アイーシャ、お姉ちゃんぶる
152話の前、番外編「ティアとクリューネ」の翌日です
朝の澄んだ光が城塞都市ムルドゥバを覆い、町の人々はこれから迎える日常のために、それぞれ支度を始めていた。
これから町へ出かけるティアマス・リンドブルムもその一人で、食堂で一人、昨日見聞きして整理したノートや筆記用具を肩掛け鞄にしまい込んでいた。
「ティア君、お出掛け?」
明るく呼ぶ声がするので顔を上げると、小さな女の子が食堂の出入り口に立っている。アイーシャ・ラングという子で五歳になる。この寺院宿舎で“聖霊の神殿”から避難してきた友達と一緒に暮らしている。最近、ようやく親子で暮らせるようになったばかりだ。ティアとはティアマス・リンドブルムの通称である。
「うん。これから町を見物してから図書館に行くつもり」
「一人で?クリューネのお姉ちゃんは?」
ティアはムルドゥバに来て日が浅い。案内役にティアの主――竜族のティアたちが、勝手に推しているだけだが――であるクリューネ・バルハムントが町を案内することとなっていたのだが、この場にいないのをアイーシャは不思議に思ったのだ。
「昨日のお酒がまだ残ってる。やっぱり起きられないって」
「ダメだなあ、お姉ちゃん」
「ハハハ……」
クリューネは雑貨屋でアルバイトをしている。
アルバイトと言っても店主と雑談するだけが仕事のようなものだが、ティアをムルドゥバへ案内に専念するということでここ数日は仕事を休んでいた。
昨日も町見物に出かけていたのだがその帰り道に、ティアを連れて居酒屋にふらり寄ったのがいけなかった。とある劇団の魔法でつくった人形が暴走するというちょっとした事件に巻き込まれたこともあって興奮が残っていたのか、たがが外れてティアに介抱されなければ帰れないくらいに、へべれけになるまで飲んでしまっていた。
朝食にも顔を見せず、先ほどティアが様子を見に行ったところ、ベッドから起き上がれないまま、みっともなく呻くばかりだったのだ。
いくら竜族の主とはいっても、アイーシャのいう通りだからティアとしても笑うしかない。
「じゃあ、わたしが図書館まで案内してあげる」
「アイーシャちゃんが?」
「うん。だってお姉ちゃんになるんだもん」
えへんとアイーシャは胸を張って、威張ってみせた。母親のセリナ・ラングが身籠っているという話は、ティアも周りから何となく耳にしていた。お腹も膨らみはまだ目立っておらず、今も元気に洗濯をしているはずだった。
「ね、良いでしょ」
「まあ、構わないけど……」
ムルドゥバに来て日が浅いと言っても、図書館などの主な公共施設の位置や道のりは概ね把握しているし、出来れば自分の足で確認し、一人で静かに調べものをしたかったのだが、アイーシャの無邪気な申し出は断れない力を持っていた。
「おや、お出掛けかい?」
そんな時、ひょいと顔を出したのがアイーシャの父親リュウヤ・ラングだった。
童顔にも関わらずがっしりとした体つきなのに、さほど違和感がないのはリュウヤが比較的長身で、均整が取れているからかもしれない。
いつもの黒い革製の上下ではなく、“日本”という異世界の国で購入したらしいジーンズに七分袖の黒い服を着ている。左手には“弥勒”と呼んでいる片刃の剣を提げていた。それを見て、アイーシャはあれえと声をあげた。
「お父さんは、お母さんの手伝いしに行ったんじゃなかったの」
「さっき洗濯物落として汚しちゃってさ。セリナにエライ怒られて追い出されちゃった。仕方ないから弥勒の手入れ」
「ダメじゃない、お父さん。お母さん大変なんだよ」
「アイーシャも厳しいなあ」
手を腰にあてて叱るアイーシャに、リュウヤは体を小さくして頭を掻いていた。
「ティアくん、これから町見物してから図書館に行くんだって」
「ふうん。……クリューネはどうしたんだ?」
「酔って寝込んだままだって」
「駄目だなあ、アイツも」
「お父さんもお姉ちゃんも、ダメだねえ」
「そうだなあ」
アハハとリュウヤとアイーシャは呑気に笑い声を上げた。笑った目元がそっくりだなとティアは思った。
「ねえ、行ってもいいでしょ」
「図書館かあ……」
リュウヤは首を少し傾げて、考える素振りをみせたていたが、やがてよしと言って、腰のベルトに弥勒を差した。
「なら、俺も一緒に行くよ」
「いいんですか?」
リュウヤがアイーシャの相手をしてくれるなら、調べものに集中できる。ティアとしては喜んで受けるのだが、「ええ」と不服そうな声をあげたのはアイーシャだった。
「わたしがティア君を案内するんだよ。お父さんジャマ」
「お前までつれないこと言うなよお、アイーシャ」
リュウヤはおどけてアイーシャを抱き上げると、脇をこちょこちょとくすぐりだした。それがお気に入りなのか、アイーシャは身を捩ってキャッキャひとしきり笑うと、リュウヤにギュッとしがみついてくるのだった。
「仕方ないなあ。じゃあ、お父さんも来ていいよ」
「じゃあ、お母さんにティア君と出掛けることを伝えてきてくれないかな」
「はあい」
リュウヤはアイーシャを降ろすと、アイーシャはトコトコと洗濯場のある奥へと駆け出していった。
「……良いんですか。」
「こちらこそお願いしたいよ。これまで一緒になれる機会て少なかったからね」
「……」
「父親らしいことなんてしてないのに、ああやって、“お父さん”なんて笑ってくれる。本当に嬉しいよ」
「良い子ですもんね。アイーシャちゃん」
アイーシャが生まれる前に妻のセリナと離ればなれになり、その後、セリナとアイーシャは魔王ゼノキアにさらわれている。そこから一年以上も魔王軍監視下で暮らし、ようやく一緒に暮らせるようになったのはここ数ヶ月くらいだという。
バルハムントが滅びてから、ティアの親族だけでも行方が知れない者は数多くいる。バラバラにされた家族がやっと一緒に過ごせるという喜ぶ気持ちは、種族が異なっても充分に理解できた。
「お母さん、お出掛けしていいって!」
奥からアイーシャがはしゃぎながら駈けてくると、そのままリュウヤの腰にギュッとしがみついてきた。
――竜族とは違うな。
竜族は親子の間柄が厳格で、リュウヤたちのように愛情を表に出すことがない。ティアの父親もそうで、会話といっても魔法の講義か訓戒、政治や学問などの議論くらいで笑い話などした記憶もない。だからと言って愛情が欠けているわけではなく、普段、厳格な父から掛けられる労いの言葉には温もりがあり、自分がひとつ向上したような気持ちになれたものだ。
その厳格な関係が誇り高い“竜”の品格を守る手段のひとつだと、ティアは理解しているが、リュウヤとアイーシャの垣根のない関係を見ていると、ちょっぴり羨ましくもあり寂しくもあった。
※ ※ ※
何かを耳にした気がして、ティアが顔をあげたのだが、そこには窓を背にして、リュウヤがアイーシャに読み聞かせしている光景があるばかりだった。
「……“俺を待っている者がいる”そうして、ナイト様は新たな旅へと向かうのでした」
おしまいと言ってリュウヤが“ナイトの冒険”という本を閉じると、アイーシャは「じゃあ、次の本探してくるね」とこれまで読んだ五冊の本を抱えて席から離れていった。
――気のせいか。
耳にしたものは、リュウヤの声とは違ったように思えたが、図書館の中は静寂に包まれている。ただの勘違いかとティアは再び広げた書物に目を落とし、ノートにも書き込んでいる。
ティアはリュウヤたちとしばらく町を回った後、少し早めの昼食をとってから図書館に来ていた。
来館者もそれほど多くはなく、リュウヤの読み聞かせの声量も邪魔にはならない。
ティアは自分の作業に没頭することができた。
ムルドゥバの土木や建設技術に関する書物で、一般で手に入るものではない。辺境の地から来たティアからすれば、これだけでもムルドゥバまで来た価値があると思えるものだった。
そんな熱心に読みふけるティアを、リュウヤは感心する思いで眺めていた。興味本位で積まれた内の一冊「河川堤防の浸透対策工法の一考察」という書物を手にしたものの、聞いたこともない専門用語や複雑な数式が羅列された数ページ目を通しただけで目眩がするようだった。
「たいしたもんだなあ」
一区切りついたらしく、うんと背伸びをしたティアにリュウヤが言った。
「俺が君の頃には、漫画ばっかで土木や建築技術なんて、興味もなかったし、興味あっても理解もできなかったな」
「僕もそれほどわかっているわけじゃないですよ。堤防設計の基本についてはだいたいわかっていますが、他は書き写して仲間と検討するためにやっているんです」
「……」
基本からしてわからないとリュウヤはちょっぴり惨めな思いがしたが、年長のプライドで口にはしたくないから黙っていた。
「でも、さすがムルドゥバですよね。最新の技術を惜しげもなく公開している」
ティアは次第に興奮しだしたのか、頬が紅潮させながらページを慌ただしくめくりだした。そして、あるページを開くと、嬉々とした表情でリュウヤに示した。
「これなんか見てくださいよ。ほら、“ドレン工法”でつくられた堤防」
「……」
「僕らが竜化すれば、コストもかなり削減できて行えるはずです。僕らが棲む近くに村があるんですが、毎年河が氾濫して困っているんですよ。この工法なら上手くいくかもしれない」
「でも、潜んでいるのに竜になったら、魔王軍に見つかって後が大変だろ」
「そうなっても大丈夫にしたいから、僕はここに来たんですよ」
「……」
ティアはにこりと微笑んだ。
「消極的な暮らしは、価値観や知恵を鈍く狭くさせると思うんです。魔王軍を恐れながら、いつまでも森の中で息を潜めて暮らしていくわけにはいきません。気兼ねなしに竜化できるように暮らしていかないと」
「……」
「そのために、僕ら竜族は一丸とならなければならない。“バルハムント再興”は、竜族の皆がひとつになれるわかりやすい目標なんです」
「大したもんだなあ」
リュウヤは腕組みしたまま、唸るように言った。ティアはまだ十二歳くらいの少年だが、明晰な頭脳の他に加えて、国の未来を見据えた使命感や、しっかりとした自分の意見というものが感じられた。
いくら数は少ないとはいえ、他にも大人の竜がいるだろうに、年少の彼を外へと送り出したのは、素質をよほど見込んでのものなのだろう。
「しかし、肝心のあいつが、バルハムント再興なんて興味ない上に、恨みさえ持ってるのがな」
「そうですね」
リュウヤの呟きに誰のことかすぐに察して、ティアはため息をついた。二人の頭上からぽかりぽかりと雲のようなものが浮かんでひとつに集まると、その雲の中でベッドで青い顔をして唸っているクリューネの顔が浮かんでいる。
「たしかに人の間に生まれたクリューネ姫は、バルハムントでは疎まれていました。母君を早くに亡くされてからはひとりぼっちで、辛かったろうと思います」
「……」
「ただ、物憂げに窓辺に佇む姿には気品があって……」
「気品!?」
予想外の単語が出てきたので、リュウヤはびっくりして思わず声を上げてしまった。
周囲から冷たい視線が一斉に集められ、来館者に何度も頭を下げてから声を潜めて聞き直した。
「気品て、あのクリューネが?」
「そうですよ。バルハムントにいた頃はおしとやかで、静かな物言いされる方でした」
「あいつがねえ……」
「だから、今の姫に僕もとても驚いています。あんなだらしなくてがさつなお方じゃなかったのに。花々を愛し、月の美しさを詩にされるような方でした」
「ま、あいつも生きていくために随分と苦労したしな。スラム街で暮らしていたら仕方ないよ」
嘆く素振りをみせるティアに、リュウヤは神妙な面持ちでなぐさめるように言ったが、内心では良いことを聞いたとニヤニヤしている。
帰ったら、それをネタにしてからかってやろうと、子どもじみたことを考えているのだった。




