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狸以外……つまり人間の客を増やすための、一郎兄さんの案の一つである旅館の修繕とリフォームが終わったのは、立夏を過ぎた五月末のことだった。
元々古い建物なので、古民家風にリフォームと言っても、間取りや内装は依然とさほど変わらない。外壁の塗装や瓦の葺き替え等は家族総出で行ったが、さすがに水回りは業者に頼むなどして、だいぶん出費が重なっていた。
以前から旅館の厨房で料理をしていた二海兄さんは、数キロメートル離れた観光地の中心である城下町の和食屋に、短期間の弟子入りをして料理を学んでいる。母様は同じく城下町のお土産物屋でパートをして、生計を立てていた。二人とも、偶に残った料理やお土産物を持って帰ってきてくれるので、食料は困っていない。
旅館で父様と一郎兄さんが顔を突き合わせて、今後の計画と予算案を立てている間、私と五樹君は山に入り、野生の枇杷の木から橙色に熟した実を採っていた。私と五樹君に今のところできるのは、裏庭の畑の手入れや山での山菜摘みである。
今日のおやつである枇杷をつまみ食いをしながら、小さな籠に皆の分を入れていく。いっぱいになったところで、少し休憩だ。
木の下に並んで座って、枇杷の種をぷっと飛ばした五樹君がこちらを向く。
「ねえ、四葉ちゃん」
「何ですか?」
「あのさ、何でその喋り方なの?修業中に帰省してたときもだったけど、戻ってきてからもずっと敬語使ってるし」
「……叔父上の庵でずっと敬語を使っていたら、慣れてしまって」
「僕にも敬語なんて、なんかよそよそしいよー」
もー、と五樹君が膨れつつ、次の枇杷の皮を剥いて口に放り込む。
私も小ぶりな実を手にして、産毛の生えた皮を剥き齧りついた。甘みは薄いが水気のある果肉に喉は潤う。
私が「そのうち元に戻りますよ」とだけ返すと、双子の弟は「そういう所がよそよそしいって言ってるの」とますます膨れてしまう。
「もしかして、まだ気にしてる?あの親戚連中に言われたことなんか、気にしちゃダメだよ。僕らだって全然気づかなかったんだからさ。すっごい美人のお姉さんだし、匂いは良いし、みーんな鼻の下伸ばしてたくらいだもん」
「五樹君……」
「叔父さんが気づかなかったんだし、お姉ちゃんが気にすることないよ。悪いのは騙したあの狐。でもって、ぎゃんぎゃん五月蠅い親戚も他所の狸もほっとく!今は一兄の作戦でガッチリ稼いで、皆で楽しく暮らさなきゃね」
五樹君は笑って片目を瞑ってみせて、果汁でべたつく手を作務衣の裾で拭おうとする。私は手拭いを差し出した。
「そんなことすると、後で毛皮がベタベタになっちゃいますよ」
「その時は温泉浸かればいいよ。露天風呂も新しくなったことだしさ」
受け取った手拭いを頭の上に乗せてお道化る五樹君に、私もつられて笑いを零した。
***
短い休憩を終えて、枇杷の籠を手にして旅館に戻る途中、五樹君が「あれ」と声を上げる。
「休館中なのに……お客さんかな」
藪の隙間から見下ろした先、旅館の玄関近くに黒塗りの大きな車が停まっていた。我が家の愛車である軽トラとは、格が違うのが見て取れる。あのピカピカの表面に手を付けば足跡が綺麗に残るだろう。
それはさておき、花崎旅館はリフォームが終わったばかりで、再開するのは来月の半ばからのはずだ。二人で顔を見合わせて、早い足取りで山を下りる。
こっそり玄関に近づけば、一郎兄さんが誰かと話している様子が見えた。
「一体全体、どういう了見でしょうか?」
一郎兄さんの口調は柔らかいが、声には剣呑な気配がある。遠めに見ても、優し気な風貌の顔には笑みがない。愛想の良い、猫かぶりの上手な兄が珍しいこともあるものだ。
不思議に思った矢先、ふわりと懐かしい香りが漂ってきた。
花のように甘くて、尻尾の先まで震えそうになる香り。
だけど、前とは少しだけ違う、香り。
まさか、と私は信じられない心持で、一郎兄さんと話している人間の後ろ姿を見つめた。
濃い灰色のスーツを着た、細身の男が一人。一郎兄さんと同じくらいの背の高さで、手足がすらりと長い。男性にしては長めの黒髪は艶があり、覗く首筋や手は白く細い。
男は、何かに気づいたかのように、私がいる方を振り向いた。この時、どうやら私は籠を地面に落としていたようだ。
ころころと、足に淡い橙色の果実が転がって当たっていたことにも気づかずに、振り向く男の顔をただ見つめていた。
白い細面の顔に、切れ長の目と、淡く色づく薄い唇。
私があの晩に見た、黒い籠に乗っていた「若様」と呼ばれていた男と同じ顔。
男は私を見て、ゆっくりと目を細めた。
「やあ、四葉。久しぶりだね」
「……モミジ姉様……」
モミジ――いや、かつての姉弟子とよく似た顔の男は、以前と変わらぬ優しい笑みを浮かべていた。




