影三つ
92話の前の話で短編です。長いですが、分割する話でもないので1話にまとめました。
夕刻と呼ぶにはまだ早い時間なはずだが、既に日差しは山の尾根に隠れようとし、弱々しい紅い光が、山の斜面や針葉樹に残った雪を照らしている。
昼はじっとり汗が浮かぶくらいの暑さがあったのだが、徐々に冷え始めた空気は春の訪れがまだ遠いことを感じさせていた。
ヤット山と呼ばれるその山は、それほど標高はないはずだが、高低が激しく、複雑に入り組む地形は余所者たちをしばしば悩ませた。何度も道に迷いかけ、休息に適した洞穴と小川を見つけたところで、陽が傾き始めてしまっていた。
次の目的地までには、まだ相当な距離がある。
暗がりの山中では道のりに不安もあったことから、その洞穴を使って野営をすることとなった。ヤット山には危険な魔物もおらず、川の水も綺麗で野営するには申し分ない。
「まあ、こんなもんかのう」
洞穴の前で鍋の火に薪をくべていたクリューネ・バルハムントは、一口鍋のスープをすすると、いささか渋い表情のままうなずいた。
味そのものに不満があるわけではなく、クリューネの中にある納得しがたい気分がそうさせていた。
一年余りの旅の間、料理当番は交代制でしているのだが、クリューネの料理は塩辛いと苦情が相次いでいた。反発したものの、「身体の内側から錆びそうだ」「心がくじけそう」とまで言われてしまっては仕方なく、塩気を減らしてみたのだが自分としてはどうも物足りない。
クリューネとしては納得いかないのだが、目の前で水で薄められるのも面白くないのでやむを得ず妥協しているのだが、クリューネ自身にはやはり物足りなく感じていた。
「おーい、リュウヤ!リリシア!飯ができたぞお!」
クリューネは鍋をお玉でカンカン叩きながら茂みの奥に大声で呼び掛けたが、森閑とした森の茂みからは鳥のさえずりが聞こえるばかりで、何も返ってこない。
「やれやれ、まだ稽古に夢中かの」
クリューネは火を消して立ち上がると、2人を呼びに茂みに向かった。茂みの先には綺麗な小川が流れていて、小川の近くに広くて柔らかな草地がある。そこで2人は稽古をしているはずだった。
クリューネはそれほど厚みのない茂みを掻き分けると、薄暗い空の下、川面を背景にして対峙する2人の男女の姿があった。
男は黒服の長身で、一見細身だが背中が広い。均整のとれた体格の割に童顔で、蓬髪で似合わない無精髭を蓄えている。対する女は小柄で黒髪のポニーテールをし、身長はクリューネとさほど変わらない。黒づくめの装束で、見るからに身軽な姿をしていた。
男は右手に竹に布や革を巻いた即席の竹刀を持ち、小柄な女の両手の拳には、分厚い包帯と布が巻かれていた。
2人の顔は既に汗と土埃で汚れていて、これまでによほどの稽古をしていることをうかがわせた。
――この一本で終いじゃな。
様子から稽古は詰めの段階と察し、クリューネは腕組みをして2人を見守ることにした。
「リュウヤ、リリシア。料理を冷まさんようにな」
それだけ言うとクリューネは口を閉ざした。対峙する2人は互いを睨み据えたまま、ゆっくりとうなずいた。
正眼から脇構えに変化させるリュウヤ・ラングに対し、徒手のリリシア・カーランドは手刀を前手にして腰を低く構えている。じりじりと2人は慎重に右へと移して、互いの隙をうかがっていた。
先に動いたのはリリシアだった。リュウヤが足下を一瞬確認した隙を見逃さず、勢いよく突進してきた。
端から見れば翔ぶように映るが、これはリリシアの間合いの広さと脚力が尋常ではないからそう見えるので、リリシアの感覚としては、一般の剣士たちの踏み込みと変わらない。あっという間にリュウヤの眼前に迫っていた。
「シッ!!」
リリシアの口の隙間から鋭いの息とともに、引いていた右の拳が唸りをあげて放たれた。包帯と布で固めた小さな拳も、他を圧するほどの迫力がある。リュウヤが上体を揺らいでかわすと、リリシアは次々に嵐のような連続攻撃を仕掛けてきた。
――良い攻撃だ。
受けるリュウヤ・ラングは冷静だった。
視線を落としたのはリュウヤの誘いであり、その誘いにリリシアは乗った。
拳や蹴りを竹刀で弾き、或いはさばき、巧みに身体を転じてリリシアの攻撃を届かせず、鋭い眼差しでじっとリリシアの動きを観察している。
「つえあっっ!!」
焦れたリリシアの右フックは勢いがあったが、焦ったために力任せとなって身体が流れた。――刹那。
ふっと風がリリシアにむかって吹いた。
リュウヤの長身が小柄なリリシアの懐に潜り込むと、飛行機投げの要領で一気にリリシアをすくい投げた。
並の戦士なら、そのまま地面に叩きつけられていただろうが、リリシアの腕前も尋常ではない。
宙でバランスを戻して着地をすると、そのまま攻撃に転じようとした。しかし、技に関してはリュウヤが一枚上手だった。
瞬く間にリリシアの間近に迫り、リリシアが身構えた時には八双から剣を振るう体勢に入っていた。
それでも咄嗟にリリシアも反撃したのだが、左の正拳を打った時にはリュウヤの竹刀がリリシアの左脇腹を的確に捉え、パシリと乾いた音が鳴った。リュウヤはそのままするりと駈け抜けて行っていたのだが、動きにまるで無駄がなく、リリシアには風が過ぎていくように感じられた。
「一本。それまでじゃな」
クリューネが言うと、急に弛緩した空気が、リュウヤとリリシアの間から広がっていった。
「飯ができたから、はよ食え」
「おう」
リュウヤは構えを解くと、額から大量に流れる汗を手で拭った。一方のリリシアは肩で息をしながら立ちすくんだままでいる。
「どうした。痛めたか」
「いえ……、問題ありません。リュウヤ様」
大量の汗が噴き出しているのはリュウヤと同じだったが、リリシアの表情は変わらない。いつものように眠たげな顔つきで、淡々としたしゃべり方をする。
「最後の左の一撃、良いパンチだったぜ。ヒヤッとした」
「ありがとうごさいます」
リリシアは頭を下げると、リュウヤはうなずいてクリューネの名を呼んだ。
「今の動きを確かめたい。先に行っててくれるか」
「あんま長くなるなよ。お前の鍛練は地味じゃからな」
「わかっているよ」
リュウヤは苦笑いすると背を向け、蹲踞の姿勢から竹刀を振るい始めた。動きを思い出すように低い姿勢のまま足を足を運んでいるが、動作はゆっくりとして、牛の歩みよりも遅い。
リュウヤは足腰に粘りをつけるために、相撲のすり足の要領で型稽古を行っていた。地味すぎてクリューネはすぐに厭きてしまったが、リュウヤには水があったらしく、太ももも一回り大きくなり、動きや構えにも以前より貫禄が増したように思える。
「行こうよ、クリューネ」
「おう」
リリシアに促され、クリューネは茂みに入って来た道を戻っていった。道は暗く、足下に目を落としながら二人は慎重に歩いた。茂みの葉と枝の擦れる音が、ざわめきを起こしている。
「それにしても不思議じゃな」
「なにが」
「お主じゃよ。私が見たとこ、既に体力身体能力はリュウヤを上回っておるに、ああもやられるかの」
ムルドゥバを発って一年近く、この間、目覚ましい上達をみせたのはリリシアだった。魔力身体能力共に以前とは比べ物にならないほどとなっている。
急激に成長するリリシアに、リュウヤは「才能が開化したな」と我がことのように喜んだものだが、リリシアはそれほど素直に喜べなかった。
どちらかといえば、違和感というものがある。恐怖とまではいかなくても強い不安といって良い。
サナダ・ゲンイチロウと呼ばれる異世界からの敵に心の隙間をつかれ、肉体と心を操られた過去があるのだが、この違和感はその時から続いている。
――自分の身体に何か起きている。
だが、リリシアにはそれを口にするのが恐ろしく、誰にも打ち明けられないまま今日まで至っている。
「その分、リュウヤ様も強くなっている。技の切れなら以前よりもずっと。最後の左の一撃。自信があったのに」
「まあ、しかし、リュウヤも今は人間の身体。魔力も相変わらず貧弱だからの。お主が“神盾”や魔法使えば展開も違うのではないかな」
「そうしたらリュウヤ様は“鎧衣”を使うだけ。結果はあまり変わらないと思う」
「“鎧衣”のう……」
鎧衣。
普段は一見、特徴もない楕円形をした小さな黒いペンダントだが、持ち主の意思に従って無数のミスリルブレートが生じ、多様に変化する魔法の鎧となる。
増幅された魔力でバリアを発するだけでなく、時には蝶の羽根に似たエネルギー波を生じさせて、空を翔ぶことも可能だった。ハーツ・メイカというレジスタンスの技術者が考案、開発したもので、バリア程度なら誰でも扱えるのだが、様々な形態に変化させられるのは、リュウヤ・ラング一人だけだった。
「今の私だと、結果は同じ」
「今は、か。これから先は違うということじゃな」
「……」
「その意地の張り方が武道家だの。リリシア……」
振り向くとリリシアの姿が消えている。急いで探すと、数メートル先で茂みに埋もれるようにしてうずくまるリリシアの姿があった。苦悶の表情を浮かべ、大粒の汗が地面を濡らしている。
「おい、どうした」
「やっぱり、リュウヤ様の一撃、重くてきつい……」
「きついなら、なにも我慢せんでも良いのに」
「……やしいから」
「え?」
「くやしいから」
「……」
「たとえ稽古でも、たとえリュウヤ様でも、闘う相手に弱いとこは見せられない」
「わかったわかった。やはりお前は武道家じゃな」
たいした意地だと苦笑しながら、クリューネはリリシアに肩を貸して立ち上がらせた。リリシアは二つほど深呼吸をして息を整えると、あと大丈夫と言ってクリューネから離れてゆっくりと歩き出した。
脇腹を押さえてはいるものの、足取りはしっかりとしている。倒れる心配はないと判断して、クリューネもリリシアの後をついて歩き出した。
「なんにせよ、明日には村に着くじゃろう。久しぶりに村でゆっくり休もうぞ」
「リュウヤ様はそんな気分じゃないだろうけど」
リュウヤ・ラングは復活した魔王ゼノキアに妻のセリナ・ラングと娘のアイーシャをさらわれ、ゼノキアに対抗できる“竜の力”も失っている。リュウヤは妻子を連れ戻すため、寝食を割いても剣の修行に明け暮れているのだが、その表情には鬼気迫るものがあった。
「だからよ」
「どういうこと」
「私らは休める時にしっかり休んで、リュウヤをサポートしてやるんじゃよ。ここ最近、魔王軍の追手が現れんとはいっても、まだ油断できんからな」
「……そうね」
ムルドゥバを離れてからの旅は、魔王軍の追手との闘いの旅とも言えた。積年の恨みを晴らすべく、リュウヤたちに追っ手が放たれ暗闘を繰り広げていた。
このヤット山付近で、ようやく追手の追撃がゆるんでいる感があった。ヤット山の先にあるスグニ山脈に入れれば、魔王軍は完全にリュウヤたちを見失う。山脈を越えれば魔王軍の領土、王都ゼノキアがその先にある――。
「……といっても、厄介なのが一人いる」
「あやつか」
クリューネとリリシアの脳裏に、一人の人物が浮かんだ。
薄い褐色肌に、後ろで結んだ長い銀髪。華奢な体つきで少女のような風貌で控えめな微笑を浮かべている。
「リュウヤとルシフィ、どっちが上と見るな?」
茂みを抜けてテントに戻ると、クリューネは鍋の火を点けながらリリシアに訊ねた。鍋自体にはまだ十分な熱があったのだが、辺りが暗くなるにつれてどんどんと冷え込んでいく。
クリューネの隣でリリシアは火に薪をくべていたが、思案するように、時折、空を仰いでいた。
「……もし十本勝負したなら7:3でルシフィが勝つ」
「……厳しいの。それほど差があるのか」
「技術では少しリュウヤ様が上。問題は体力と魔力。でも、一本目を制するのは、必ずリュウヤ様だと思う」
「長期戦ならルシフィ、短期戦ならリュウヤてとこか」
「そうね」
それから二人はしばらく無言のまま、燃え上がる焚き火を眺めていた。
少女のような風貌や仕草から“姫王子”とも揶揄されるルシフィだが、外見からは想像もできない凶暴な技でリュウヤたちは苦杯を嘗めさせられた経験がある。今は王都ゼノキアで、セリナとアイーシャの監視兼世話役として傍にいるはずで、リュウヤたちにとっては最大の難敵だと言えた。
他にも各軍団長を統べるネプラス将軍の他、多士済々(たしせいせい)の強者が王都ゼノキアに残っているが、ルシフィまでも相手にしてはまず勝ち目がない。
リュウヤが思い詰めたように修行に励むのも、ルシフィの存在がひとつにあった。
「……ルシフィをセリナさんたちから引き離す、か」
不意にリリシアが呟いた。声には不安げな響きがあり、焚き火の静かな明かりがリリシアの本音を引き出したように感じた。
「……上手くいくかな」
「上手くいくさ」
その声は後ろから聞こえた。
答えたのがクリューネではなく別の声に驚いて見ると、リュウヤがいつの間にか戻ってきていた。夜でもわかるくらいに身体中から湯気が立ちのぼり、手拭いで顔や身体を拭っている。
やがて、リュウヤはクリューネたちの向かいの石に腰掛けると、大きく息を吐いた。
「ルシフィは必ず動く」
「どうしてそう断言できる」
リュウヤが計画を打ち明けたのは五日前のことである。
リュウヤの提案は当てずっぽうの勘によるものではなく、これまでの長旅で得たレジスタンスのシンパの情報、各町や村の状況を見聞した結果、リュウヤが決断したものだ。
その時は二人ともリュウヤの決断に従ったのだが、追手の気配もあって十分に話し合いができないところもあった。スグニ山脈まで迫り、心や時間に余裕ができたこともあって、改めてクリューネたちに不安がわき起こってきたようだった。
「あいつは野心だとか功名心で動くような奴じゃない。だが、親父の危機とわかれば、すぐに飛び出してくる」
「……ゼノキアの危機か」
クリューネは腕組みしながら考え込んだ。
たしかにルシフィは陰日向のない誠実な人柄で、立場が違ったら良い友達になれただろうという実感がある。しかし、魔王の長たるゼノキア自身は独立したエリンギアとムルドゥバとの戦争に明け暮れ、最前線にあって剛壮無比な魔力と剣技で、鬼神のような働きをしているという。
果たしてルシフィが危機と感じとってくれるだろうか。
クリューネの懸念を察したように、リュウヤは古い地図を広げてみせた。現在地周辺の地図であるが、猫や犬のイラスト付きで、ところどころにメモが書かれてある。
イラストはクリューネやリリシアが気晴らしに描いたものだ。
「その鬼神がいても、ムルドゥバとレジスタンスの連合軍を崩せていない。膠着状態が一年以上も続いている。当然、魔王軍にだって焦りや疲労があるはずだ。国内も物資が不足している」
言いながらリュウヤは地図の一点を差した。小さな黒点があり、戦場となっているエリンギアと王都ゼノキアの間にあった。
“アルゼナ”と黒点のそばに、かすれた文字で書かれてある。
「補給地となっているこの町を叩けば、魔王軍は動揺する。状況を把握するために、ルシフィも文字通り飛んでくる」
「たしかに、奴の性格ならそうかもしれんな」
「かもしれないじゃない。そうなる」
リュウヤがきっぱりと断言した。
「アイツの“十二詩編協奏曲”なら、誰よりも速く到着できる。王子自ら現場で指揮すれば、動揺もおさまるだろう」
「なるほどな」
うなずくクリューネの傍らで、リリシアはじっと地図に目を落としている。
やがて、クリューネはうん大きくうなずくと自分の膝を打った。
「よくわかった。ちと不安があったもんじゃからな。つい気弱になってしまったわ」
「すまんな。俺に付き合わせて」
唐突にリュウヤが頭を下げたので、クリューネとリリシアは慌てた。
「なんじゃ、いきなり」
「いや、ここまで来られたのもお前らのおかげだ。俺ひとりじゃ無理だった」
「ふん。スグニ山脈も越えにゃならんに、まだ気が早すぎるわ」
「そうです。セリナさんとアイーシャちゃんに、無事に会えてから言ってください」
「久しぶりにゆっくりできる時間ができたから、今のうちに一言言っておきたかったんだよ」
「まあいい、飯じゃ飯」
打ち切るようにクリューネは手を振り、皿にスープや具を大量に載せ始めた。リュウヤの言葉には悲壮感が溢れ、ある種の遺言のようにも聞こえた。クリューネとしては、リュウヤから辛気くさい台詞など聞きたくもなかった。
「ほれ、たんと食って力養え」
具をたっぷり盛った皿をリュウヤに渡すと、小さくいただきますと言ってスープをすすった。
「今日は格別に美味いなあ」
満面の笑みを浮かべるリュウヤは子どもようで、思わず頭を撫でてあげたくなるほどの明るさが溢れていた。
「こんなくらいで良いなら、いつでもつくってやるわ」
憎まれ口を叩くように、ふんと鼻を鳴らすクリューネであったが、心は幸福感に満たされていた。
※ ※ ※
数日後。
ヤット山山中。
西方から流れる強い風が森の木々を揺らし、ザザと木々の枝や葉が擦れて、森は一斉にざわめきを起こした。
流れる雲が月を隠して森が闇の底へと沈む中、闇とざわめきに紛れ、金属同士が衝突したような耳障りな音が響くとともに、闇の中で火花がひとつふたつみっつと激しく散った。
火花に照らされ、二人の男が闇の中で浮かび上がる。一人は黒髪の髭面。もうひとりは銀髪。二人ともつくりは異なるものの、黒衣に身を固めていた。
森の中を目まぐるしく駈ける両人はとも若く、剣を把持していた。
二人が刃を交えて戦っているのは明白だったが、違いは髭面の男が把持する剣の刀身は、透き通るような美しさを持っていることと、銀髪の男が激しく息を乱して血だらけに対し、髭面の男は軽く息がはずんでいるだけで動きに余裕がある。
――“竜の力”を失い、ここまでとは……!
銀髪の男は驚愕しながら、悪夢のような斬撃をからくも凌いでいる。
目の前の男は、紅竜ヴァルタスの力を失い、もはや恐れる存在ではなくなったはずだった。
――“リュウヤ・ラング”は取るに足らぬ存在。
それが魔王ゼノキアをはじめとして、魔王軍の共通した認識ではあった。しかし、圧倒的な剣技を前にして、銀髪の男はただの思い込みをしたいう激しい後悔と、一刻も早い報告という焦燥の念に駈られていた。
だが、逃れようとしても、髭面の男――リュウヤ・ラング――の粘りのある剣が容易に逃さない。
そして銀髪の男を逃さない理由はもう一つあった。
――あの光の羽根……!
リュウヤの背中から一瞬光が生じ、動きを加速させる。
加速する瞬間、スモールシールドくらいの大きさをした無数の黒い楕円形の物体が、リュウヤを囲んでいるように見えた。それが魔法なのか会得した技なのかは判然としなかったが、緩急使い分け巧み加速させるリュウヤは、銀髪の男の間合いをことごとく潰している。そのことで戦いの主導権を奪われてしまっていた。
既に仲間が一人斬られ、自身もこうして追い詰められている。
『シャアアッッ!!』
堪えかねたように、銀髪の男が咆哮しながら突撃した。全身傷だらけではあっても、火を噴くような勢いがあった。だが、リュウヤは平静に腰を落とし、脇構えで身構えている。
『ダアアアッッッ!!』
銀髪の男は踏み込み様、上段から猛然と剣を振るった。
銀髪の男にとって捨て身の一撃だったが、覚悟を嘲笑うように、ブンと虚空を斬る音が空しく鳴った。
『なに……!?』
消えた。
敵を見失う一瞬前に、羽根が舞うの見た気がした。だが今は蒼い光の麟紛が視界に漂っているだけだった。
行方を探そうとした次の瞬間、銀髪の男は腹部から伝わる重い衝撃と焼けるような激痛によって吹き飛ばされ、近くの樹の幹に叩きつけられていた。
その根元には、もうひとり銀髪の男と同じ髪をした男が横たわっている。
「……うまく片付いたの、リュウヤ」
後ろから女の声がした。
女の声だった。
リュウヤは銀髪の男を見据えたまま、ああと短く答えて剣を納め、しゃがみこんで鼻腔を探った。
「五人相手はさすがに不安じゃったが、うまく分断できたの」
「クリューネ、そっちはどうだ」
男たちの息が絶えたのを確認し終え、ようやく髭面の男が立ち上がりながら振り向くと、クリューネとリリシアの二人が立っている。二人とも、闇よりも濃い漆黒のローブを羽織っていた。やがて月を隠した雲が去り、月光がクリューネの金色の髪とリリシアの艶のある黒い髪を、鮮やかに照らした。
「心配するな。三人とも逃さず、谷底でオネンネしとる」
「他に追っ手は」
「ありません」
リリシアが抑揚のない声で告げた。
「奴ら、よほど動揺したんじゃろな。不用意に戦うか、逃げて応援を呼ぶか相談しておったぞ」
リュウヤはよしと大きく頷いた。
「なら、これで魔王軍は俺たちを完全に見失ったはずだ。このままスグニ山脈を越えるぞ」
「ああ、セリナとアイーシャが待っとる」
クリューネが励ますように言うと、リュウヤは再び大きくうなずいて身を翻して歩きだした。クリューネとリリシアもフードを被り直してリュウヤの後に従ってついていく。
やがて三人の影が闇の奥に消えると、いつしか風のざわめきも小さくなっていき、森は何事もなかったように静けさを取り戻していった。
番外編「影三つ」完




