走る勢いのまま飛び込む。
「あぁ?おい、どうした」
少なからず驚いた師匠に尻尾を掴まれて引き出されて、きぃきぃと私は鳴いた。
「あー、泣くな泣くな。狸語が聞きづれぇだろうが」
何があった、と師匠は身を起こし、私の首根っこを掴んで顔を覗き込んでくる。ちなみに狸同士であれば、狸語でも何となく意思疎通できるものだ。
師匠に説明しようとしたが、私自身も混乱しているのでなかなか言葉にならなかった。
要領を得ない私に怪訝そうな師匠であったが、そこに柔らかな声が掛かる。低く通る男の声だが、少し鼻にかかった甘い響きは昔と変わらない。
「ご無沙汰いたしております、月之丞殿」
「……お前か」
庭に現れたスーツの男を見やり、師匠は合点がいったように目を眇めた。膝の上に降ろされた私は、すぐに師匠の袂の下へと潜り込んだ。
隠れる私をよそに、男は師匠に一礼する。
「お変わりないようで、安心いたしました」
「お前さんは随分な変わりようだなぁ、モミジ……じゃなかったな」
「ええ。今は七重紅葉の名でやらせて頂いております。以後どうぞお見知りおきを」
男――紅葉は、二か月前に何も言わずに去ったことも、五年間師匠と私を騙し続けていたことにも触れずに挨拶をした。
その白々しくも堂々とした態度に、師匠は激怒するわけでもなく、大きく息を吐いただけだ。
「……相変わらず面倒な奴だな」
「恐れ入ります。そういえば、こちらに四葉は来ておりませんか?」
「尻尾見えてんだろうが。いちいち聞くなよ」
師匠の着物の袂からはみ出した、私の丸くむっくりした尻尾。頭隠して尻尾隠さずの状態に、くすくすと紅葉が笑う気配が伝わってくる。
恥ずかしくなって、ぎゅっと丸くなって隠れようとすれば、再び師匠に尻尾を掴まれて引きずり出された。じたばたと手足を動かして暴れる私をいなしながら、師匠が紅葉に問いかける。
「こいつに何の用だ?」
「少し頼みごとがあるのですよ。……実は私、花崎旅館の離れ座敷が気に入りましてね。以前泊まらせて頂いたときに、それはもう居心地がよくて」
叔父の庵で修業中、偶に私が帰省する際に『モミジ姉様も一緒に』と何度か旅館に泊まったことがあった。
「それで、今後も是非通わせて頂きたいのです。折角ですから、東の離れを貸し切りにして、四葉を担当にしてもらおうと交渉している最中でして」
紅葉の突飛な提案に、私はぴっと耳を跳ねさせた。何を考えているのだろう、この御人は、と困惑する。
頭がぐるぐるとするのは、混乱の極みに達しているせいか、師匠に尻尾を掴まれて逆さまになって頭に血が上っているせいか。
全てがぼんやりとして、まるで狐に化かされているように思えたのだった。
***
「――四葉、どうしたんだい?」
東の離れで、スーツから着物に着替える紅葉を手伝っていた私は、呼びかけられて我に返った。「何でもありません」と素っ気無く答えながら、帯幅を半分に折った角帯を渡す。
紅葉は慣れた動作で、綿紬の練り色の長着に、正絹の藍色の博多帯を片ばさみで手早く絞めた。
紅葉は人間に変化するとき、きちんと衣服を身に着けることが多いようだ。
わざわざ着なくとも、浴衣姿に変化すればいいだけなのに。もしくは、本来の狐の姿になればいいのに。寛ぐのなら、衣服など邪魔なだけではないだろうか。
面倒なことをする御人だ、と頭の隅で思っていれば、いつの間にか白い指が伸びてきて眼前に迫っていた。
「情緒のわからぬ子だね。そんなことでは、立派な人間になれないよ」
「ひゃっ」
きゅっと鼻をつままれて、私は肩を跳ね上げた。慌てて顔を振って、白い手から逃れて数歩下がる。自由になった鼻を撫でながら、目を伏せて答えた。
「わからなくていいのです。私は狸ですから」
「……それもそうだね」
紅葉はくすりと笑って、長着の裾をさばきながら縁側に向かう。縁側に置かれたソファに座ると、隣の座面をぽんぽんと叩いた。
いつもの合図に内心で息を付き、私は紅葉から少し離れた位置、ソファの端に腰かける。すると、紅葉はごろりと横になった。私の膝(正確には太腿である)を枕にした彼は、少し身じろぎして落ち着く位置に収まった。
綺麗な顔を近い位置で見下ろすことになった私だが、動揺はしない。すでに慣れたことである。
紅葉は旅館に来た際、こうやって膝枕をせがむことがある。
最初は拒否したが、「じゃあ狸枕でもいいよ」と私を狸姿にして枕にしようとしたので、膝枕を選ばざるを得なかった。狸姿では膝どころか全身潰されてしまう。
そのような経緯もあるので大人しく膝を提供しているが、紅葉もそれ以上私に要求してくることは無い。ただ眠るだけだ。
揶揄われているのか、ただ枕が欲しいだけなのか。
一体何を考えているのか、三年経っても分からない。
紅葉はしばらく黙って私を見上げていたが、「三十分後に起こしてくれるかい」とだけ告げて、切れ長の目を閉じた。
間もなくして、すう、と静かに胸が上下し始める。狸寝入り、もとい狐寝入りかはわからぬが、私は彼の顔から視線を外して庭を眺めやった。
紅葉と再会したその日、一郎兄さんは彼の『花崎旅館の東の離れを貸切る』という申し出を受け入れると決めた。
一郎兄さんと紅葉でどういう話し合いがされたかは知らぬが、一番の目的はやはりお金である。
紅葉は離れを年間で貸切るために、通常よりも高い金額を提示した。シーズン中の離れでの宿泊料金を年間の日数で掛けた額より三割増しの額である。さらに、実際に泊まるのは月にせいぜい二、三回。一回の宿泊でも長くて三泊という条件だ。
正直、旅館の経営が危うかった状況でこの良過ぎる申し出は、飛びつきたくなるものである。
しかし、相手はこの花崎旅館の経営を傾ける原因を作った本人だ。しかも化け狐で、化け狸の我々とは永遠の敵に値する。
相応の葛藤はあったであろうが、背に腹は代えられぬと一郎兄さんは考えた。
もちろん、家族の中でも反発はあった。狐を受け入れるくらいなら出て行く、とまで言う兄もいた。しかし一郎兄さんの決意は固かった。
真剣な表情の一郎兄さんは、私に問いかける。
『四葉、お前は彼の世話係ができるかい?』
そうして、私は――
風に乗って飛んできた一枚の葉を、私はついと掴まえた。それを変化の術で薄い羽織へと変える。
もうすぐ五月とはいえ、朝夕の空気はまだ冷たい。羽織を両手で広げて、眠る紅葉の身体の上へそっと掛けた。起こった微風が、紅葉の前髪の一筋を乱す。
整えようと伸ばした手を、しかし彼へと触れることはせずに止める。
紅葉の世話係になることを、私は断らなかった。
一言でも嫌だと言えば、一郎兄さんは私の意志を優先してくれただろう。しかし私はひどく動揺しながらも、断ることは思いつかなかった。
旅館や家族のためということもあったかもしれないが、心の奥底にあったのは別のことだ。
かつて姉弟子として憧憬を抱き、親愛を持って慕ったひと。
自分と師匠を騙し続けて、黙って去って行った酷いひと。
なのに、抱いたのは悲しみと寂しさだけで、恨むことは無かった。
私はどうしても、この狐を嫌いになれなかったのだ。
だから、山の庵で暮らしていた時のように共に過ごせることが、密かに嬉しかった。
同時に、嬉しさを覚える自分が愚かで情けなくて、そして家族にも師匠にも申し訳なく思った。
「……」
行き場をなくした手を、ぎゅっと強く握る。
触れてはいけない。気付かぬ方がよい。
自分でもよくわからぬ、誰にも打ち明けることのできぬ感情は、固く小さく閉じて、奥底に仕舞っておいた方がいいのだろう。
握った拳の行先に迷った私は、結局腕が疲れて肘掛に降ろすまで、宙に浮かす羽目になったのだった。