ここはどこ
――おしとやかなクリューネか。
物憂げに月を見上げるクリューネを想像するだけで、つい口元が弛んできてしまう。
子どもじみているとは自分でもわかっているが、異世界に召喚されてから今日までの長い間、苦楽を共にしてきた仲だけに、ただの仲間という以上の存在となっている。
何を喜んで何を嫌がるかだいたいわかっていたし、時には叱り時には励まさなければ生き残れない日々を過ごしただけに、互いに遠慮がなくなっている。
リュウヤが神妙な面持ちをしながら内心ニヤニヤしている最中に、アイーシャが一冊の本を手に戻ってきた。
リュウヤは咳払いして、急いで父親に戻った。
「お父さん、今度はこれ読んで」
「また“ナイト”シリーズか。アイーシャはホントに好きだな」「わたしだけじゃないよ。リリシアのお姉ちゃんもだし、ええと、レツ君にレイナちゃんにミーフちゃんでしょ。ええと、ええと……。みんな好きだよ」
「そういや、リリシアも好きだと言ってたな」
リュウヤはリリシア・カーランドが影響を受けた本として、“ナイトシリーズ”を挙げていたのを思い出していた。対象年齢が五歳くらいだから、その頃からリリシアが読んでいたのを考えると、よほど昔から広く親しまれてきた本なのだろう。
この本も古いが、他のナイトシリーズの表紙も随分古く、ところどころ染みや破損を補修した痕もあった。
リュウヤが本を開くと、窓から射し込む陽光に反射して、キラリと紅く光るものがリュウヤの視界に映った。それは本から転がり落ちて、床で小さな音を立てた。
「あ、イヤリング」
アイーシャが拾い上げてリュウヤに見せた。子どもの小指の爪ほどくらいの紅い宝石が装飾された飾りもので、形状からいってアイーシャの言う通り、イヤリングだろうと思われた。
「誰かの忘れ物かな。この宝石、魔石だよな」
凝った装飾が施されて、いかにも高級品に見える。
「もしかしたら、しおり代わりに使ったのかもしれないな」
「そんな高そうなイヤリングをですか?」
ティアが言った。
「近くにしおりがないから、手短のものを使うてのもあるだろう」
「そんな大切なものをしおりに使うなんてあるんですか」
あるんだよねとリュウヤは苦笑いした。
「こうした大切なものだから忘れるわけがないと思っていてもね。つい忘れてしまうのは俺にも経験があるんだ」
「リュウヤさんがですか?」
「まあね」
リュウヤは肩をすくめて小さく笑った。
リュウヤは中学の時分、五千円札を本挟んだきり、すっかり忘れて図書館に本を返してしまったことがある。
数日してから慌てて探したが時すでに遅く、五千円札は抜き取られ、帰り道に男泣きに泣いて帰ったという実にくだらない失敗談でかないのだが、変に大人らしい余裕を見せて語って見せるリュウヤに、ティアはすっかり誤魔化されていた。
クリューネが聞いていたら、「相変わらず説教臭い脳筋じゃな」と一笑に伏されていたろうが、純粋なティアは人生の先輩が身をもって示す教訓を聞いている気分になって、真面目な顔をして聞いていた。
「ねえ、お父さん。似合う?」
見るとティアと話をしている間に、いつの間にかアイーシャがイヤリングをつけてしまっている。
「こら。よそ様の忘れ物なんだから、外しなさい」
「え〜、“イザベラ女王”みたいなのに」
「“イザベラ”?」
忘れたのとぷっと頬を膨らませると、アイーシャは絵本を開いて女の子が描かれたページをリュウヤに見せた。紅いドレスに片方だけイヤリングをしている。
「ナイト様によく出てくる女王様だよ。可愛いけどわがままで、ナイト様をいつも困らせるの。さっきの本でも、ナイト様が買ってきたケーキを、“今はプリンが食べたい気分だわ”て窓から捨てちゃったじゃない」
「……ひどい女王様だな」
ティアの呟きにアイーシャがムッとした。
「そんなことないよ。イザベラには可愛いとこあるんだよ。ご褒美にそのプリンを一口、ナイト様にあげようとして、自分が食べちゃうんだから」
「全然、可愛いくないじゃん」
「そんなことないもん!」
「こら、静かになさい」
ティアに反発するアイーシャの語気が荒くなりだし、リュウヤが急いでたしなめた。案の定、白い目がリュウヤたちに注がれている。
「イザベラなんて真似しなくてもいいから。そんな……」
――クリューネみたいな奴。
と言い掛けたが、ティアが傍にいることに気がついて、慌てて言葉を喉の奥まで飲み込んだ。
「うん、そりゃまあ、あれだ。とにかく、いいから外しなさい。」
「もうちょっとだけ良いじゃん」
「ダメ。自分の持ち物を勝手に使われていたら、アイーシャだって嫌な気分になるだろ」
「……うん」
「持ち主の人も困っていると思うんだ。だから返してあげないと」
「……うん」
口を尖らせているものの、アイーシャは理解したらしく、うつむいたままでいる。リュウヤがイヤリングに手を伸ばした時だった。イヤリングの紅い宝石が小さな瞬きをした。
「なんだ……?」
その正体を探る余裕もなかった。
小さな光は強烈な白い光を発したかと思うと、瞬く間に広がってリュウヤたちを呑み込んでいった。
「きゃあああっっ!!」
「うわあっ!」
「アイーシャ!ティア君!」
目も眩むような光の激流に、リュウヤは二人を見失い一気に押し流されていった。
「くそ、鎧衣……!」
リュウヤの声に反応して、胸元の楕円形の黒いペンダントが蒼白い光を発した。しかし、"鎧衣"から放たれる膨大な量の魔法エネルギーは、光の中へと吸収されていってしまう。
「"鎧衣"が無効化された?」
さらにすさまじい圧力がリュウヤにのしかかってきたが抵抗もできなかった。激流の中、猛風に似た轟音がリュウヤの鼓膜を激しく揺るがし、果てしなく続くかと思われた矢先、急に轟音が止んで辺りは静寂に包まれた。
「……さん。リュウヤさん」
どれくらいの時間が経ったのか。身体に揺さぶられる感覚があり、目を開けるとティアが心配そうに覗きこんでいる。
「お怪我はないですか」
「大丈夫だ。……アイーシャはどうした」
「わかりません。気がついたら傍にいなかった」
「どこだ、ここは……」
リュウヤは身体を起こし周囲を見渡した。辺りは真っ白な濃霧に包まれ、一メートル先に何があるのかすらわからなかった。
「とにかくアイーシャを探しにいかないと……」
“待て、そこの者!”
突然鳴り響く大音声とともに、リュウヤたち取り囲んでいた濃霧が一気に散った。霧は半球状の壁をつくり、草原を一人の少女がリュウヤたちに向かって歩いてくる。
少女は紅いドレスを着ており、左の耳には先ほどのイヤリングがあった。ふてぶてしい表情でリュウヤたちを睨みつけている。
「お前……」
向かってくる者を見て、リュウヤとティアは言葉を失っていた。
「……アイーシャ」
ようやく一言発したリュウヤに、紅いドレス姿の少女――アイーシャ――がフンと鼻を鳴らした。ふてぶてしく横柄で、声や顔立ちはアイーシャだったが別人のようだった。
「何をぼさっとしている。プリンを買ってきたのか。“イザベラ”は早くプリンが食べたいぞ」
※ ※ ※
リュウヤはアイーシャが何を言い出したのかわからず、目をぱちくりさせていた。当然、隣のティアも同じように呆然としている。
「どうした。何をぼさっとしている」
「いや買いに行けて、ここがどこかわからんし」
「いったいどうしたの?アイーシャちゃん」
「誰がアイーシャちゃんか。女王イザベラたる私に無礼な!」
“イザベラ”と名乗るアイーシャがかっと吠えた。
「皆の者、こやつらを引っ捕らえなさい!」
しかし周りには誰もおらず、まったく反応がない。アイーシャの声が響くだけである。
「ええい、誰か来なさい!」
アイーシャが小さな手のひらで叩くと、霧の壁にふっと複数の人影が浮かび上がり、駈けてくる足音が重なって聞こえた。人影といってもずいぶんと小さいとリュウヤが思って見ていると、霧の壁を割って現れたのは人ではなかった。
カエルに猿に犬や猫といった小動物ばかりで、人と錯覚したのは、いずれも二本足で掛けてくるからだった。手にはそれぞれ、小さな槍を把持している。
「イチ、ニ、イチ、ニ。えっほえっほ」
小動物たちは二列縦隊をつくり、掛け声を発しながらアイーシャの十歩前まで駈けてくると、先頭の白ウサギが槍を掲げた。
「全体、止まれえ!」
しかし、白ウサギの号令空しく、他の小動物は白ウサギを追い越していってしまう。その後はアイーシャの横を過ぎて、えっほえっほと掛け声出しながらぐるぐると草むらを走っている。
「こらあ、隊長である僕の命令を聞けよ!」
白ウサギは顔を真っ赤にして跳ねていたが、誰も聞く耳を持たない。そのうちに隊列は崩れはじめ、みんな好き勝手なペースで走っている。ふざけて後ろ向きに走ったり、逆走する者もいる。側転したり、とりあえず上下にジャンプしている者もいた。
「ああ、シンドイ」
やがてメスの白猫がくたびれた様子で座り込むと、他の小動物たちもメスの白猫にならって一斉に槍を放り出してしまい、その場に座り込んでしまった。ただひとり、カエルだけが嬉しそうに走っている。
目が爛々(らんらん)としていて実に異様だ。
「何ですか、あれ」
「アイーシャ……いや、イザベラの兵隊だな。絵本だとイザベラの家来たちは、ああいう動物だった」
「だとすると、ここは本の世界……ですか」
「かもしれない。だけど油断するな」
リュウヤは鐺をゆるめて周囲をうかがった。殺気というものは感じられないが、魔王軍あるいは第三者の悪意ある者の罠も考えられた。“星降りの指輪”という魔法道具をめぐって起きたムルドゥバ襲撃事件が片付いてから、まだそれほど月日は経っていないのだ。
「あなたたち、何を休んでいるのです。ここに集まりなさい」
アイーシャが命令すると、家来たちはいかにも嫌そうにのそのそと立ち上がった。カエルはまだ走っている。
「あなたたちもよ。早く来なさい」
「俺たちも?」
引っ捕らえる話がどこにいったのかわからなかったが、いちいち蒸し返す必要もないと思い、リュウヤたちは黙ってアイーシャに従うことにした。
「白ウサギ隊長。点呼よ」
「はい!おいこら、番号!」
白ウサギが隣にいたネズミに威張って言うと、ネズミがいきなり白ウサギをぽかりと殴りつけた。
「い、痛いな!何すんだよ。僕は隊長だぞ!」
「隊長だからって威張るんじゃないや」
「なんだとお、一兵卒のくせに!」
「へん、やるかあ!」
白ウサギとネズミは互いににらみあうと、ぽかぽかと喧嘩を始めてしまった。喧嘩といっても腕を振り回すだけの子どもの喧嘩なのだが、他の動物たちは周りを円になって囲み、「やれやれ!」と無責任な声援を送っている。
「やめなさい!」
アイーシャが女王らしい威厳のある声でピシャリと言うと、さすがに家来たちもシュンとしょげてしまった。
「喧嘩はダメ。みんなで相撲して一番を決めましょう。優勝したらご褒美あげるわ」
アイーシャの提案に、家来たちはわっと喚声をあげた。タヌキとキツネがどこからか縄跳びを持ってきて土俵をつくるとイザベラが真ん中に立ってコホンと咳払いした。行司役をするつもりらしい。
「ひがあしぃ、タヌキの山〜。にぃしぃ、ヒトの関〜」
「……」
「ほら、あなたよ」
「俺?」
ぼんやり眺めていたリュウヤが名指しされ 仕方なくリュウヤは土俵に立った。
一応、目の前にいるのは“イザベラ女王”とはいえアイーシャである。自分の幼い娘に命令されて、リュウヤは複雑な気分になっていた。
今朝方、洗濯物を粗相したリュウヤに叱りつけてきたセリナにそっくりで、十年後の自分が何となく想像できた気がした。




